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五大老について
五大老について 豊臣秀吉は幼少の秀頼の前途を 案じ、家康以下五大老に託したと歴史に ありますが、家康以外の五大老の 四人は前田利家・毛利輝元・ 上杉景勝・宇喜多秀家の4人ですが 豊臣秀吉は「毛利」攻めをしていたと 思うのですが、なぜ、毛利輝元が五大老に 入っているのでしょうか? 納得いく説明を求めます。
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敵対していた者も、降伏した後には、その傘下に加えるというのは、戦国ではよくある事だと思いますし、秀吉は、毛利以外にも島津や伊達政宗も傘下にしてます。 先の回答者さんがおっしゃる以外にも、上杉も信長と戦ってますし、宇喜多秀家もお父さんの時代は、信長に敵対した事もありました。 それから、上杉景勝が五大老になるのは、小早川隆景が亡くなってからですから、それまでは、五大老の5人のうち2人(輝元と隆景)が毛利の人という事になりますね。 これには、オモシロイがあって、あの本能寺の変の時、秀吉は備中高松城を水攻めの真っ最中でしたが、変の翌日に信長の死を知って、早く、ここを切り上げて畿内へ戻りたかった。 そこで、城主の清水宗治の死と引き換えに和睦を提案し、2日後に和睦しますが、高松城の援軍として駆けつけていた小早川隆景と吉川元春が信長の死を知ったのは、和睦が成立した直後。 この時、急いて畿内へ戻ろうとする秀吉を、「追撃しよう」と提案した元春に対し、「和睦が成立した以上、追撃はルール違反だ」と反対したのが隆景で、結局、追撃しなかったおかげで、秀吉は中国大返しに成功して、明智光秀を討つ事ができたと…。 それで、毛利から二人も五大老に入ってるのだとか… まぁ、後付けのお話だろうと思いますが、ドラマのストーリーのようでおもしろいです。
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豊臣秀吉は織田家の武将だった時に確かに毛利攻めをしていますが、本能寺の変の後、毛利家に織田信長の死を隠して、講和をしています。 毛利家から見ると、織田信長が生きている前提での講和だった訳で、詐欺にあったような話だったはずですが、その後本能寺の変のことを知っても、講和を破棄せず、結果として豊臣秀吉の天下取りに貢献をしました。豊臣秀吉から見ると、毛利輝元からは恩を売られたと言っても、大きな間違えはないと思われます。 質問者様の疑問に対する答えは、これで十分でしょうか?
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- tanuki4u
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2006年の民主党代表選挙で、小沢は管に勝利した。 小沢が代表になって、管を代表代行にした。 相手を滅亡させようとすると、相手も必死なので、妥協するのはよくあることです。 1582年まで織田の武将として秀吉は毛利と戦っていますが、利家とは1583年に直接戦っていますし、家康とは1584年に小牧長久手の戦いで戦っています。
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有難うございます。
- lions-123
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>五大老について 豊臣秀吉は幼少の秀頼の前途を 案じ、家康以下五大老に託したと歴史に ありますが、家康以外の五大老の 四人は前田利家・毛利輝元・ 上杉景勝・宇喜多秀家の4人ですが 豊臣秀吉は「毛利」攻めをしていたと 思うのですが、なぜ、毛利輝元が五大老に 入っているのでしょうか? ↓ 戦国時代の勢力拡大と維持は「和戦略」で行われていました。 和:和議・不可侵条約・同盟・朝貢・臣下の礼<所領安堵の約定> 戦:武力制圧 略:政略結婚や人質による血縁や担保を取り交わし、謀反や養子縁組等による乗っ取り 毛利は尼子や大内(陶)との戦に耐え・勝利し、その後も政略結婚と養子縁組を巧みに用いて中国全土を支配する大勢力になったが、織田家の家督騒動以降は秀吉の天下統一の圧倒的なプレッシャーの中で和の方針を取り、秀吉も四国(長曾我部)、九州(島津)、信越(武田・上杉)、関東(北条)等の多面作戦は難しく、個別撃破か和による平定(臣従・同盟)を和戦両様で迫り求めた。 その結果、和の提案へ早期の受諾は所領に応じ優遇し、逡巡や降伏した大名には過酷な所領没収・殺戮処分を見せしめ的に実施した。 毛利も照元の代になると、三川と言われる実力知略に優れた兄弟・親族の結束にもタガが緩み、勢力範囲が秀吉と接しており、秀吉の軍事力・政治力・経済力に対抗する資質・力が覚束なく賎ヶ岳の戦いの頃から秋波を送り始めていた。 その後、天下の覇権が明らかになると、諸国の残余の敵対勢力の一掃の戦いへの軍事経済支援や分担を通じ完全に豊臣恩顧の大名に組み込まれていった。 従って、秀吉晩年に設置された五大老・五奉行の制度は有力大名を大老に、秀吉子飼いの大名や抜擢智将から選抜して任命した。 大老は実務中心の奉行の政務の顧問でもあった。 実力的には徳川家康・信頼と結び付きでは前田利家に次ぐが、宇喜田秀家と小早川隆景に牽制されていたので関が原までは目立たぬ凡庸なリーダーと言う評価が多い。
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勉強になりました。どうも、有難う。
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なぜって中国地方のほぼ全域を支配している影響力があるからです、。 五大老は平たく言って「あんたら力ある人が」秀頼を補佐してねってものなんですから。 毛利攻めは結局和睦の形で決着していますから、今更です。 そんなこと気にしてたら信長時代から何度も戦った上杉、小牧長久手等天下統一の直前まで抵抗を続けた家康だって「なぜ?」ということになります。
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参考になりました。どうも、 有難う。
お礼
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