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松平定信は何故大老になれなかったのか?
↓ この資料によると、松平定信は大老就任を狙ったが、かなわず逆に解任されてしまったそうです。 http://kw.maruzen.co.jp/ln/s_issue/fukkoku_cat/maruzen_fukkoku_cat_yumani_mikanmatsudaira.pdf 何故、松平定信は大老の位を狙ったとたんに解任されてしまったのでしょうか? 松平定信が大老になれなかった理由を教えてください。
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この書を読んでいませんが、まったくの新説です。奇抜感がぬぐえません。なれなかったのではなく大老になる必要がないからです。 大老は臨時の名誉職です。大老になったからといって権力を行使できるものではありません。相談があったときに答えるくらいで、その相談も形式的であり、回答も「よろしい」くらいしかないです。 江戸時代は位が高いほど仕事がないか、あっても形式的な仕事(将軍の代理で朝廷にあいさつに行くとか)です。 「寛政の改革」でいろいろな政策やるなら老中のままのほうがよいわけです。 大老になるメリットは官位があがるくらいです。大名の官位は下から順に諸太夫→四品→侍従→少将ですが、定信が養子になる前はふつうは諸太夫、よくて四品でした。ところが老中になると侍従、大老になると少将に任官されます。それがメリットです。現在では定信は「老中解任」などと左遷めいたことを言われていますが、老中をやめたあと、侍従から少将に昇進しています。ですので左遷ではありません、大老と同じ官位になっています。ただ、前に述べたとおり、位があがると実務から離れます。さらに土地のやせた白河から土地が肥えて港もあって発展している桑名に国替えになります。権力から離れただけで、大老相当に昇進して家格もあがり、有利な地へ国替えになっているのです。大老になる必要はどこにもありません。さらには、もともと学問もできて教養もあるので隠居後も諸大名から尊敬されています。定信本人だけでなく、家格もあがり、これ以降の松平家は藩主も少将になっています。江戸城の詰所も1つあがっています(かのサイトになる溜之間詰) どこにも大老になる必要も、なりたいという動機もありません。 権力から離れるのが左遷という現代の感覚でかんがえてはいけないのです。松平定信は成功者です。もっともそれを期待して、松平家が田安から養子に迎えたのです。 幕政などという雑事は格の低い者が行うもの、格の高い者は名誉職や将軍の名代になる、それが江戸時代です。
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- eroero4649
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文章のニュアンスからして、「寛政の改革に逆風が吹いてきたので大老就任で一発逆転を狙おうとしたが叶わず、失脚した」という感じではなかろうかなと思いますけどね。 大老というのは本来将軍が幼少だったり大病だったりして政務が行えないときにおかれる特別職です。後の幕末に井伊直弼が大老になれたのは、将軍家定が黒船来航のショックなのか病状が悪化(元々病弱だった)して政務が執り行えなくなったからです。 家斉は政務が行えないわけではありませんでしたから、大老就任の口実はなかったと思います。もしかしたら画策したのかもしれませんが、それはもう「そうでもしないと失脚する」くらいに追い込まれていたのではないでしょうかね。
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御回答ありがとうございました。
- ithi
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ztyxvwodal さん、こんにちは。 彼の起こした寛政の改革の内容はほとんど将軍をないがしろにしたものでした。 11歳の家斉ではしょうがなかったのかもしれません。しかし15歳を過ぎ、元服を終えた家斉にはちゃんと報告する義務があったはずです。おりしも尊号事件が起こり、それと抱き合わせで、実父治済の大御所宣言もおじゃんになりました。反対した定信を家斉は老中及び将軍補佐の肩書を罷免のところを退任の形で収めたのです。家斉の側近のおかげです。 そして、大老になれたかですが、家斉が元服をしては大老を置く必要もない話です。家斉と数人の老中さえいれば(この中には定信シンパもいます。)済むようなことなんでしょうね。 実父治済 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E6%B2%BB%E6%B8%88
お礼
御回答ありがとうございました。 よくわかりました。
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御回答ありがとうございました。 すごくよくわかりました。 疑問が解決しました。 ありがとうございました。