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松平定信の権力の大きさについて
老中の時の松平定信の権力の大きさはどれぐらいのものだったのでしょうか? 独裁者に近いような権力を持っていたのでしょうか? その時の最高権力者であった事は間違いないのでしょうか?
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bjgptmx さん、こんばんは。 田沼政治を一新することを期待しての起用であり、家斉は11歳ですから、老中首座、将軍補佐という立場から、幕府の第一人者であることには変わりないです。ただ、家斉の実父治済に大御所、光格天皇の実父である閑院宮に太上天皇の尊号与えるということを理非を解いていさめたため、たった6年で解任されました。 松平定信 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E5%B9%B3%E5%AE%9A%E4%BF%A1 徳川家斉 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E5%AE%B6%E6%96%89
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- kitsunetoneko
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最高権力者は,将軍;徳川家斉氏だと思うので,老中主座の松平定信氏は,徳川将軍家のNo.2でしょうね‥松平定信氏は,徳川家斉氏の側近で,補佐官のような立場だったようですが,その過激な質素倹約政策に,一般市民などを含め,周りの徳川将軍家の老中達や,幕閣などから,不満が出て,排斥され,松平定信氏は,オットセイ将軍こと徳川家斉氏の,女性好きや,側室達との性生活などにも,禁欲するよう意見した為,重用してくれた徳川家斉氏からも,疎まれ,老中職を罷免されたとか..二代将軍;徳川秀忠氏の隠し子で,異母兄の三代将軍;徳川家光氏の側近として重用された,徳川将軍家の重臣で,初代会津藩主の保科正之氏と,同じような立場だったのかもしれませんが,保科正之氏の場合は,徳川家光氏の信頼も厚く,生涯重用されたようですので,6年で干された松平定信氏とは,ちょっと違うようですが,松平定信氏は,堅物過ぎたのでしょうか‥‥奔放な,一橋家からの将軍である,上司の徳川家斉氏とは,最終的に,合わなかったようですね‥‥後白河天皇(後の上皇・法皇)の側近で,天皇の乳母夫であった,博識家で,辣腕政治家の少納言入道信西(俗名;藤原通憲)氏なども,奔放な男色家などの後白河上皇などに,厳しく意見してから,結局,平治の乱で亡くなってますしね‥失礼しました m(__)m 。
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御回答ありがとうございました。 松平定信は大きな権力を持ってはいたが、尊号一件の結末を見ればわかるように、一橋治済の怒りをかえば辞めさせられてしまう、という事ですよね。 松平定信は吉宗の孫なので、自分の事を偉いと思い過ぎた感があります。 後に、自分の事を神格化していますし。 そこが保科正之との違いだと思います。 ありがとうございました。
お礼
御回答ありがとうございました。 松平定信は時の江戸幕府の最高権力者で“寛政異学”の禁等を出したりしたが、尊号一件で一橋治済の怒りをかって、辞めさせられたのですね。 そういう意味では独裁者ではありませんね。 ありがとうございました。