• 締切済み

承久の乱

1221年、日本の歴史を大きく変えた大事件「承久の乱」が起きます。結果は幕府軍の圧勝で、朝廷の権力は抑えられ、以後明治維新まで武家社会が続きます。 そこで皆さんにご質問です。もし、承久の乱で幕府軍が負けていたらその後の日本はどうなっていたでしょうか。承久の乱の約50年後に蒙古軍が襲来してきます。大げさに言えば今の日本国は無いかもしれないなど、蒙古襲来にからめてお答えいただけたら幸いです。

みんなの回答

  • oska2
  • ベストアンサー率44% (2301/5118)
回答No.4

>承久の乱で幕府軍が負けていたらその後の日本はどうなっていたでしょうか。 武士が、朝廷が指名・任命した将軍職の下で「朝廷の軍隊」となったでしようね。 つまり、明治維新から1945年までの政治と同じでしよう。 が、貨幣経済でないので「武士に給与を払う事が出来ない」ので内乱が起きます。 群雄割拠の戦国時代が、早く始まったでしようね。 >承久の乱の約50年後に蒙古軍が襲来してきます。 蒙古襲来となっていますが、実際は「高麗襲来」ですよね。 元軍は、着ていません。 高麗国王の(元皇帝への)進言で、高麗が軍船・武器・食料などを自前で準備して日本侵略を行ったのです。 元の記録・高麗の記録を読めば、誰でも分かります。 ※韓国の正しい歴史教科書には、一切記録はありません。(爆笑) >蒙古襲来にからめてお答えいただけたら幸いです。 先ず、鎌倉幕府が倒れる原因の一つが蒙古(高麗)襲来ですよね。 各地の武士は「自前で経費を使って参戦」しましたが、期待した恩賞が無かった。 ※幕府も、恩賞として与える土地が無い。 幕府傘下の武士でも朝廷傘下の武士でも「恩賞を貰う事は出来ない」のです。 結果、力のある武士は「近隣を攻撃して支配地を増やす」事になります。 戦国時代到来ですね。 朝廷は「宗教的な存在」として、倒される事はありません。 力のある武士・語族による、天下統一が始まります。^^;

  • ithi
  • ベストアンサー率20% (1972/9602)
回答No.3

nekoinudaisuki さん、こんばんは。 承久の乱で上皇方が勝利するということは莫大な平家没官領を中心にした、鎌倉幕府の領地や執権北条一門や幕府に味方した御家人たちの所領が宙に浮くわけですから、後鳥羽上皇や順徳上皇、そしてその院の近臣や公家たちに莫大な所領の分割があり、それから北面の武士や西面の武士に恩賞が与えられ、あとは御家人の中から裏切り者から行賞にあずかるものが出てくるという仕組みですね。まあ、建武の親政を100年早くやることになるでしょうが、結局、不満が武士側から出て、戦国時代になってしまうかもしれません。なぜなら、公家なんて所詮は兵力にはならないからです。表立って戦うのは武士ですからね。 蒙古が来た時にはそのまま対抗できず、武士の側から裏切り者まで出るかもしれません。

  • hekiyu
  • ベストアンサー率32% (7193/21843)
回答No.2

武家政権で運が良かった、という面は あると思います。 当時の武士は、日本史上体格も非常に優れ 戦闘能力が大きかったと言われています。 元寇の撃退にしても、実証研究が進み、 神風の威力はさほどでもなく、日本軍が善戦した ことが判明しています。 貴族政治だったら戦争にならなかった、という 説もありますが、どうでしょう。 元寇は、時の朝鮮王「忠烈王」が渋るモンゴルを 説得してやらせた、という資料が残っており 公家外交でも、結局元寇は防げなかったのでは ないでしょうか。 このように考えると、武家政治でなかったら 日本は存在せず、朝鮮領になっていた可能性すら あると思われます。 それで話しは幕末に飛びますが、中国など文人政治を やっていた国は、列強に対する認識が甘く、 植民地化されてしまいました。 日本は、武家が政治をやっていたので、軍事的危機に敏感だった ということはあったと考えています。

  • eroero4649
  • ベストアンサー率32% (11082/34531)
回答No.1

日本の朝廷、公家勢力というのは自前の戦力を一切持っていません。いうたところで武士を代理に戦わせていただけです。「本社機能はあるけれど、工場も販売網も持たない会社」みたいなものですよ。 後鳥羽上皇側に乗っかっていたのは、源氏勢力です。だからもし承久の乱で朝廷側が勝っていたら源氏の発言力が極めて大きくなったことでしょう。当然どのみち朝廷・公家勢力にとっては面白くない展開になります。するとまた今度は似たような戦いが起きて、結局いずれかの戦いで敗北することとなったでしょうね。だって自前の戦力を持ってないのだもの。来てくれる人がいなけりゃそれまでよ。 これがシナリオ1、「北条の時代ではなく、源の時代になった」というパターンです。どのみち「武士の時代」には変わりないですね。 公家勢力との軋轢を緩和するとしたら、武家が公家に取り込まれていくことになるしかないでしょう。公家の各家に武士の血が入るのです。最終的には「武家の血を引く天皇の誕生」ということになりますね。 これがシナリオ2、「公武合体」パターンです。しかし結局武士が国を動かすことには変わりません。 何がいけないって、天皇家及び公家衆に実力(戦力)がないのがいけないのです。公家が自ら戦力を持てば、我が実力をもって日本を統べることができますね。 これがシナリオ3、「公家の武士化」です。こうなれば一応公家が歴史を動かすこととなりますが、しかして結局武士化した公家は武家みたいなものですから、武家の時代になることは変わらないですな。 結局のところ、戦いになるからいけないのです。戦いをやめればみんなでまた仲良くやっていくことができます。しかしそうなるためには相当なカリスマ性を持った人が登場しなければなりません。そんなことができるのは、あの人くらいではないかなと思います。 これがシナリオ4、「青い服を着た少女が王蟲(武家)の暴走を止める奇跡を起こす」パターンです。 ちなみにいわゆる元寇についてですが、元からの使者が来て「我々は中国の王朝、元である。(形だけでいいから)臣下の礼をとれ」といわれたのに外交オンチの幕府が「元?はて、聞いたことがない国ッスね」と断ったのがきっかけです。だから北条家の幕府じゃない政府が元に対して形式上だけでも臣下の礼をとっていれば元寇そのものが起きなかったと思います。 またその元寇そのものも、近年の研究で「なんか通説と違うっぽくない?」というのが主流になっています。 元寇というと教科書にも載っているあの有名な絵がありますよね。馬に乗り突撃する武士と、弓を撃つ元軍兵。実はあの弓を撃つ兵士は「後から書き加えられた」ということが分かっています。じゃあ元はどんな絵なのかというと、弓を撃つ兵の向うに敗走する兵士が描かれていて、要するに原画は「逃げる元軍に追撃をする武士の図」なのです。あの「てつはう」も攻撃兵器ではなく、退却するときに爆発させて驚かせて敵の追撃を足止めするための兵器だったのです(日本側資料にも撤退するときにてつはうを使うと書いてあります)。 また第一回侵攻の文永の役での嵐による元軍の損害も、通説ほどではなかったという説も有力視されています。どうも嵐に遭ったことを口実にさっさと撤退したらしいんですね。「慣れぬ上陸作戦で橋頭保を築けないまま嵐に遭ったので、無理をしないで帰った」のが現実のようです。 第二回の弘安の役のときは大軍が動員されましたが、その多くが朝鮮兵と元南宋軍の兵士で、要するに彼らは無理やり動員させられたので士気が著しく低かったようです。それでまた嵐に遭って「もうやだ」と士気崩壊して撤退したという説が強くなっています。 最後に蛇足すれば、このときの日本軍(幕府軍)側の将兵は「ここで勝てば恩賞がもらえる」という期待が高かったので元軍(の中の朝鮮兵と南宋兵)に比べるとやる気満々だったのです。ところがその侵攻を食い止めたに関わらず与える恩賞がなかった(攻め込まれるのを防いだだけだから与える土地がない。武士にとって恩賞とは土地が与えられることです)のでこれが武士たちの猛反発を招き、北条政権を揺るがせるわけですから皮肉ですね。 というわけで、「歴史にIFはない」といわれるのはまあこういうことなんですよ、と。

関連するQ&A