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江戸時代の京都御所の組織と人員。
御所には何人くらいの人が居たのですか。 また、どんな役目の人々が居たのですか。 警固の兵が多数いた、幕末の騒然とした時代を除いて、平時の組織と人数を教えてください。 よろしくお願いします。
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大事なことを忘れてしまいました。質問の中に「平時の組織」という語句がありましたが、江戸時代の朝廷には、隠れた主従関係が存在しました。当時、朝廷のに関係する武家などは当然承知のことなのですが、現在ではそれが実質的に主従関係を表現しているとは考えられない言葉ですが、「門流」という言葉です。 「門流」には二つの用法があって、一つが日蓮宗の教義の流れなどによる各分派を門流と呼びます。今一つが、公家社会の「門流」で、「*家礼(けれい)」という言葉と対応して、五摂家と堂上公家との主従関係を言います。一と区別するために「公家門流」という場合もあります。 *家礼=家来という語句の由来になったとも言われます。 朝廷・公家社会は政務にしても儀式にしても、先例・慣例を重んじ、それを「有職故実(ゆうそくこじつ)」というわけですが、この有職故実は特に摂家に蓄積されます。室町時代に入ると、この有職故実や文芸を学ぶために、摂家を師、一般の公家を弟子とする師弟関係がそれぞれの摂家ごとに成立し、師弟関係が徐々に主従関係に変化し、江戸時代では門流は固定され、摂家を主人、堂上公家を一種の家来とする主従関係=家礼関係も固定されます。明治に入ってからの公家の回想に、宮さんに怒られてもたいして怖くはなかったが、摂家に少しでも怒られると震えるほど怖かったというのがありますが、その回想の裏には門流関係があったのです。ですから、位階・官職の上下に関係なく、摂家と門流・家礼との間には主従関係による厳しい上下関係があったのです。ですから、安政五年一月一四日の意見提出に、三公、武家伝奏、議奏だけでなく、これらに属さない摂家が入ったのは、公家門流の頭であり、今でいえば一時代前の派閥のボスのような存在であったことによります。 また、地下家についても同じような関係があり、三催である*官務の壬生(小槻氏)家、*局務の押小路家、*出納の平田家を統率者として、地下官人を三系統に分けて統制させます。この壬生、押小路、平田家を「地下官人之棟梁」と呼ばれます。ただし、平田家が台頭するのは江戸時代初期からなので、「地下官人之棟梁」は壬生、押小路家のみで、この二家を「両局」とも呼びます。 *官務=太政官の弁官局の左大史のこと *局務=太政官の少納言局の主典(さかん)である外記(げき)のこと。 *出納=蔵人所の出納 *太政官には事務局として実務を扱う、左弁官(局)・右弁官(局)と少納言(局)があります。 このように、摂家は、摂関であるなしに関わらず、公家を門流で支配し、朝廷を主導していました。地下官人への三催=地下官人之棟梁による支配と合わせ、江戸時代の朝廷の平時の目に見えない支配組織、裏組織ということになります。
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- fumkum
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天皇の服装について黄櫨染の御袍(こうろぜんのごほう)・袞衣(こんい・こんえ)が、有名ですが、これは特別な儀式のときの服装で、日常に着用するのは、巫女さんの服装に近いものでした。上は白の小袖で、下は紅の打袴(あかのうちばかま)と言って、巫女さんの赤の袴の裾を長く、ふっくらとしたような袴でした。下のURLの画像で、上から羽織っている袿衣(うちぎぬ・うちきぬ)と単(単衣・ひとえ)をとった服装です。つまり、女性用の服装ということになります。絵画資料では、平安時代末に成立したとされる『伴大納言絵詞』清和天皇と藤原良房が話している部分の、天皇の服装です(白の小袖が経年変化で灰色ですが)。天皇はこのような服装で、同じような服装をしている女官に囲まれて生活しているので、何くれとなく女官に指示するので、女官の仕事範囲が広がることになります。 http://www.iz2.or.jp/fukushoku/f_disp.php?page_no=0000045 女房奉書は、どの位置から、どの順番で読む(書く)のか決まりがあります。 女房奉書の文の読む順序 https://shoka.school/blog/otona_penji/20180427-2145/ 安政5年1月14日に、太閤内覧鷹司政通の指示で、「鎖国の法大変革の事」について三公(左大臣・右大臣・内大臣)・*武家伝奏・議奏の*12名に意見の提出を求めたとあります。その結果は次のように要約されるそうです。 ・「人心の折り合い」を付けるために、諸大名の意見を聴取したのちに決定せよ=7人 左大臣近衛忠熈(摂家)・右大臣鷹司輔熈(摂家)・内大臣三条実万・武家伝奏広橋光成・権大納言一条忠香(摂家)・議奏万里小路正房・議奏坊城俊克 ・条約にやむをえず賛成=1名 議奏裏松恭光・ ・畿内近国は開放しない条件で条約賛成=2名 議奏久我建通・議奏徳大寺公純摂関 ・条約拒否=2名 権大納言二条斉敬(摂家)・武家伝奏東坊城聡長 *武家伝奏・議奏=まとめて「両役」と言います。 *12名=三公3名、武家伝奏2名、議奏5名で合計10名です。これに摂家当主の一条・二条を入れると12名ということになります。さらに、関白で意見聴取側である摂家の九条尚忠を入れると13名になります。重複、欠員はありますが、江戸時代を通じて摂関・摂家当主・(三公)・武家伝奏・議奏の10~15名ほどが執行部ということになります。 上記の結果を受けて、天皇から関白九条尚忠に手紙を送り、意見聴取の対象を、朝臣については、現任公卿や有志の公家に拡大すること。武家については、「三家始め大小名へ存意尋ね出で候わば、またまた列侯国主の存(おもい)のはどもよろしかくべき哉」として、幕府も意見聴取の対象を、全大名に拡大せよとの意見を書き送ります。この後段部分が、幕府への回答への伏線になります。 関白は、天皇の前段の意志を受けて、1月25日に、その時点で三位以上の者、現任公卿(三公・大中納言・参議)に意見の提出を求めます。23名から回答があり、14日の意見と同じような傾向でであり、天皇の意見と同じであったことになります。 天皇、公家の多数意見が、幕府に全大名の意見聴取を要求した裏には、全大名に意見を聞くことにより、「人心の折り合い」の自然に落ち着く先は、条約への反対であり、鎖国の継続であることに期待するものです。天皇、公家、特に天皇の思想的背景は、米国や異国の蛮夷が神国日本に入ることは、神国日本の清浄を汚すものであり、伊勢神宮をはじめとする神や、天皇代々に申し訳ないことであるというものです。そして、神国日本の清浄を守るためには、米国や異国の蛮夷を打ち払い、戦争になっても良いというものです。この考え方は、多くの公家の根底に流れる考えであり、公家が天皇の考えに同調した背景になります。ただ、この時点では、「大政委任」の範囲内の「鎖国攘夷」であり、天皇・公家も感覚的な反対であり、日本の置かれた現状と、欧米列強との客観的、合理的な比較検討を経たものではないのです。 しかし、「鎖国攘夷」というこの時の天皇の決断が、大きな影響を与え、外国人の襲撃、生麦事件、長州藩による下関海峡通過外国船の砲撃事件、その報復の薩英戦争、四国艦隊下関砲撃事件につながります。考えれば、よくぞ日本は植民地にならなかったものだと思います。 話が脇道に入ってしまいましたが、2月22日に朝議が開かれ、天皇の考え、公卿の多数意見の通りの全大名への意見聴取の方向で結論化されます。 この朝議ですが、開催の指示は天皇、それを受けて実際の指示運営は関白、ここまでは確実で、参加者は関白、摂家当主、武家伝奏、議奏はほぼ確実、三公も多分確実。三公と言っても左右大臣は摂家なので、実質は三条実万だけですが。 ところで、この朝議の参加者は参議以上左大臣までの現任公卿=太政官の議政官とも考えられますが、次の理由から否定できると思います。 1、室町時代ごろから現任公卿の会議は開かれないようになり、開かれたとしても、即位・譲位などの重要儀式に関する会議などに限定されること。 2、現任公卿の会議は、近衛府の陣(詰所)を会場として行われる慣例なので、会議の名称を「陣定(じんのさだめ)」と呼びます。この会議が開かれた場合は、江戸時代では稀なので、記録に「陣定」と書いたものが残ると思います。 3、「陣定」には慣例として、摂政、関白、太政大臣は参加しないようになっています。今回の場合、関白が天皇の指示を受けて動いていますから、関白をはずしての会議にはならないだろうと思うことです。 長文で、難解であったかもしれません。ごめんなさい。 ところで、余計なお世話ですが、貴兄にはこの頃調べ過ぎなのではないですか?上記の黄櫨染の御袍・袞衣・紅の打袴・袿衣・単とか、わからなければ無視して先に進んでも、全然問題はないと思います。説明する側なので、細かく記述しますが、要は天皇の日常の服装から、いかに天皇が女官に囲まれていたかが趣旨なので。もう少し気楽にお読みください。書き散らしているような文なのですから。
お礼
お礼を記入する欄を間違いました。 #9と#10が逆でした。申し訳ございません。 #10のご回答ありがとうございます。 門流については、#4の方のご回答にあったURL「公家の数」に門流の説明があったので予備知識はありました。 門流に属さない公家が15家あったそうです。 これもどういう立場で世の中を渡ってきたのか、興味がありました。 私としては下記のご説明で、こんな組織があったのかが分かり、役立ちました。 *官務=太政官の弁官局の左大史のこと *局務=太政官の少納言局の主典(さかん)である外記(げき)のこと。 *出納=蔵人所の出納 *太政官には事務局として実務を扱う、左弁官(局)・右弁官(局)と少納言(局)があります。
- fumkum
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お礼の文、ありがとうございます。 さて、天皇の住空間に大奥のような女性専用で男性が出入りできない空間はないとされますが、本来は大内裏の中の内裏(禁裏)は天皇の私的空間で、男性が出入りできない空間ではあったのです。ですが、実際上は政務などの関係で、男性官人が内裏にも進出し、男性が日常的に出入りするようになります。しかし、原則は原則であり、天皇の日常は女官に囲まれて生活をしています。そのために内侍宣という形式があり、天皇の命を受けた内侍が、口頭で公卿等に伝えるのです。口頭で命を受けた側が文章化したものが内侍宣と呼ばれます。平安時代初期に蔵人所が成立すると、天皇の意思を伝える機能は蔵人所に移行されていきますが、天皇の日常が女官に囲まれている状況に変化はなく、天皇の意思を女官を通じて伝える必要性は継続します。そこで、平安時代には女房奉書(かなの手紙)形式の伝達方法の原型ができ、鎌倉時代以降は定着したとされます。鎌倉時代では女房奉書に対応して伝奏奉書が作成されていました。しかし、男性の主要伝達担当者が蔵人から伝奏に変化し、室町時代になると、京都に成立した幕府・将軍の朝廷に対する影響力が増大し、伝奏が武家伝奏に名を変えます。京都の治安・行政を担った検非違使の権限が、幕府侍所に吸収されたように、朝廷が空洞化し、武家伝奏をはじめ廷臣が将軍の方に顔が向くようになります。このようになると廷臣が出仕が減り、宣旨などの文書発行手続きのための担当者がそろわない事態もおこり、女房奉書が単独で効力が発生するようになり、権威が高まります。時には天皇自身が自分の意志を、女房奉書の形式で表明することもあるようになります。 このような変化と並行して、朝廷は政治の実権を失い、廷臣の出仕も減り、天皇の家政機関化します。公家の出仕も少ない中、女官の仕事が多岐に渡るようになったということです。 では、公家はと言えば、出仕は当番・儀式などの最小限になり、家職に励むという傾向になります。これを促進させたのが豊臣政権で、定着・制度化させたのが江戸幕府ということになります。 幕末の朝議についてですが、日米修好通商条約の勅許に関する朝議に先立って、太閤鷹司政通の指示により、安政5年1月14日に、摂関家当主、左大臣、右大臣、内大臣、武家伝奏、議奏(重複あり)に意見の提出を求め、さらに1月25日に現任公卿全員に意見提出を指示(指示者不明。天皇か?)します。しかし、25日の件については著書により内容が分かれ、「現任公卿(位階が三位以上か官職が参議以上)」とするものと、「大納言・中納言・参議・左右大弁」とするものがあります。 本来現任公卿とは、太政官の議政官である左右大臣、内大臣、大納言・中納言・参議のことで、三位以上でも上記の左大臣以下参議以上の職にないものは、散位と呼ばれ、現任公卿には入れられないのが原則です。また、大弁は太政官の事務局で重職ですが、これも現任の公卿には入りません。ただし、大弁は参議の兼任のことも多いので、あるいは兼任の者を書いたのかもしれませんが、手元の資料でははっきりしません。『公卿補任』で確認できれば良いのですが。 朝議そのものではないのですが、手元の資料では、朝議としか書いたものしかないので、参加者、支持者は不明です。ただ、意見提出の最初が摂関家当主、左大臣、右大臣、内大臣、武家伝奏、議奏なので、朝議の参加者はこのメンバーではないかとは思いますが。指示者については太閤が内覧であるので、可能性はありますが、朝議には参加していない上に、天皇と対立しているので疑問ではあります。ともかく、朝議についてははっきりしません。 以上、わかる範囲で。
お礼
度々のご回答真にありがとうございます。 「天皇の日常が女官に囲まれている」とのことですが、私も大いに関心がありました。 将軍とは大違いです。 何かの本で読んだのですが、イギリス公使パークスが明治天皇に謁見したときの、天皇の様子を「描き眉・お歯黒・唇は赤・頬には紅をさした少年ミカドは小声でささやくように話したのを皇族が繰り返し、伊藤俊輔が通訳した。」と述べていました。 御所に幽閉されていたようなもので、このような環境で過ごしてきた天皇が、国家の命運を左右する条約を結ぶというような重要案件に関してリーダーシップを発揮できたのか疑問でした。 そこで朝議の構成について質問したわけです。 おそらく公家がリードしたのでしょう。 あらゆる方面から収集した豊富な情報を的確な判断力でもって、公家が高度な判断をしたのでしょう。 「女房奉書」は全く知りませんでした。 画像検索で見ましたが女筆は全く読めません。 でも面白そうなのでチャレンジしてみます。 「大内裏の中の内裏(禁裏)」など全く何も分からず、ついて行けません。 整理したいので、この質問は勝手ですが明晩締め切りたいと思います。 いろいろとご指導ありがとうございました。
- fumkum
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宮中の後宮組織は、律令の後宮令の規定にある内侍司(ないしのつかさ)の、尚侍‐典侍‐掌侍‐女嬬のラインが換骨奪胎された、典侍‐掌侍‐命婦‐女蔵人‐御差のラインに室町時代以降換わると共に、後宮のみならず宮中日常一般の庶務・事務処理を行い、天皇に近侍し、女房奉書の発行、神璽の管理を行うなど多岐に渡る職務をこなしています。 これは、尚侍が平安時代から天皇の妻妾化し、次いで典侍の一部が同じように妻妾化したことにあります。また、*禁中並びに公家諸法度に規定されているように、宮中の実権が摂関家中心に、武家伝奏‐議奏‐職事(蔵人)の少数のラインに変化し、一般の公家は当番・儀式等以外は、家職に励むことが求められ、宮中の庶務に関わることが少なくなったことにより、女官がその方面にも進出していった結果です。に *禁中並びに公家諸法度に規定されている=関白、伝奏、並奉行職事等申渡儀、堂上地下輩、於相背者、可為流罪事。(関白、伝奏、並奉行職事等が申し渡したことに堂上公家、地下人(下級官人)が相反したら、流罪にする。) 典侍(てんじ・ないしのすけ) 宮中の女官中最上位。典侍から天皇の妻妾となる者も多く、江戸城の大奥と同じように、お清の典侍と妻妾に分離します。お清の典侍の最上位者(一臈‐いちろう)は大典侍で、長橋局と共に宮中の庶務・事務を統括しました。 典侍は定員4名ですが、天皇の妻妾や、長橋局が隠居前に任命されることがあるなどで、定員以上に在任することがあります。 掌侍(しょうじ・ないしのじょう) 宮中の庶務・事務・儀礼の中心であり、天皇に近侍します。この中でも最上位者(一臈‐いちろう)は長橋局で、別名勾当内侍(こうとうのないし)です。勾当内侍は、大典侍や補佐の大御乳母と共に宮中の庶務・事務を統括しました。また、勾当内侍は、金銭の出納、禁裏附・御用商人との交渉、進物・下賜品の処理、そして天皇の内意などを女房奉書の形式で出すなど、職務は多岐に渡り、宮中の重要職務の担い手です。また、武家官位への就任などの礼金に預かるなど、収入の多い地位で、女官垂涎の的でした。 命婦(みょうぶ)・女蔵人(にょくろうど)・御差(おさし) 宮中の下級女官。命婦・女蔵人・御差をまとめて「御下‐おしも」と言います。この内命婦は、天皇・皇后の衣食住の補助-例えば掃除-などにあたった。命婦の最上位者は「伊予」と呼ばれ御下の人事管理を、第二位者は「大御乳母-おおおちのひと-」と呼ばれ本来は天皇の乳母のことでしたが、その後一般の女官化して、勾当内侍の補佐として宮中庶務・事務処理にあたった。女蔵人は雑用係で、1~3名。御差は天皇のトイレ使用時の介助、健康管理の補助にあたり、定員は1名。 http://tracethehistory.web.fc2.com/nyoubou_itiran102_4utf.html
お礼
再度のご回答ありがとうございます。 また一つ疑問が解けました。 「勾当内侍は、大典侍や補佐の大御乳母と共に宮中の庶務・事務を統括しました。また、勾当内侍は、金銭の出納、禁裏附・御用商人との交渉、進物・下賜品の処理、そして天皇の内意などを女房奉書の形式で出すなど、職務は多岐に渡り、宮中の重要職務の担い手です。」 wiki「掌侍」を読んだとき、大奥は女、表は男の江戸城と違って、御所の女性はなぜこんなに様々な業務を担っていたのか、分かりませんでした。 その訳は、 「禁中並びに公家諸法度に規定されているように、宮中の実権が摂関家中心に、武家伝奏‐議奏‐職事(蔵人)の少数のラインに変化し、一般の公家は当番・儀式等以外は、家職に励むことが求められ、宮中の庶務に関わることが少なくなったことにより、女官がその方面にも進出していった結果です。」 と言うことなのですね。 気楽に質問しましたが、ご回答を理解するのもなかなか難しく、私にはちょっとハイレベルな質問でした。 なんとか分かりかけた状態です。
- fumkum
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追記を 地下家については、Wikiに「地下家の一覧」があるので、参照してください。諸門跡坊官等ですが、門跡などの上級僧侶は天皇家・宮家・摂関家などの出身者も多く、また宗教行事で朝廷の儀式に参加することも多いので、公家町の周辺に屋敷を持ち、公家層と交流することも多く、公家的な要素が多いグループで、当時も公家と同じように扱われることが多く見られます。
お礼
ご回答ありがとうございます。 Wiki wiki「地下家の一覧」は、大変参考になりました。 これをきっかけに検索してみますと、「天保14年地下官人一覧」に出合いました。 御所で働く人々の職種を想像できるようになりました。 楽人、医者、画家、牛車の管理、大工、易学・占など多勢の人々が常時、御所で働いていたことが分かりました。 造酒司もありました。 お陰様で疑問解消です。 ご教示に感謝申し上げます。 天保14年地下官人一覧 http://www.geocities.jp/nkks437758/jige18430201_kurohdogata.html
- fumkum
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江戸時代も幕末に近づくにつれ、人数が多くなる傾向がありますが、分かる範囲で。 堂上公家の137家はすでに回答があります。 親王家が、4家。 地下官人が、1090名。上位階層から「催官人‐もよおしかんじん」「並官人‐なみかんじん」「下官人‐げかんじん」に分かれます。「催官人」「並官人」は世襲で、並官人は催官人の官方の壬生家、外記方の押小路家、蔵人方の平田家の「三催‐さんもよおし」という三家のいずれかに所属し、専門的な知識・技能を継承し、朝廷に仕えました。下官人は並官人の補助要員で、京都や周辺の町人・百姓が、地下官人から株を購入し、下官人となった者で、通常は自分の仕事を持ち、儀式等の時に出仕した。出仕の時は地下官人としての名乗りで出仕し、一人の人間が二つの名前を持つことから、「壱人両名」と言われます。 公家の家臣は、全てがわかっているわけではないのですが、摂家の二条家が150名弱、ただし未勤、無給の名前だけの家臣が50名弱含まれます。清華家の今出川家で50名弱、西園寺家が22名、平堂上家の鷲尾家が56名、堤家が15名となっています。ただ、上位の家臣以外は常勤でない者や、一代限りの者、特に下官人のように壱人両名の者が多くいました。また、商人などが礼金を納めて家臣としての名前を得る者も多く、これらは未勤の家臣でした。 ともかく、地下官人、公家の家臣には壱人両名のように、通常は出仕しない者、名前だけの者も多く存在します。
お礼
ご回答ありがとうございます。 「地下官人」についてよく分かりました。 実際に朝廷の実務を遂行していたのは千人を超す、六位以下の「官人」なのですね。 「壱人両名」にもびっくりしました。 朝廷の儀式に京の町人が動員されたのですね。 実際、朝廷の儀式は、これらの人々がいなければ遂行できなかったと書いてあります。 検索して調べてみますと、幕府も公認せざるを得なかった場合もあるようです。 大名行列の日雇い中間と同じですね。 旗本・御家人株の売買にも通じるところがあります。 これでは、平時の御所では何人くらい働いていたのか、掴みようがないことが分かりました。
- ithi
- ベストアンサー率20% (1972/9601)
kouki-koureisyaさん、こんにちは。 下記のURLを参照してください。公家の数は一三七家しかありません。 せいぜい公卿と呼ばれていた人たち以外蔵人などの事務官や正室の女御後は側室の典侍とその周りの女官と事務を担当する掌侍位でしょうから、せいぜい100名でしょう。女嬬といっても平安時代は一〇〇人いたけど、江戸時代には雇えなかったでしょうから、二〇人と考えています。 宿直 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%BF%E7%9B%B4 公家の数 http://www.geocities.jp/okugesan_com/iekaku.htm 典侍 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%B8%E4%BE%8D 掌侍 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%8E%8C%E4%BE%8D 命婦 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%91%BD%E5%A9%A6 女嬬 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A5%B3%E5%AD%BA
お礼
再度のご回答ありがとうございます。 女性の職制についてはよく分かりました。 聞き慣れない用語が多くて、読み方も難しかったです。 公家の数も分かりました。 明治維新時点で137家なんですね。
- fujic-1990
- ベストアンサー率55% (4505/8062)
> 御所には何人くらいの人が居たのですか。 まず、「居る」というのが曖昧です。 御所というのは、京都御所(建物)のことですよね。「京都市」内全域ではなくて。 「禁裏付」という役職の者が二人いて、その配下(与力10騎、同心50人。禁裏付は二人なので、その2倍?)が、日中詰めていたのは事実ですが、かれらは御所内に住んでいたわけではありません。「火の用心」も彼らの仕事ですので、夜間もある程度の人数は詰めていたと思われますが、基本的に「通い」です。 役屋敷は、元百万遍と相国寺門前石橋町にあり、配下の家もその付近にあった由です。 京都所司代の担当者が御所に行く場合もあったでしょうが、本来は、五機内・丹波・播磨・近江8ヶ国の幕府直轄地訴訟を裁くのが本業。京都町奉行も、京都の市政・争訟や山城その他の収税が本業です。ほかにも寺社地や公家領について寺社奉行の代理もさせられて、とても多忙だったようですよ。つまり、朝廷のことなど構っていられなかったようです。 彼らを「居た」人の勘定に入れるなら、それ以前に、朝廷を営む摂政・関白などなどの貴族(通い)の人数をいれなければなりません。 天皇や中宮・皇后、女御や更衣などなど女性の数ももちろんです。 そのほか、庭掃除などの雑色もいたでしょう。 どこまでが「居た」人に含まれるのか分からないのですが、限定されたとしても「居た人数」は正確には分かりません。紫式部も源氏物語の中で「あまたさぶらひ給ひける」ということで、人数はぼかしてあります。 天皇家の歳入、御所の広さ、仕事の必要性などを考えると、・・・ どうでしょう。日中働く人間は2・300人が限度だと思うのですが(完全なる私の推測)。
お礼
ご回答ありがとうございます。 築地塀で囲まれた御所と呼ばれる敷地の中で何人くらいの人が働いていたのですか、の意味です。 どんな仕事があったのか知りませんが、毎日あるいは隔日に“通勤”してくる人もあれば、敷地内に女官用の寮があったかもしれません。 質問の動機は、江戸城と比べてみたかったからです。 幕府の組織と役人の人数や大奥の女性の数までかなり詳細に分かりますが、朝廷のことはこのカテでの質問も少なく、よく分かりません。 ご回答の一部にある 「朝廷を営む摂政・関白などなどの貴族(通い)の人数をいれなければなりません。 天皇や中宮・皇后、女御や更衣などなど女性の数ももちろんです。 そのほか、庭掃除などの雑色もいたでしょう。」 が知りたい内容です。 身の回りの世話、炊事、洗濯、裁縫など女性も多かったでしょう。 建屋の保守、御所近辺の警固など男性の仕事でしょう。 そして肝心の皇室行事に関わる貴族・公家も働く人数に入ります。 これらがさっぱり分かりません。 日中働いている人数は、200-300人といったところでしょうか。
- ithi
- ベストアンサー率20% (1972/9601)
kouki-koureisyaさん、こんにちは。 禁裏付けとして二人、与力が20人、同心が80人ですね。 後は仙洞付け二人、与力4人、同心が80人ですね。 京都町奉行二人、与力が50人、同心が100人ですね。 京都所司代は一人、与力50人、同心が100人ですね。 二條城御鉄砲奉行は二人、同心が10人、手代が10人ですね。 二條城城門番頭は二人、与力が20人、同心が60人ですね。 他には二條城に在番している大番頭一人、組頭4人、大番衆が46人、大番組頭与力が10人、同心が20人です。ほかの組織や陪臣を含めて大体700人前後でしょうか?
お礼
ご回答ありがとうございます。 これは、二条城やその周辺にいた幕府の役人の人数ですね。 これはこれで大変参考にはなりましたが、お聞きしたいのは、御所にいる天皇とその家族や公家の人数です。 女官も大勢いたでしょう。
- oska2
- ベストアンサー率44% (2301/5116)
>御所には何人くらいの人が居たのですか。 江戸時代の京都は・・・。 庶民が、約40万人。公家・武家が約11万人でした。 現在の京都御所内では、天皇家・皇族・上級公家から下級公家まで約6万人が住んでいました。 当時の皇室料は「天皇家を含めて約3万石」ですから、上級公家までしか安定した生活は出来なかった様ですね。 多くは、内職として「絵画・カルタ・掛け軸」などを作成する内職に勤しんでいました。 幕末になると、「約10万石」に加増されましたが「焼け石に水」。 下級公家であった三条実美なんかは、「幕府憎し+徳川家憎し」の塊だった様です。 明治天皇(偽者説が多い)の従兄弟である「中山忠光」(明治天皇の母親の息子)は、将軍・幕閣・大奥の優雅で贅沢な生活を見て怒りを覚えたと記録にあります。 ※中山忠光は、天誅組の乱首謀者として孝明天皇から追討令が出て山口で死亡。 ※三条実美など7卿(山口に都落ちした公家)も、朝的・国賊として追討令が出た。 ※当時の大奥一年間の予算よりも、朝廷側予算が少ない。 まぁ、何ら政治的な力を持たない朝廷でも、旧来の組織が延々と続いていました。 簡単に言うと、天皇を頂点とした政治組織(平安時代のまま)が温存していたのですね。 組織名称・人員は、ネット・図書館などで調べると直ぐに分かります。 余談ですが・・・。 明治天皇偽者説は、幕末・(騎兵隊の方が有名ですが)伊藤博文が組織した「相撲隊」隊員が明治天皇になった!との説です。 1.三条実美は、山口に逃れる時に祐宮(孝明天皇一子)を人質に連れ去った。 1.祐宮は、山口藩内で死亡。 1.虚弱体質だった祐宮が、天皇に即位すると「大男」になっていた。 1.祐宮は「右利き」だったのに、明治天皇は「左利き」。 1.御前会議の場で、伊藤博文は天皇に向かって「黙れ!元の身分に戻すぞ!」と叱責した記録がある。 1.天皇の后は「皇后」と称するが、明治天皇の后は「皇太后」と称する。 ※当時の皇太后は、暗殺説が存在する孝明天皇の后の事。 まぁ、今上(平成)天皇になったから皇室関係にも科学的な調査が認められました。 皇太子が即位すれば、もっと色んな事実が明らかになるでしようね。 期待しましよう。
お礼
ご回答ありがとうございます。 >現在の京都御所内では、天皇家・皇族・上級公家から下級公家まで約6万人が住んでいました。 家族も含めて6万人も公家がいたとは思いもよりませんでした。 朝廷の仕事にありつけるのはごく一部ですから生活は苦しかったでしょう。
お礼
度々のご回答ありがとうございます。 私としては、貴重な時間を割いて、私のために回答してくださったわけですから、ご回答をおろそかにはできない、という気持ちです。 しかし、今後はお言葉に甘えて、もう少し気楽に読むことにします。 ただ、私は、次から次へと興味が出てきて、横道に逸れてしまうのです。 「大内裏の中の内裏(禁裏)」とは、どこにあって、広さはどれくらいだろうと思うのです。 天皇・公家の服装?装束?にも疑問をもっていました。 どこで、何着くらい作っているのだろうとか、宮司も似たような服装だから案外需要が多かったのだろうとか、御所内で縫製していたのか、御用達があったのかなど。 「陣定」と聞けば「陣議」という用語もあったな、と思い出したらキリがありません。 さて、質問の主題だった、「御所には何人くらいの人が居たのですか。また、どんな役目の人々が居たのですか。」については、詳しく説明くださったので、よく分かりました。 さらに「日米修好通商条約の勅許に関する朝議」についてもよく分かりました。 「安政5年1月14日に、太閤内覧鷹司政通の指示で、「鎖国の法大変革の事」について三公(左大臣・右大臣・内大臣)・*武家伝奏・議奏の*12名に意見の提出を求めたとあります。」 「重複、欠員はありますが、江戸時代を通じて摂関・摂家当主・(三公)・武家伝奏・議奏の10~15名ほどが執行部ということになります。」 ということですね。すっきりしました。 時に天皇は28歳でしたから、ご自身の判断で、 「天皇、公家、特に天皇の思想的背景は、米国や異国の蛮夷が神国日本に入ることは、神国日本の清浄を汚すものであり、伊勢神宮をはじめとする神や、天皇代々に申し訳ないことであるというものです。」 との結論を導くことができたのでしょう。 お陰様で数々の疑問は解消しました。