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怒鳴ったり、恐怖を与えないと、言うことは聞かない?
小・中学校の教師のブログを読んでいて、大変な教育現場に胸を痛めています。 崩壊してしまうと、怖そうな若手男性であったりベテランの教師に代わりますね。 自身が子供の頃は、よく怒鳴る教師に当たる事がありましたが、教師に非はないとわかっていても、いい気持ちはしませんでした。 乱暴な彼らに対して、懲らしめてくれて有り難うという気持ちもありました。でも、もし彼らが本当に理解したとすれば、教師が何度も怒鳴る必要はなかったでしょう。 その教師が、なめられない、というのは確かかもしれません。 でもいないところで同じことを繰り返すのであれば、意味がないのと同じだと思います。 彼らには、怒鳴ったり、その他精神的な恐怖をちらつかせて教育してかなくてはいけないのでしょうか。 効果はあるのでしょうか。 対話して、話が通じるなんてことはあり得るのでしょうか。
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- Dr_Hyper
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今、日本人の「普通」になるために、教育機関はその期待に添えるような子供を育てようとしますよね。当然読み書きはできる。九九はできるし因数分解もできて当然。だって義務教育で決められているから。でもそれはもう少し前の時代のことのようです。 すごく言葉がわるいですが、例えば数学が苦手な人は、数学の障害者だと言われる世界だとしましょう。もしこれを認めてしまえば、日本から強制的な教育、軍隊的な詰め込み、スパルタ教育は減るはずです。 みんなハンディがあって、それが個性だからと言えるからです。数学ができなくても生きていけます。九九ができないのはたしかに影では、できないんだって。といわれるかもしれませんが社会としてはそれは受け入れることだからです。 その人の努力はできればいいですができない場合だってあるので、そこでとどまる必要はないとすればいい。 僕は持ち物を持ってくるのを覚えられないハンディをもっています。そういうひと、今社会人でも多く出てきています。 学校で、会社で必要なものや費用は運が良ければもってこれるか、親がカバンに入れてくれなければ持ってこれません。だってそれがこの人の病気でハンディであり個性だから。これは実際そうゆう方が高学歴でもいます。 おそらく日本の教育はこれを認めてきたから修正されずにここまでこれるようになっているのです。 だって、それはまあしかたがないと認めることで、忘れ物で罰則や問題はなくなります。 極論を言いますと、僕は暴力を振るうのを止められません。我慢できない病気なんです。 なのでもし奮ったら拘束して収まるまで鎮静剤をうってください。 もしこれが認められれば、小学校のときから大人になるまで傷害事件は激減し一方で薬物中毒のような常に薬で行動を制限される人がでてきます。これはSFチックなことですが、暴力はだめだからね。と衝動が抑えられない人に説明して収まることが本当にあるのだろうか。動物的な衝動は動物的な、痛い、怖いでしかおさめられないのでは?と思うときがあります。 そこから類推しても対話だけで処理できる事案など本当に限られています。 日本はこれまで、こんな「ハンディ」を持った人でも、理想の普通にするために本人が何度も努力して、工夫して親は努力して先生は泣きながら道をさがして、ある一定の周辺に収まるようにしてきたはずです。だから多くの人が九九ができるんです。 だからそれが今以上に厳しく強く言えた時代は、日本人が均一に見える。日本人はみんなレベルが一定で比較的高レベル。貧富の差がすくなくて能力も突出したのは少ないけど誰が来ても同じことができる。と世界から評価をうけていました。 日本は、それをやめました。ゆとりをもって個人の能力を伸ばしましょう。 それはスポーツでは顕著な成果を上げた一方で学力や精神面、特に躾といった面では大打撃をうけました。 その世代が、今新任の先生になってきて、自分たちのやりかたを小さいお子さんに教え始めています。無理なところはがんばらなくていい。できるところを伸ばそう。 それも正解だと思いますが、そのマイナス面を個性と受け止めるなら、対話するということは間違っているというのではなく、受け入れられない人が受け入れるように努力するほうが多いはずです。そして多くの場合先生が、もう無理だね。と受け入れる。これは諦めているようにみえるかもしれませんが、お互いに話し合い生徒と先生が折り合いをつけた、対話で理解したということに極論は見えてしまいます。 正解は一つではない。それはすごく魅力的な言葉ですが、間違った選択を、否定することができなくなってきている。 そうとも言えることを教育の場では改めて心に命じないといけませんね。
- NOMED
- ベストアンサー率30% (522/1726)
>確かに、これではどうしたって、教師、生徒お互いに不幸になるような道筋をたどることになりますね。 はい 子ども側から見れば教師は、数年に一度か、自己都合や処分・出世などで、学校を移ることが容易であると思います しかし、子どもにしてみれば、小学校で6年間・中学校で3年間、同じ・同じような環境を学区というだけで、決められた学校を押し付けられるシステム(指定学校制度・学校教育法施行令第5条第2項)です そのような中で、引っ越しやイジメ問題や傷害事件のような「特別な事情」がないかぎり、指定学校を変更(学校教育法施行令第8条)することができないのです 本来なら、近隣の学校が数校、協力しあって、問題を抱える児童・生徒・教師ともに、臨機応変に指定校を解除できるシステムが普通に運用できることが、市民の権利として与えられるべきだと思います 話を少し本題に戻しますと 小学校入学時に子どもは、「元気に明るく大きな声で」を、押し付けられます(求められる初期形態) 逆に、「元気がなくおとなしい子」は、同級生からも教師からも異質になります 学年が上がるにつれ、教育現場が求める最終形態は「おとなしく礼儀正しい」を押し付けていき、逆に、「大きな声でうるさい子」は、同級生からも教師からも異質になります ずっと勝手に決められた同じ環境下で、言っていることが違っていく大人たちが、子どもを教育するのが・・・昔からの義務教育です 初期形態から最終形態に変えていくとき、異質な子ども(逆に素直な子?)には、書かれている手法が使用されるのだと思います・・・
お礼
度々ご回答ありがとうございました。 数校が協力し合って、生徒が学校を変えるというのは、画期的で良いですね。 「クラス」至上主義の日本では有り得ないことと思いますが。 本当に、このシステム、手法。考えれば考えるほど、残念でいいことないと思います。
- nagata2017
- ベストアンサー率33% (6937/20512)
鉄は熱いうちに打て という言葉があります。 歪んだ形で冷めてしまった鉄は 形を修正するのは簡単ではありません。 三つ子の魂 百まで という言葉の意味は 押さないうちに習得したことは 終生心に残る という意味です。 どちらも似たような意味を含んでいます。 しかし先生のほうも どうやったらいいのかわかっていません。だから短絡的に 威圧 暴力 などに頼ってしまいます。見た目は簡単そうに見えるからです。自分より強い力には屈服するからです。でも目の前ではおとなしくなっても 善悪の概念が変化しているわけではないので そこでたまったストレスを陰に隠れていじめをすることで発散したりします。 最初は威圧で静かにさせたとしても その後に続く指導で言葉を尽くすことが必要です。 これがなかなかむつかしいのよね。
お礼
ご回答ありがとうございます。 >目の前ではおとなしくなっても 善悪の概念が変化しているわけではない 私も、根本的にはその通りと思いました。 どう争っても、最終的には、話するしかない気がします。 でも、人って、対話して変わるんでしょうかね・・・難しいですよね。
- eroero4649
- ベストアンサー率32% (11136/34654)
>そんなデメリットを踏まえても、威圧的に怖がらせて指導することは効果的なことなのでしょうか。 北朝鮮や中国を見れば、ああいうやり方は少なくとも東アジアでは効果的なんだろうなと思います。 >昔のよくある言い方で「殴られなければわからない子はいる」は事実なのか、 >彼らは話してわかるという相手ではない?ということでした。 そうですね。世界中の各種知能テストで「大雑把にいって人間の1/3は簡単な文章を理解できない」ということが分かってしまっているそうです。例えば「高気圧は晴れになり、低気圧になると雨になります」という文章を見せたうえで「さて問題。今雨が降っています。高気圧がきていますか。それとも低気圧がきていますか」と聞いても1/3が「高気圧」と答えちゃうらしいのです。 そんなバカなと思うのですが、考えてみるとほとんどの人の自分の周囲には高校以上の学歴をきちんと持っている人ばかりです。しかし世の中にはものすごい単純労働だけをやっている人やホームレスや、社会不適合を起こして家に引きこもっているような人たちもいるわけですから、彼らも全て検査の対象にしたなら1/3はともかくとして、ある程度以上は「人の言葉をきちんと理解できない人」が存在することは確かだと思います。 またよく水商売なんかじゃ「遅刻したら罰金」なんていうルールがある業界がありますよね。そういう業界というのはだいたい決まってあまり知的レベルが高くない階層の人たちが働くところです。一流と呼ばれる大学を出ていないと働けないようなエリート企業ではそんなくだらない制度はありません。そのくらいの知的レベルの職場なら、自分のタイムマネジメントもできないようなやつは元から働けないからです。だから偏差値の低い学校は高校でも大学でも、はっきりいって服装がだらしがない子が目立ちますよね。スーツ着ててもネクタイ曲がっていたりとか、シャツのサイズが合ってないとか。 恐怖(暴力)で人を支配しようとするのは、それがとても有効な手段だからだと思います。手の込んだ拷問で、こんなのがあるそうです。部屋に連れてこられたら、「次はお前を同じ拷問にあわせる」といって目の前で他の人を拷問するんだそうです。私はこれに耐えらえる自信がありません・笑。たぶんその場でペラペラと喋りだすんじゃないかなと思います。
お礼
ご回答ありがとうございました。
- NOMED
- ベストアンサー率30% (522/1726)
イジメ問題もそうなのですが、児童・生徒側は、クラスを選べない、変えることができないのが日本の教育現場です また、教育者側も、指導しづらい・したくない児童・生徒を他のクラスに移すことはできません つまり、双方とも、その壁(不自由)を越えることができないので、必ず、理不尽感を受けることになります その不自由から結局は後付ですが、質問者様も様々な学びがあったと思います ここでも、先生や教師を尊敬できない・尊敬する意味がわからない・・・などと書かれる人がいますが、おそらく、意味もなく怒る・叱る・ちらつかせる?ことをしている先生・教師は少ないでしょう つまり、そのような感情を教師側に持たせる側の問題がある中で、どのように考えても家庭内での教育がなっていない馬鹿には、その場を収めるための手法が必要かと思います でも、ご質問は効果についての話ですから、効果と言うよりかは、その場を静かにさせる・止めさせるだけの『手法』で、教育とまでは考えないほうがよろしいかと思います
お礼
ご回答ありがとうございました。 >また、教育者側も、指導しづらい・したくない児童・生徒を他のクラスに移すことはできません 確かに、これではどうしたって、教師、生徒お互いに不幸になるような道筋をたどることになりますね。 手法であって、教育とは違うということですね。
- okvaio
- ベストアンサー率26% (1991/7651)
おそらく、こんなことを言いたいのかな~ と、想像は出来ますが、 肝心の、「小・中学校の教師のブログ」の内容が分かりませんので、 回答のしようがありませんが・・・
お礼
質問がわかりにくく、申し訳ありません。 ご回答ありがとうございました。 特定のブログということではなく、小・中学校の素行の悪い生徒に対して、 または崩壊してしまったクラスに、体格であったり、男性であったり、体育会系の人物であったり、存在自体が強そうな教師が配置されますが、つまり、会話で言い聞かせるのは難しいという判断をしているということだと思います。 ただ、自分の経験からすると、こういう教師は大声で怒鳴るので恐怖の対象であり、感謝の気持ちを持つことができても、信用はできませんでした。 そんなデメリットを踏まえても、威圧的に怖がらせて指導することは効果的なことなのでしょうか。 昔のよくある言い方で「殴られなければわからない子はいる」は事実なのか、 彼らは話してわかるという相手ではない?ということでした。
お礼
ご回答の主旨を正しく読み取れたか自信がないですが、ありがとうございました。