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江戸時代。城を観光資源に。

何かで読んだ記憶があるのですが、織田信長は、安土城を庶民に有料で見物させたそうです。 大勢の庶民が入城したそうです。 江戸時代、領民に城内を見物させた例はありますか。 ギブアンドテイクで、金次第でなんとかなったのでしょうか。 よろしくお願いします。

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  • pri_tama
  • ベストアンサー率47% (679/1423)
回答No.5

 童謡『通りゃんせ』の舞台となった三芳野神社は、川越城の城内「天神曲輪」に存在しており、童謡の      行きはよいよい 帰りはこわい  と言うのは、入城(年に一度の三芳野神社大祭と七五三のお祝い時のみ参拝を許可していた)はともかく出城時は密偵による機密情報持ち出しを警戒して厳重な身体検査をした事を由来にしていると言われます。  ちなみに童謡にもある細道というのは、下記の様に城内の要所を見つつ進んだようです。  (まあ三芳野神社が本丸御殿の近くに有るからですが…。)  >南大手門から入城し、田郭門を抜け富士見櫓(天守の代用)を左手に見て進み、天神門を潜って直進し、直角に左に曲がって三芳野神社に直進  あと、細かい事ですが質問者さんの認識しいる城内の範疇ってどこを指しているのでしょうか?  (上記の川越城は、本丸御殿そばまで庶民が接近できる稀な事例ですが…。)  戦国時代後半から主流となった平野部に作られた城(総構え)は、城内に都市部を内包していますので、一般庶民も城内で生活している事になります。  たとえば江戸城の城域は、JR山手線内の2/3(まあ、土地収用の容易さから江戸城外堀沿いに線路を引いたので…。)を地域を占めており、江戸の街中といえば、大体は江戸城内です。  (地方でもその地のお城の外堀沿いに環状線路や環状道路を作っている例は多い。)  江戸時代のお城が現役だった時って、現代人がイメージする城より遥かに広かったりするんですよ…。  (地方の数万石程度の大名の城ですらキロ平方メートル単位の面積があり、ヨーロッパの下手な城郭都市より広い。)

kouki-koureisya
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 川越城が「通りゃんせ」の発祥の地とは知りませんでした。 子どもの頃、遊び歌でよく歌っていました。 不思議な歌だと思っていましたが、意味がやっと分かりました。 城内とは、武士以外立入禁止の場所で、大手門内を想定しています。

その他の回答 (4)

  • nagata2017
  • ベストアンサー率33% (7026/20697)
回答No.4

秀吉は お城じゃないけど 聚楽第の造営と並行して大茶会を開催して  茶湯執心の者は若党、町人、百姓を問わず、釜1つ、釣瓶1つ、呑物1つ、茶道具が無い物は替わりになる物でもいいので持参して参加すること。  座敷は北野の森の松原に畳2畳分を設置し、服装・履物・席次などは一切問わないものとする。  日本は言うまでもなく、数寄心がけのある者は唐国からでも参加すること。  遠国からの者に配慮して10日まで開催することにしたこと。 京都北野天満宮境内において開催したけど 1日で中止。 1日めは1000人ぐらい来たそうです。 お城でやればよかったのに。

kouki-koureisya
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 そうですね、お城でやればよかったのに、と思います。

回答No.3

あれですね 盆山(ただの石ですが)を参拝させるために庶民を城内に招き入れて参拝させた と言うのは有名ですね 信長は自ら神になろうとしてましたから 江戸時代(少なくとも家光以降の幕藩体制確立後)は無いと思います 庶民が登城する事は認められて居なかったので (将軍などが特別な事情で呼んだ場合等は別ですがそれでも城内の見物等は出来なかったはずです)

kouki-koureisya
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 城内を見たいと思う人はいっぱいいたと思います。 カネ不足の大名はカネを集める手段として月見櫓を、というようなことを想像したのですが、そんなこと誰もしなかったということですね。

  • oska2
  • ベストアンサー率44% (2327/5177)
回答No.2

>織田信長は、安土城を庶民に有料で見物させたそうです。 その通りですね。 特別な日に、入場料を取って庶民に城内を見せた様です。 城内に「かがり火」をともして、暗闇に浮かび上がる城を演出しています。 天守台から飛び出して、舞台まで設けていました。 >江戸時代、領民に城内を見物させた例はありますか。 見物目的ではありませんが・・・。 江戸城が有名ですね。 三社祭には、神輿と一緒に庶民が城内を回ります。 また、将軍家主催の「能」を行う時「町年寄・町役人」を城内に招いています。 もちろん、能舞台では将軍自らが舞を演じます。 町年寄・町役人は、舞台下の土間に蓆を敷いた場所で正装で見物。 その後は、禁止区域を除いて城内を回っています。

kouki-koureisya
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 「三社祭」と「能」ですね。 よく分かりました。

回答No.1

それは安土城が完成した時じゃなかったでしょうか? 自分の威光を庶民に示すためなのでは? それに商売がうまい信長独自の考えでしょうね。 本来城は要塞です。 皆に白の秘密を見せることはありません。 その後の徳川などは、普請した設計者も暗殺したとも聞きますしね。 後にも先にも信長だけなのでは?

kouki-koureisya
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 威光を庶民にまで知らしめるためだったのでしょうが、城内にまで招き入れるとは太っ腹ですね。

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