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城を庶民に開放。
何年か前にテレビで見た話ですが、信長が安土城内を近隣住民に開放していました。 確か、入場料を取っていました。 特別な日に城を庶民に開放したり、あるいは裕福な町人・商人に“こそっと”見せたり した事例があれば教えてください。 武士以外の領民は、石垣の中を見たかったはずです。 岡山藩主のなかには、庭園(今の後楽園)内の能舞台で催される能を 庶民にも鑑賞させていた例もあります。 よろしくお願いします。
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こんにちは 江戸城のことになりますが、天下祭りということで、数年に一度の割で、江戸城中を祭行列が練り歩き、将軍の上覧に供することがあり、庶民も城中に入りました。 また、御能拝見もあり、これも城中に入れただけでなく、弁当も出る結構な行事でした。 さらに、庶民といってよいのかは疑問ですが、正月に町年寄三家と、町名主(草分)は将軍に年賀の挨拶に行く慣例でした。 天下祭 http://japanfestival.web.fc2.com/15-matsuri/tenka.html 御能拝見 http://www.library.metro.tokyo.jp/digital_library/collection/the19/tabid/1877/Default.aspx 仏教公伝時の仏像ですが、善光寺仏との関連については、『扶桑略記』の「欽明天皇」の条にあります。ただし、『日本書紀』に記載された仏教公伝時の仏像は「釈迦仏の金銅仏一体」となっています。これは信仰上のことなので、そのような話もあるということで、参考まで。
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- fumkum
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こんにちは 阿波踊りの起源説の一つが、蜂須賀家政が徳島城の完成時に、勝手に踊ってよいとの触れを出したことといわれています。阿波踊り自体の起源はもっと古く、阿波各地にあった盆踊りの風習だろうと思いますが、城の完成時の触れによって、各地の踊りが、統一されるきっかけになったのか知れません。 今一つは、城下町は、現在で言う特区のような存在と考えられます。また、幕府というより将軍は、江戸の町の状況には多大の関心を寄せ、さしもの権勢を誇った田沼意次も、天明の飢饉による江戸の打ち壊しの発生で、政権に止めを刺されています。ただし、田沼自体は前年に老中を退いていますが、その残存勢力は侮りがたいものがありました。将軍・幕府にとって江戸町は、全国統治の模範となるべき存在で、その江戸町で大規模な打ちこわしが発生したのみならず、2日にわたり町奉行所が対処できなかった失態は、全国治者としての将軍・幕府の権威の失墜を表すものであり、それだけ城下町の動向は、幕府のみならず、各藩の城下町でも重大事であったといえます。
お礼
度々のご回答真にありがとうございます。 なるほど、阿波踊りですか。 そんな言い伝えがあるのですね。有り得る話です。 >将軍・幕府にとって江戸町は、全国統治の模範となるべき存在で、 その江戸町で大規模な打ちこわしが発生したのみならず、 2日にわたり町奉行所が対処できなかった失態は、全国治者としての 将軍・幕府の権威の失墜を表すものであり、それだけ城下町の動向は、 幕府のみならず、各藩の城下町でも重大事であったといえます。 そうですね。よく分かりました。
- fumkum
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こんにちは 町人能(御能拝見)については、3月の勅使下向に伴なう勅使饗応の際と、将軍宣下、代替わりの際に行われます。 町人能は江戸の町の家主たち(代人も多い)が、*一町数人ずつ招待されて、午前と、午後に分かれて観能しました。午前、午後それぞれ2500人強でしたので、合計500人強の町人が場内に入ったことになります。町人の服装は裃姿が多いようですが、混雑して危ないので、肩衣の骨は抜いたものを着用したとされます。また、裃姿だけでなく、現在の紋付などの服装も多かったようです。 午前に招待された町の町人は、早朝の七つ(午前4時前後)に、大手門前(酒井雅樂頭邸前など)や、常盤橋御門など5ヶ所に分かれて(各500人ほど)集合します。集合場所については、町名の旗があったとされています。その後、六つ(午前6時頃)には常盤橋御門より入城したとありますので、下馬先から大手門を通る大名などの登城ルートで本丸御殿玄関前に至ったものだと考えられます。この時に門の番人がいる前では、町の代表が、「何町何人はいります」と言うだけで通行させたとあります。また、賄方の役人が用度係として出役し、雨天、晴天にかかわらず町人に傘を一本ずつ与えたということです。 本丸御殿玄関前から、直ぐ脇(西)の堀重門を通って大広間前の能舞台脇白洲に到着します。そこには白洲の上に薄縁を敷いてあり、腰ほどの高さの青竹柵で囲われ、小十人(こじゅうにん)が警護にあたります。つまり、町人は西向きに座って、能舞台を観ることになります。能舞台の北(正面)には本丸大広間が白洲を隔ててあり、将軍、老中はじめ諸役人、諸大名などが列席します。町人の中には心得たものもいて、白洲に薄縁では座ると痛いということで、小布団を持ち込むものもあったようです。さて、午前も正午をまわると、おにぎりに梅干、漬物が出て、さらに帰りには錫瓶子に入った酒、紙包みの菓子、そしてなんと青銅一貫がお土産だったそうです。 ともかく、町人能の時には、町人が騒がしいだけで無く、諸役人の不正を騒ぎ立てたり、諸役人や、大名をからかったりと、したようですが、町奉行が鎮めに入ると静かになったとされています。ただし、町奉行も人によりけりだったとの話もあります。 なぜ、このように町人を優遇しているのかと疑問をお持ちでしょうが、それは城下町の形成過程にも理由があります。城を造ると自然に町人が集まり、城下町が形成されるわけではないのです。戦国時代までの城下は*一部の例外を除いて、多くは東国の根小屋、西国の山下(さんげ)、麓(ふもと)などと呼ばれ、*武士の邸宅と、職人(主に甲冑師・番匠大工などの軍事関連)、商人によって構成される小規模な集落で、城下町と呼ばれるようなものではありませんでした。 城下町とするためには*町割をし、街道を城下を通るように付替え(最初から街道筋に造ることもあります)、地子(じし)免除、楽市楽座などの特権を与え、商人、職人などを集めるのです。中には旧城下から、強制移住させる例も見られますが、その多くは御用商人や御用職人であることが多く、御用商人や御用職人は大名に奉仕する見返りに、知行を得たり、特権(領国内自由往来など)を認められています。また、商人・職人と武士の身分の区別が曖昧、未分化で、商人・職人であり、武士という者は多く存在しました。かの有名な鬼平こと長谷川平蔵宣以の先祖は、焼津の小川(こがわ)の商人で、小川法栄とも呼ばれた長谷川政宣で、駿河今川氏の商人頭とも呼ぶ立場であり、小川城の城主として武士の顔を持つ人物でもあり、今川義忠横死後に、子息氏親を匿うなど活躍をした人物でもあります。 このような例外を除くと、城下町が形成されたのには、兵農分離に見られるように武士を農村からの切り離し、城下へ集住させることに始まり、町割、街道付替え、商職人の誘引など、計画的に実施されるもので、逆に言うと、商職人に来てもらったという要素も強いのです。その一つが、町屋敷地にかかる税金(地子-じし-)を免除(免許)する地子免除(免許)で、これは、農村の年貢に相当するものを免除するということで、これだけでも商職人を集めために特権を与えたことがおわかりになると思います。この地子免除は、織田信長が岐阜城下の加納の町で楽市楽座と共に実施したのが最初とされます。近世では例外もありますが、城下町だけでなく、宿場町などにも拡大され、産業振興をはかっています。城下町・宿場町(例外も多い)・門前町などに町奉行が置かれ、農村に郡代・代官が置かれるように区別されるのは、このような制度に由来する面もあります。一般に農村の年貢について、田畑対象といわれますが、屋敷地についても、検地で石盛され、課税されます。 このように、城下町において、町人を優遇するのには、城下町形成に関する歴史的な背景もあります。 *一町数人=3人程度となっていることが多いのですが、3人は5000人を1600町で割った平均値で、多い町は一町15人ほども出しているので、町により割当数の増減があったことになります。 *町割=城下町に紺屋町などの同業者による町が多い原因でもあります。 *一部の例外=山口などの守護所には、城下町の萌芽が見られるとされます。また、六角氏の観音寺城で始められた楽市楽座政策も、城下町の形成という面から見ることも可能です。 *武士の邸宅=多くは在所にも城館を持ち、必要なときだけ在所より城下に来て、使用。平時は在所にいることも多い。 地子免除 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9C%B0%E5%AD%90%E5%85%8D%E8%A8%B1 以上、参考まで。
お礼
ご回答真にありがとうございます。 実は、この質問は、最初は「お城の完成式典に町人が招待された例を教えてください」でした。 築城時には、多数の農民・町人が工事に動員されたり、 町割では立ち退きや近郊から移住させられたりしたはずです。 関ヶ原後に建てられた城は、防衛拠点というよりは、城主の威厳を誇示する、 つまり“見せる”という要素も大であった、と市民歴史講座で聞きました。 そこで、完成式典に町人・農民の代表者が招待されたというようなことがあったのではないかと、思いました。 しかし、いろいろ考えているうちに、武士以外なら誰でも一度は城内を見てみたいと思うだろう、 と想像しました。 そして、この質問文に落ち着きました。 >このような例外を除くと、城下町が形成されたのには、兵農分離に見られるように武士を農村から の切り離し、城下へ集住させることに始まり、町割、街道付替え、商職人の誘引など、計画的に実施 されるもので、逆に言うと、商職人に来てもらったという要素も強いのです。その一つが、町屋敷地 にかかる税金(地子)を免除(免許)する地子免除(免許)で、これは、農村の年貢に相当するもの を免除するということで、これだけでも商職人を集めために特権を与えたことがおわかりになると思 います。 >このように、城下町において、町人を優遇するのには、城下町形成に関する歴史的な背景もあります。 よく分かりました。 もしかすると、完成式典に町人が招待された事例もあるかも知れません。 商人は招待されたでしょうね。 招待されると手ぶらでは行けませんが。 >午前に招待された町の町人は、早朝の七つ(午前4時前後)に、 大手門前(酒井雅樂頭邸前など)や、常盤橋御門など5ヶ所に分かれて (各500人ほど)集合します。 「早朝の七つ」ですか! 早いですね。 トイレが大変です。 トイレは「江戸城のトイレ」という本がありますから、調べてみます。 町人能(御能拝見)で見物者に傘を与える慣習は面白いですね。 少しだけ調べてみたのですが、「五菜」は「御宰」とも書くのですね。 深みにはまりそうです。 いろいろ教えて下さって真にありがとうございました。
- fumkum
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新潮新書の鈴木由紀子著の『大奥の奥』という新書に、近江国の庄屋(実態は町人)の錦織五兵衛なる人物が、連れの三人で、高野平八という老人の案内で、江戸城の西丸と二の丸の見物に出かけます。「御印鑑」という檜の横札で、そこには七、八人の役人の名前が書きこまれ、焼印が押されていたものを腰にぶら下げ、番所の役人に提示し、許可を受けて最終的には何と大奥(西の丸かと想像されている)まで見物したと、庄屋の『東武日記』に書かれていたとしています。 眉唾話かとも思ったのですが、熊倉功夫がこの日記の解題を書いており、氏家幹人が、『江戸の女の底力』で紹介しているとしていますので、眉唾でもなさそうです。 その部分を抜書きした紹介文のURLを、下にコピーしましたので、確認してください。 http://www.shinchosha.co.jp/books/html/610191.html また、吉宗が定めた「大奥法度」に次の一文があります。 宿下りなく衆は、祖母、母、姉妹、伯叔母、姪、男子は九歳までの子、兄弟、甥、孫、此分は呼寄申べく候、と(泊)め候でかなはざる子細有之候ば、(大奥)年寄衆え断をたて、御留守居え相達候上、二宿(二泊)にかぎるべき事。 つまり、「祖母、母、姉妹、伯叔母、姪」だけでなく、9才までの男子でも、兄弟、甥、孫であれば、呼び寄せることもでき、さらに、大奥の年寄衆と、御留守居の許可を取れば、2泊まで大奥で泊まることができたとされています。大奥といっても旗本・御家人の娘だけでなく、町人など庶民の娘も奉公に上がるので、この規定によれば、その縁者は上記の範囲で、大奥に出入りできたことになります。 ところで、仏教公伝関係についてですが、当該の個所に回答をしないので、御不信でしょうが、あれは、遠慮をしているだけで、他意はないのです。質問に対する回答としてはNO1の方が、お書きになった通りで、完結をしていると思っています。ですから、遠慮をして当該の部分に敢えて回答を差し控え、補足的に他の質問に付け足しをしているだけです。貴兄と遣り取りしていると、好奇心が強い同士でどんどんと話が膨らみ、興味が尽きず、とんでもない方向に進むことがあり、質問に対する正確な回答をされた方を置き去りにしてしまうきらいがあって、他で補足をしたまでです。御不快であったならば、お詫び申し上げます。
お礼
度々のご回答真にありがとうございます。 なんと! 「一介の農民(町人というべきだが)が堂々と西ノ丸、二ノ丸の奥深く見学に歩けた」という 日記があるのですね。 幕府の記録には絶対出て来ないでしょう。 町人の日記であればこそ、こんな事実を書き残してくれたのでしょう。 しかも、熊倉功夫氏の解説によれば、 「その手続きをみると通行証を腰にぶらさげるなど、かなり見物がシステム化されているふしも見え、ある程度一般的に城中見物は許容されていたとみてよいであろう」とあります。 「城内を町人が見物」をキーワードに検索しますと、城内へ町人を招きいれたという事例がたくさんヒットしました。 せっかく見つけたので記録しておきます。 福井県史には、 「小浜城内でも能が演じられ、時には町人の見物も許されている。寛文十年(一六七〇)三月十九日には六七〇人の町人が見物した」とあります。 長岡新聞の記事には、 「旧暦六月十五日の蔵王大祭には城下十八か町の屋台行列とともに領民一万人以上が、大手門より城内に入った。この日は領民の一割以上が城内見物に集ったものだ。 また、年貢が皆済したことを祝って、正月には二之丸書院や本丸御殿に能舞台を設置し、各組の村役人(庄屋等)を招いて、能・狂言を拝観させている。ときには藩主みずから演じ、家臣の女性や町人たちにも見学させている。」 唐津観光協会「唐津んもんだより」には、 「身分制度の厳しかった江戸時代において町人は城内に入る事が禁止されていました。しかし唐津くんちの時だけは、城内と城下町を仕切る大手門があけられ、日頃は入ることができない町人も曳山とともに門をくぐり城内にある唐津神社まで行く事が許されていました。」 他にも、加賀前田家5代綱紀、弘前藩4代藩主津軽信政の例もありますが、極め付きはこのブログです。 ~未知なる城を求めて~城郭研究ノート http://blogs.yahoo.co.jp/joukakukenkyuu/folder/995379.html 仏教公伝の件ですが、回答を遠慮されていることは感じておりました。 この質問への回答で補足してくださったことを決して不快だなんて思ったことはありません。 今回も大変面白く歴史の勉強ができました。感謝申し上げます。
- fumkum
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五菜については、名前の意味・由来がわかっていません。ただ、大奥の女中の給付の中に、五菜銀というのがあって、塩・味噌を購入するための費用とされていますが、それと、関係するのではないかといわれています。 以上、参考まで。
お礼
ご回答ありがとうございます。 「五菜銀」という名の給付があったのですね。 ネットで調べてみますといっぱい出てきました。 たいへん参考になりました。 ちょっと大奥に近づいた感じです。
- fumkum
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『扶桑略記』の件について、詳しく説明しなくて申し訳ありません。 貴兄が見られた部分の9行目ほど後に、 「◎同年、大連物部尾輿薨。一伝。同年壬申十月。百済明王献2阿弥陀仏像。長一尺五寸。観音勢至像。長一尺1。-中略ー已上或記云。信濃国善光寺阿弥陀仏像。則此仏也。」 と、ある部分です。ここに、善光寺の阿弥陀三尊像が、同年の十月に、百済王から献じられたとの一説(一伝)を載せています。貴兄の見られたのは、「(欽明天皇)十三年壬申冬十月十三日辛抱酉。百済国聖明王始献2金銅釈迦像一体。並経論幡蓋等1。」の部分(『日本書紀』と同内容)で、上記記述は「同年壬申十月」と、同じ年と月の「百済王」の献上仏ですので、同年同月に同一人物から、違った仏像が献上されることは考えられないので、別説ということになります。釈迦像に関しては、善光寺との関連については記載されていません。 なお、阿弥陀三尊像については、上記の記述の後に、天竺以来の由来について記載されています。 紛らわしい表現で申し訳ありませんでした。
お礼
再度のご回答真にありがとうございます。 「釈迦像に関しては、善光寺との関連については記載されていません。」と言うことですね。 よく分かりました。 昔の人々は、「空から飛んできた」、「はるばる海を越えてきた」というような話に夢中になって、そんなこともあるのだろう、と信じた人もいるのでしょう。 寺の縁起というものは、そんな人心を見事に掴むように作られたものだと思います。 歴史を楽しむことができました。 >紛らわしい表現で申し訳ありませんでした。 「申し訳ありません」なんて そんなことを言われると困ってしまいます。 しつこい私に毎回、丁寧に答えて下さって、感謝の気持ちでいっぱいです。
- fumkum
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前回の回答について急ぎすぎて肝心のことについて忘れていました。天下祭のことですが、神田明神の神田祭と、日枝山王神社の山王祭のことを一般に言います。一度だけ根津権現の祭礼が江戸城に入ったことがあるとされています。 ただ、これも庶民に区分していいのかどうか疑問もありますが、大奥出入りの商人等が挙げられます。大奥の女中は場内に住みついているわけで、買物に行くわけにもいかず、五菜という私的使用人的存在(男)がいますが、御用商人が商品を持ち込むこともあるので、彼らは場内を通ることになります。 さらに、尾篭ですが、汲取りも入札制で行われ、汲取り舟が入り、人足が入ります。 さらに、内郭内とは言いがたいのですが、大手門前の下馬先には登城大名が下馬をし、従者を残して登城する地点ですが、ここまでは庶民が入れ、見物することができました。 以上、参考程度に。
お礼
ご回答ありがとうございます。 将軍家もなかなかやりますねぇ! 威張るだけではなかったのですね。 ネットで調べてみますと、町年寄三家とは本町一丁目の奈良屋、二丁目の樽屋、 三丁目の喜多村家ですね。 また、江戸開府以来の町名主(草分)を大切にしていたこともよく分かりました。 天下祭りについては、添付URL「天下祭」に詳しく出ていました。 「汲取り」のしくみは知っていましたが、「五菜」のことは知りませんでした。 質問ではないですが、なぜ「五菜」と言うのでしょうか。 「五菜」は素性の明らかな者でしょうが、大奥へは“通い”だったのでしょうね。 すると、通行するにはなんらかの通行札を持っていたはずです。 (調べてみますと「鑑札」の画像がありました。) 出入りの大工や商人、それに「五菜」など、武士以外のものが結構うろうろしていた感があります。 厳重に警備されているとは言え、なかには紛れ込むことができた者もいたのかも知れないと、 想像は果てしなく膨らみます。
お礼
ご回答ありがとうございます。 『扶桑略記』の「欽明天皇」の条。 近代デジタルライブラリーで見ることができました。 私のレベルでは読むことはできませんが、見れば「金銅釈迦像」と分かります。 『書紀』と同じです。 しかし、「長野県立歴史館」のサイトの『扶桑略記』では、「阿弥陀仏像」です。 初伝の仏像=阿弥陀仏=善光寺本尊としたいという意図かも知れません。 https://trc-adeac.trc.co.jp/WJ11E0/WJJS06U/2000710100/2000710100100010?hid=ht020130 欽明一三年一〇月一三日 信濃国善光寺仏、百済より渡来すと伝ふ。 結局、初伝の仏像・経論のその後ははっきりしないようです。 しかし、「はっきりしない」ということが分かっただけで十分です。