- ベストアンサー
承久の乱幕府軍19万?
承久の乱幕府軍19万とwikiに書かれていますが、本当ですか?関ケ原の戦い並みの兵力ですが。元寇で嵐が来なかったとしても負けるはずがないですね?
- みんなの回答 (3)
- 専門家の回答
質問者が選んだベストアンサー
wikiでは「『吾妻鏡』によれば最終的には19万騎に膨れ上がった。」との記述ですね。 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%89%BF%E4%B9%85%E3%81%AE%E4%B9%B1 吾妻鏡は、「編纂当時の権力者である北条得宗家の側からの記述であることや、あくまでも編纂当時に残る記録、伝承などからの編纂であることに注意は必要なものの、」および「編集者の姿勢には偏りがあり、源氏三代に対する評価はしばしば手厳しいが、北条得宗家の活躍は強調される。この傾向は特に北条泰時に関する記述に著しい。」とのことなので、誇張して書いていると思われます。 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%BE%E5%A6%BB%E9%8F%A1 元寇での勝敗とは別です。
その他の回答 (2)
- eroero4649
- ベストアンサー率32% (11082/34532)
そういうのは今も昔も誇張するのが世の常です。 そもそも19万人もいたら、当時の人は1日で6合(!)も食べていたそうですから、1日で171トンもの米が必要になります。俵で換算すると、2850俵。これ、1日だぜ。 そのお米を炊くだけの薪も必要なら、水も必要。19万人もいたら馬も相当な数なので、その飼葉も用意しなければなりません。ちなみに人間は米さえあればなんとかなりますけれど、馬はそういうわけにいかないので、飼葉を用意するほうが(人間より)大変なのです。 源頼朝が平家への反乱を始めたとき、ドラマ「鎌倉殿の13人」では駆け付けた武士が3人とか5人とかその程度で描かれましたが、それは「時代考証になるべく忠実にしたリアルな表現」だったらしいです。その周りのいわゆる「家人」と呼ばれる人たちを含めてもせいぜい20人いたかどうかといわれています。これは「ヤクザのカチコミ」といったほうがふさわしい人数です。実際、そんなようなものだったのでしょう。 その後の石橋山の合戦では300騎集まったといいますが、これとても誇張された数だといわれています。 だから実際は、家人含めても数千人だったと思います。でも千人集まっただけでも結構なものだったと思いますね。 当時は宿場町のようなものも十分に整備されていませんでしたから、それこそ「どこで寝るんだ問題」もあるわけです。キャンプ道具一式に加えて鎧や武器も持っていくとなると、ほんの4~5人でも大変な荷物ですよ。当時はまだお金(貨幣)というのが全国に普及していませんでしたから、食料が欲しいときにどうやって手に入れていたのでしょうね。略奪するにしたって、畑で作物が実をつけてないと略奪もできませんからね。
- gunsin
- ベストアンサー率32% (417/1292)
戦記物の記述は軍勢の数を誇張して書くのが常ですね。 東海道、東山道、北陸道の三方から攻め上ったので、吾妻鑑の 記述に近い軍勢が集まったと思われます。 領地を与えるの実利の約束の前には朝敵の汚名は何のそのでしょう。 蒙古襲来の時は、白村江の戦で大敗後、唐軍に備えて土塁などを 強固にするなど防御を強化しました、これが大いに役立ったのです。 蒙古軍は博多の街を焼いただけで、山奥には攻め込る事が出来ま せんでした、平原での戦いは強いが山地の戦は不慣れなのです。