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陸援隊の設立日は?
- 陸援隊の設立日は、ウィキペディアの情報によると1867年8月28日(慶應3年7月29日)であり、土佐藩の中岡慎太郎が京都で倒幕浪士軍「陸援隊」を組織しました。
- また、別のウィキペディアの情報によると、陸援隊は1867年6月27日に薩土討幕の密約に基づき中岡慎太郎によって組織されました。陸援隊は、幕末期の武力討幕のための軍隊であり、土佐藩出身者で構成されていました。
- 両方の情報から判断すると、陸援隊の設立日は、ウィキペディアの年表によれば1867年8月28日であり、個別の説明によれば1867年6月27日ということになります。どちらが正確な設立日なのかは明確ではありません。なお、2つの日付について旧暦と西暦の関係については明示されていません。
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・Wikipedia>中岡慎太郎-生涯 項目中 「6月27日、かねてから長州で見聞していた奇兵隊を参考に陸援隊を組織し、 自ら隊長となり、白川土佐藩邸を陸援隊の本拠地と定める。…」の記述に関し、 仮に白川土佐藩邸を陸援隊の本拠地と定めた日を指すとすれば、 『行々筆記』(=中岡慎太郎日記)※孫引 http://nskanzo.cocolog-nifty.com/blog/2011/08/post-a020.html 「七月二十七日 晴。甲子太郎(伊藤)〇江安しらべ〇白川邸定る 〇此夜小林方に宿す〇今朝深瀬上著〇今日雨少々降る〇今日将軍上京。」 の「〇白川邸定る」の記録と、 あと『中岡慎太郎/尾崎卓爾著/陽明社印刷所/大正15』 http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1020515/145 <144~149/209>(259~268頁)「愈々陸援隊成る」文中 <145/209>(261頁5・6行目) 慶応三年七月廿七日の『(保古飛呂比)佐佐木高行日記』引用箇所 「…石川誠之助の申立にて、白川邸へ浪人を差置く事を許せしなり。…」などから 「(和暦)慶應三年七月二七日(西暦1867年8月26日)」は揺るがないようなので 和暦・西暦を問わず6月27日の記述は誤りの可能性が高いように思います。 ・Wikipedia>陸援隊 項目中 「陸援隊(りくえんたい)は、幕末期の1867年(慶応3年)6月27日、 薩土討幕の密約に基づき土佐藩出身の中岡慎太郎によって組織され、 活躍した武力討幕の為の軍隊(浪士隊)である。」の記述に関し、 陸援隊が中岡慎太郎によって組織された日を指すとすれば、 『維新史料綱要 巻7/維新史料編纂事務局/昭12至15』 http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1046681/105 「慶應三年七月二九日」中の<105/259>(198頁2~4行目)には、 「高知藩中岡愼太郎、京都白川高知藩邸ヲ本陣ト爲シ、諸藩ノ浪士 ヲ招集シテ、陸援隊ヲ組織ス。」とあり、その引用史料として、 「中岡愼太郎手記 維新土佐勤王史 田中青山伯 伊達宗城在京日記」 などが列記され、また『行々筆記』(=中岡慎太郎日記)※孫引 http://nskanzo.cocolog-nifty.com/blog/2011/08/post-a020.html 「七月二十九日 朝白川邸に移る着到十一人是より追々着。今夕才谷下阪の事。」 などの記録から、陸援隊が本格的な組織としての体をなしたのは、 「(和暦)慶應三年七月二九日(西暦1867年8月28日)」とするのが妥当かと… ただ、設立日が何を指すかによっては、 設立日=「(和暦)慶應三年七月二九日(西暦1867年8月28日)」か否かは何とも… 例えば、 ・ネットで百科@Home『世界大百科事典』「陸援隊」項目(池田敬正氏)によれば、 http://www.mypaedia.jp/netencyhome/ 1867年(慶応3)京都で土佐藩の中岡慎太郎によって編成された討幕組織。 中岡慎太郎が坂本竜馬とともに脱藩の罪を許されたのは67年2月で、 土佐藩は4月に竜馬を海援隊長に任ずるとともに、 慎太郎を陸援隊長とし在京官に属せしめるとした。… …彼が実際に陸援隊を組織したのは7月29日佐々木高行の許可を得て京都白川の 藩邸に寄宿してからで、彼は土佐藩の援助を得て諸藩出身の浪士を集め、 討幕の挙兵にむけて組織的訓練をはじめた。… ・コトバンク>『朝日日本歴史人物事典』「中岡慎太郎」項目(井上勲氏 )によれば、 http://kotobank.jp/word/%E4%B8%AD%E5%B2%A1%E6%85%8E%E5%A4%AA%E9%83%8E 「…同3年2月、脱藩の罪を許され、土佐藩より陸援隊隊長に任命される。 竜馬の海援隊に対しての陸援隊である。…」などと、 上記では「土佐藩は4月に…ともに、慎太郎を陸援隊長とし在京官に属せしめる」とか 「土佐藩より陸援隊隊長に任命される。」などの記述があり、 『維新土佐勤王史/瑞山会編/富山房/大正1』によれば、 http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/946491/620 当時「坂本の中岡と馬關(下関)に會するや、 本藩をして京師にも浪士を保護せしめんと謀る、 即ち長岡謙吉に命じ、左の草案(※いわゆる「陸援隊、海援隊約規」)を作り、之を後藤及び 福(福)岡に示せしに、共に善しと稱するも、未だ之を實行するには至らざりしなり」と、 海援隊と共に既に「陸援隊」の名称・約規など慶応三年四月頃には存在したようですが、 私の知識不足&時間不足により今回の検索等では「土佐藩より陸援隊隊長に任命」 「慎太郎を陸援隊長とし在京官に属せしめるとした」事の 明確な日付等の裏付けは取れませんでした。 ほか参考URL 『行々筆記』(=中岡慎太郎日記)※孫引 (慶応三年 1867)二月~六月 http://nskanzo.cocolog-nifty.com/blog/2011/08/post-0d40.html http://nskanzo.cocolog-nifty.com/blog/2011/08/post-93eb.html http://nskanzo.cocolog-nifty.com/blog/2011/08/post-cd73.html http://nskanzo.cocolog-nifty.com/blog/2011/08/post-29bb.html http://nskanzo.cocolog-nifty.com/blog/2011/08/post-1a9c.html 『維新風雲回顧録/田中光顕著/大日本雄弁会講談社/1928.8版』 http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1917793/195 以上 後半歯切れの悪いカキコミで申し訳ありませんが、 少しでも疑問解消の糸口に繋がれば幸いです^^
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- sporespore
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新暦:A.D.1867年(慶応3年)8月28日 水曜日 旧暦:慶応3年(A.D.1867年)7月29日 この差ではないでしょうかね: 慎太郎は土佐藩を武力討幕へと誘うべく乾退助らを西郷や大久保に引き合わせ、「薩土密約」を周旋し海援隊に遅れる事数ヶ月、「陸援隊」を組織するに至ります。 その屯営は洛東白川村の土佐藩邸で慶応ニ年に藩兵上京の際、駐屯させる為のものでしたが、不便な為に放置されていたものを使用。薩摩藩兵学者の鈴木武五郎を迎え隊士に洋式銃隊訓練をさせ、十津川郷士隊五十人を繰り込み調練を試みるなどし、いよいよ討幕への準備を進めて行きました。(実際に屯所へ移ったのは、七月二十九日で「行々日記」にその記述がある。)