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松平定信が失脚した理由は?

松平定信は何故、老中首座 だったのに辞めさせられてしまったのでしょうか? 寛政の改革や松平定信の政治がよくなかったからだ、と言いますが、その後も、寛政の改革を共に進めていた松平信明 等は、そのまま老中に留任しています。 松平定信が失脚した理由は何なのでしょうか?

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  • ithi
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回答No.1

o0i1e4n0 さん、こんばんは。 将軍家斉が実父、一橋治済の処遇問題で、大御所の称号を与えるかという大御所問題とか閑院宮典仁親王に尊号を送るという尊号事件、それから定信の改革のやり方が厳しすぎたというお話がりますが、おそらく実父治済に対する大御所の称号を与えるかに関して、エピソードがあります。刀を引き抜いた家斉にを両手で刀を奪った側近が定信にその刀を与えて事なきを得たという事です。 詳細は下記のURLを参照ください。 尊号事件 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8A%E5%8F%B7%E4%B8%80%E4%BB%B6 一橋治済 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E6%B2%BB%E6%B8%88 松平定信 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E5%B9%B3%E5%AE%9A%E4%BF%A1 徳川家斉 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E5%AE%B6%E6%96%89

noname#223282
質問者

お礼

御回答ありがとうございました。 松平定信が失脚したのは、一橋治済の大御所問題ですか。 尊号事件というのですね。 一橋治済が全て裏から操っていて、一橋治済の逆鱗に触れたから、松平定信は失脚したのでしょうね。 ありがとうございました。

その他の回答 (2)

  • kagakusuki
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回答No.3

 「尊号一件」の一件で、松平定信仕えていた第11代将軍徳川家斉の不評を買ったからだとする説が有力な様です。  尊号一件とは、第118代天皇である後桃園天皇らによる閑院宮典仁親王への尊号贈与に関する紛議事件の事で、まず第118代天皇である後桃園天皇には娘しかおらず息子がいなかったため、後桃園天皇が崩御した際に、「『第113代天皇であった東山天皇』の第六皇子であった閑院宮直仁親王」の孫にあたる師仁親王が急遽後桃園天皇の養子となる事が決められ、師仁親王は第119代天皇である光格天皇として即位しました。  師仁親王の実父は閑院宮典仁親王であり、師仁親王が光格天皇として即位した後も閑院宮典仁が親王である事に変わりはありませんでした。  江戸幕府が定めた禁中並公家諸法度では、親王の位は摂関家よりも下位とされていたため、師仁親王が光格天皇として即位した結果、天皇の父が天皇の臣下である摂関家を目上としなければならない状態となってしまいました。  それを不満に感じた光格天皇は、実父典仁親王に対して(摂関家よりも上位の位である)太上天皇(上皇)の尊号を贈ろうとしました。  しかしそれに異を唱えたのが御質問の老中松平定信であり、定信は「皇位についていない人間に皇号を贈るのは先例のない事態である」として反対します。  幕府の同意を得られなかった光格天皇らは参議以上の公卿40名を含む群議を開き、40名中35名の賛意を得て尊号宣下の強行を行う事を決定しました。  この動きに対し、定信は中山愛親や正親町公明をはじめとする公家に処分を下し、勤皇家の高山彦九郎を処罰します。  加えて、本来は勤皇派である筈の水戸徳川家が定信に賛成した事もあって、元先々代の天皇であった後桜町上皇と、光格天皇の叔父にあたる鷹司輔平が光格天皇に対して説得にまわったため、光格天皇は典仁親王を上皇にする事を断念しました。  これが尊号一件と呼ばれるものです。  松平定信が典仁親王への尊号贈与に反対したのは、彼は、自身が幕藩体制の再建のために進めていた寛政の改革の思想的根幹である朱子学を保護する立場にあり、朱子学は「大義名分」や「主君への忠」、「君臣の別」などを重んじる学派であったため、大義名分もなしに序列関係を入れ替えようとする光格天皇らの動きには反対するしかなかったのです。  また、序列関係を入れ替えて「主君への忠」や「君臣の別」を蔑ろにする行いを容認したのでは、ある意味「主君への忠」や「君臣の別」に基づいているとも言える幕藩体制に反する考えや運動を助長してしまう恐れもあったからという理由もあったのかも知れません。  それ以外の大きな理由として、尊号一件と同時期に第11代将軍である徳川家斉がその実父である一橋治済に対して「大御所」の尊号を贈ろうとしていた事を阻止するためでもあったのではないかとも言われているようです。  実は松平定信は、田安家を継いだ兄の治察が病弱かつ凡庸だったため、一時期は定信が田安家の後継者と目されていた事がありました。  ところがその頃の松平定信は、当時の老中だった田沼意次に対してその政治を「賄賂政治」として批判したため意次から存在を疎まれており、意次の権勢を恐れた一橋治済によって陸奥白河藩第2代藩主であった松平定邦の養子とされてしまったのです。  間の悪い事に、松平定邦の養子となったその年の8月に田安家当主であった兄・治察が死去してしまいました。  そこで治察の実母で定信の養母でもあった宝蓮院が大奥の老女・高岳に対して、定信が松平定邦との養子縁組を解消し、田安家を相続する事を要望している事を伝えたのだそうです。  しかし、その昔、御三卿の創立者である将軍徳川吉宗が「御三卿の当主に子供のいない場合は相続は認められない」という意向を示していた事を理由として、その要望は却下されてしまいました。  その結果、田安家は後に一橋治済の五男斉匡が相続するまでの14年間もの間に亘って当主が存在しない状態に置かれる事になってしまいました。  つまり、松平定信にとって一橋治済は定信が田安家を継ぐ事が出来なくなった原因を作った上に、息子に田安家を乗っ取らせた恨みがあった訳です。  また、自分に対してその様な仕打ちをした一橋治済が大御所として権力を掌握する事に危機感を抱いていたという事もあったかも知れません。  もし、ここで後桃園天皇らによる閑院宮典仁親王への尊号贈与を認めてしまうと、第11代将軍である徳川家斉による一橋治済への尊号贈与を正当化する口実にされるおそれもないとは言えません。  逆に、ここで後桃園天皇らによる閑院宮典仁親王への尊号贈与を認めなければ、天皇がその実父に対して尊号を贈与する事に口を出して認めなかったのですから、自分たち幕府の方でもそのトップである将軍がその実父に対して尊号を贈与してしまってはダブルスタンダードになりますので、その様なまねをする事は出来ないという事になり、一橋治済が大御所となる事を確実に防ぐ事が出来ます。  その様な思惑を松平定信が抱いていたのかどうかは定かではありませんが、兎に角、尊号一件で後桃園天皇らによる閑院宮典仁親王への尊号贈与を松平定信が認めなかった事によって、第11代将軍徳川家斉がその実父である一橋治済に対して「大御所」の尊号を贈る事は出来なくなりました。  この事により、松平定信は徳川家斉の不評を買う事になり、老中を失脚する原因となったとする説が有力とされている様です。 【参考URL】  尊号一件 - Wikipedia   https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8A%E5%8F%B7%E4%B8%80%E4%BB%B6  光格天皇 - Wikipedia > 2 略歴   https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%89%E6%A0%BC%E5%A4%A9%E7%9A%87#.E7.95.A5.E6.AD.B4  閑院宮典仁親王 - Wikipedia > 2 略歴   https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%96%91%E9%99%A2%E5%AE%AE%E5%85%B8%E4%BB%81%E8%A6%AA%E7%8E%8B#.E7.95.A5.E6.AD.B4  松平定信 - Wikipedia > 1.2 将軍候補   https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E5%B9%B3%E5%AE%9A%E4%BF%A1#.E5.B0.86.E8.BB.8D.E5.80.99.E8.A3.9C  徳川治察 - Wikipedia   https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E6%B2%BB%E5%AF%9F  徳川治済 - Wikipedia > 1 生涯   https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E6%B2%BB%E6%B8%88#.E7.94.9F.E6.B6.AF  徳川家斉 - Wikipedia > 1.2 寛政の改革   https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E5%AE%B6%E6%96%89#.E5.AF.9B.E6.94.BF.E3.81.AE.E6.94.B9.E9.9D.A9

noname#223282
質問者

お礼

丁寧な御回答ありがとうございました。 松平定信が失脚した原因は、尊号一件で、徳川家斉が一橋治済に「大御所」の尊号を送る事が出来なくなったからなのですね。 ありがとうございました。

  • oska2
  • ベストアンサー率44% (2301/5116)
回答No.2

>松平定信は何故、老中首座 だったのに辞めさせられてしまったのでしょうか? 単純に「吉宗の孫」である事を「権力を持っている」と錯覚していたからでしようね。 古文書記載では「世が世なれば、徳川家。何故、分家筋の松平なんだ!」と怒っていた様です。 将軍家としても、「吉宗の孫」として扱う事に困っていました。 寛政の改革失敗は、定信失脚の口実になって(将軍家・幕府首脳陣は)助かったと思いますね。 地に落ちた三菱自動車でも、同じ事態が起きていますよね。 三菱グループで一番権力が無い自動車に、権力を持った三菱商事から送り込まれた人物。 三菱自動車としては、「三菱商事の分身」として困っていた経営陣・社員もいました。 今まで会長兼社長として「ワンマン体制・絶対王朝」を築いていた益子会長兼社長が「会長職を解任・権限の無い社長」。 日産の軍門に下った(改革失敗)事で、会長職・社長職を実質的に首(失脚)になったのですね。 表向きには、社長職残留ですがね。^^; 右手は、ゴーン会長の紐付き。左手は、日産出向の専務の紐付き。 ルノー日産グループの、「マリオット」に過ぎません。 「驕れる平家は、久しからず」 定信も益子も、同じです。

noname#223282
質問者

お礼

御回答ありがとうございました。 松平定信は、「吉宗の孫」である事を「権力を持っている」と思い込んでいたのですね。 ありがとうございました。

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