紀貫之が日記を書いた年がたまたまそうだったのでしょう。
陰暦の場合にはひと月は大の月(30日)小の月(29日)の二種類でした。
しかも毎年その並びが変わりました。
旧暦の月の大小の並び・・・その1 - こよみのページ
koyomi.vis.ne.jp/doc/mlwa/201202090.htm
注)
現在高島易断などで出版されている暦に使われている旧暦は度々変更が加えられた後のものです。
紀貫之が土佐日記を書いた頃とは若干異なっていますので注意して下さい。
旧暦は一年間の日数が変わりました。
354日であったり384日だったりしました。
現在のように365日で閏年が四年に一回というのではなく、閏月と呼ばれる月をひと月分纏めて付け加えたりつけなかったりしていました。
古文を読まれる場合には閏〇月という表記がよく出てきます。
例えば六月の翌月に閏六月と表記されて現代の感覚で言えば六月が二回あるということになります。
何月に閏月を加えるかは毎年変わっていました。
この暦を決めるのが朝廷の権限でした。
明治になって太陽暦が採用されるまでは一定の計算ルールに基づいて朝廷が決めていました。
江戸幕府も口出しはできませんでした。