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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:承久の乱後の土御門上皇の土佐配流について  )

承久の乱後の土御門上皇の土佐配流について

このQ&Aのポイント
  • 土佐配流の背景や経緯について調べましたが、資料によって情報が異なることが判明しました。
  • 一部の資料では、土御門上皇が配流を望んだとされていますが、他の資料では特に罪に問われることなく自発的に配流を選んだと述べられています。
  • そのため、土御門上皇がなぜ自ら配流を選んだのか、背景や事情については明確な情報が得られていません。

質問者が選んだベストアンサー

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  • D-Gabacho
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回答No.2

たしかに、都にいたくないという気持ちはあったかもしれません。 土御門上皇の母、源在子のWikipediaによると、慈円『愚管抄』は、在子が養父である源通親と密通したため後鳥羽上皇は修明院重子(土御門の弟、順徳上皇の母)を寵愛するようになったとし、美福門院の例に似ているとしており、この記述は土御門の父が源通親であるとも解釈できるそうです。「実は天皇の子ではないのでは?」というようなことをいわれていたのだとしたら、都にいたくなくなるのも無理ありません。 源在子 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%90%E5%9C%A8%E5%AD%90

noname#247736
質問者

お礼

ありがとうございました。 oska2さんのご回答と併せて考えると疑問が少し解けてきたような気がします。 「実は天皇の子ではないのでは?」というようなことをいわれていたのだとしたら、都にいたくなくなるのも無理ありません。……今風の「いじめ」でもないと思うのですが不思議な行動ですね。

その他の回答 (2)

  • oska2
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回答No.3

>討幕計画に消極的だった土御門上皇はみずから望んで土佐に配流された。」とありました。 確かに、現存する資料には同じ事が書かれていますね。 >この私の気持ちは、単なる「邪推」でしょうか??? この気持ちは、個々によって異なるでしようね。 ただ、土御門上皇は土佐に流された後で「阿波国で生活」していますよね。 幕府の配慮で、京に近い阿波国に御所を建てて土御門上皇を迎えています。 この御所があった地は、「御所屋敷」という地名が残っていて「井戸」も残っています。 また、崩御の後は(鳴門市大麻町池谷で)荼毘にされ「土御門帝火葬塚」が残っています。 この事を考えると、土御門帝は朝廷・幕府の争いに飽き飽きしたのでしようね。 「この闘争は、うんざりだ」 「政争からの逃避」が、本当の理由かもね。 余談ですが・・・。 宮内庁公認で、四国には3名の天皇が荼毘にされています。 安徳天皇(阿波)・崇徳上皇(讃岐)・土御門上皇(阿波)。 地元の伝承は、教科書とは180度異なります。^^;

noname#247736
質問者

お礼

幕府の配慮で、京に近い阿波国に御所を建てて土御門上皇を迎えています。……これも不思議なのです。 ただ、「倒幕運動にはかかわっていなかった」ということは分かるような気がします。 「政」よりも「性」が……そのことを幕府が理解してあげたのかとも。

  • SPS700
  • ベストアンサー率46% (15297/33016)
回答No.1

 これは、全くの憶測ですが、  都は都雀の囁きの巣、都にいるということはプライバシーがないということですから、両上皇もいなくなったし、田舎にでも行って羽を伸ばそうと思し召したかも

noname#247736
質問者

お礼

ありがとうございます。 都は都雀の囁きの巣、都にいるということはプライバシーがないということですから、……そうでしょうか???昔も、そしておそらく今も、田舎の方が、「プライバシーはない」という気がしています。

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