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承久の乱について
朝廷と幕府の戦いですが、そもそも朝廷が幕府に征夷大将軍という権威を与えているわけですから、「もう征夷大将軍の権威は取り上げるよ」と一言言えば済むのではないかと疑問です。 もちろんそうでなかったからこその歴史なのでしょうけれど、その辺の事情を知りたいです。 ご教示ください。
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>そもそも朝廷が幕府に征夷大将軍という権威を与えているわけですから、「もう征夷大将軍の権威は取り上げるよ」と一言言えば済むのではないかと疑問です。 実際に戦う在地の武士は鎌倉幕府より承認を受け地頭となり、土地を支配しているのです。 そもそもこの土地の多くは公家や皇族の荘園です。ですから上皇側が勝ってしまうと自分が現在地頭として支配している土地はとりあげられてしまうのです。 ですから在地の武士としては権威より自分の土地支配を認めてくれる鎌倉幕府のほうが大事なわけです。実利を優先せざるをえません。 逆に言うと上皇側が勝つためにはこういった細かい在地の武士を味方に付けねばなりません。とはいえ自分らの荘園を取り戻す戦で在地の武士が現在支配する昔の荘園を取り返さないというのも無理があります。さらに当然こういった場合恩賞として北条領をかたっぱしから各武士に恩賞として配ることを約束してしまうべきなのですが、その多くは東国・鎌倉幕府が支配するエリアにあるので果たして実効性のある約束に見えるでしょうか?そしてそもそも東国武士と東国の支配図に明るい人材が上皇側にいたでしょうか?この辺が根本的に無理があったように思えます。 人は強きに流れる・権威に流れる、時と場合により両方あるでしょう、ですがもう一つ、人は利害を共にする側に流れる、これも大原則です。
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- ichikawa2017
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>「もう征夷大将軍の権威は取り上げるよ」と一言言えば済むのではないかと疑問です。 当時の鎌倉幕府の征夷大将軍は皇族が勤めていて政治上の実権は征夷大将軍の補佐役であった執権北条氏が握っていました。 最後の武家の征夷大将軍であった実朝が暗殺された直後の時期であればご指摘のようなことで政権を朝廷に戻すことはでた可能性は充分ありました。 北条氏が手を打って征夷大将軍を形式的なものにしてしまった後では征夷大将軍の権威は取り上げると言っても北条氏が実権を握る鎌倉幕府はビクともしませんでした。 詳しい経緯は下記をご参照下さい。 参考 宮将軍 - Wikipedia http://ja.wikipedia.org/wiki/宮将軍 >その辺の事情を知りたいです。 承久の乱が起きる前までは朝廷は主として西国、鎌倉幕府は主として東国を統治していました。 平たく言えば鎌倉幕府が統治していた東国も朝廷の統治下におこうとして後鳥羽上皇が挙兵したのが承久の乱でした。 平安時代以降の京都朝廷は世界史上も希有な軍隊を持たない中央政府でした。 後鳥羽上皇が急遽呼び集めて結成した武士団は急拵えの連合軍でした。 軍隊としての最高司令官を欠き各々独自に戦闘を行いましたので一つの軍隊として北条泰時を総大将として戦闘に臨ん鎌倉方に個別に撃破されてしまいました。 つまり朝廷対鎌倉幕府というよりも西国の寄せ集めの集団と命令系統が整った東国の軍団との戦だったということです。 言うなれば平和ボケして権威と権力を一つにして考えるお公家さんと戦を生業として実力本位の武士との戦だったということです。 西国で集まった武士も上皇の命令があれば誰もがひれ伏して味方すると考えていました。 蓋を開けて見ると上皇の権威など通用しない実力本位の鎌倉武士には上皇側へ寝返る武士がいないことで慌てました。 詳しくは下記のURLをご覧下さい 参考 鎌倉方はなぜ承久の乱に勝てたか - 玉川大学・玉川学園 http://www.tamagawa.ac.jp/sisetu/kyouken/kamakura/joukyu/index.html
お礼
>最後の武家の征夷大将軍であった実朝が暗殺された直後の時期であればご指摘のようなことで政権を朝廷に戻すことはでた可能性は充分ありました。 そうなんですね。今の政治でもそうですが、タイミングを逸してしまうと、事を為せなくなってしまうわけですね。
- notnot
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後鳥羽上皇は、幕府打倒ではなく北条義時を討つという名目で兵を挙げています(これは史実)。なおこのときは征夷大将軍は不在です。実朝死後、摂家将軍三寅の任命前。 それまでの頼朝、頼家、実朝は、朝廷融和型で、娘を後鳥羽天皇の后にしようとしたり(頼朝)、公家から妻を迎えて右大臣に任じられたり(実朝)してます。 北条氏が力を持つことに反感を持った武士が朝廷側に付いたということもあり、本来の目的は北条氏排除だったのではと言うことになりつつあるようです。 公家だけと武士では戦いになりません。反北条の武士が大勢いたので戦いになったのです。
お礼
征夷大将軍は不在だったのですね。 ご回答ありがとうございました。
- nagata2017
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それは現代でもよくあることですが いわゆる 文官と武官のちがい。 圧倒的パワーを持っている武官が文官の言うことを無視して力を行使すればいいわけですから 軍事政権というものが現代にも存在するのです。 日本人の女性ジャーナリストが軍人により公然と殺害されたのも 軍事政権下のミャンマーでした。 朝廷と幕府では 持っている軍事力が大きく違います。 質問の承久の乱により 朝廷の持っていた軍事力はゼロにされてしまいました。 それまでは 北面の武士 など直属の軍事力は持っていたみたいですけど。
お礼
軍事政権という現代のワードで説明していただいたので、しっくりきました。 ご回答ありがとうございました。
- あずき なな(@azuki-7)
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はい だからこそ承久の乱は起こったのです 上皇が「源氏は将軍ににふさわしくない」と言って将軍の座を奪い取ろうとしました それに反発して起こったのが承久の乱ですから 現に朝廷はそのあと源氏から将軍の座を取り上げ 身内の親王を将軍に据え 幕府は北条氏が勝手に「執権」と名乗って 幕政を取り仕切りました 同じような事は足利幕府 徳川幕府の時代にも起きてますね
お礼
ご回答ありがとうございました。 学生の頃好きでなかった歴史が大人になって少し興味を持つようになって最近動画を見たりなどしているのですが、そうしているうちに疑問にあがったものでした。 皆さんのご回答で時代背景を理解できたように思います。
お礼
>人は強きに流れる・権威に流れる、時と場合により両方あるでしょう、ですがもう一つ、人は利害を共にする側に流れる、これも大原則です。 ご回答ありがとうございました。 時代背景の理解を深められました。