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保科正之と松平定信を比較したら
保科正之と松平定信を(時代は少し違いますが、江戸時代の基準で)比較したら、どちらの方が、身分や地位は上でしょうか? どちらの方が血筋は良いと思われていたのでしょうか? 保科正之と松平定信を(時代は少し違いますが、江戸時代の基準で)比較したら、 (1) どちらの方が身分や地位は上だったのか? (2) どちらの方が格上だったのか? (3) どちらの方が血筋は良かったのか? この3つの質問の回答を教えてください。
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>どちらの方が身分や地位は上だったのか? 保科正之>松平定信ですかね。 保科正之は、将軍家・家康の孫にあたり3代将軍家光の異母弟。 松平定信は、(あくまで御三家出身の)8代将軍吉宗の孫で御三卿田安家の出身。 後の問いも、全て保科正之の勝ち! 保科正之は、信濃国高遠藩主・出羽国山形藩主を経て陸奥国会津藩初代藩主を歴任。(後の松平容保の先祖) 対して、松平定信は白河藩松平家の養子となり藩主となります。
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- eroero4649
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非常に難しい質問でしょうね。 ご存知だと思いますが、保科正之は徳川秀忠の子供になります。そこから考えれば「大権現家康の直接の孫」という血筋ですが、お母さんが侍女という立場です。ですので秀忠の子であるのですが、子供として正式には認められないという、なんというか「生まれてはいけない子」扱いのところにいました。 なので彼自身は「徳川」の名字はもちろん一族衆である「松平」の姓も名乗れずに「保科」を名乗っていました。名乗らざるを得なかった。「血統は間違いないのだけれど、格は一族の中にも入らない」です。 現代でいうなら、すごいお金持ちとか代々続く政治家の、風俗嬢が生んだ子みたいな扱いです。親子鑑定ではっきりしちゃったし、お父さん本人も認めているからお父さんの子ではあるけれど、その一族の中には入らないですよねみたいな。 一方の松平定信は、確かに「家康からの血筋」という点では遠いですが、八代吉宗の孫にあたります。徳川将軍家は吉宗以降は吉宗が作った御三卿から出ていて、定信もその御三卿のひとつ田安家の子になります。 だから、定信には将軍の継承権がありました。 保科正之は確かに将軍の子供でしたが、将軍の継承権はありません。定信は将軍の血筋は保科正之より遠いですが、将軍の継承権がありました。 当時の身分と血統の考え方からすると「松平定信のほうが格上」となります。現代の血統的な考え方からすると「保科正之のほうが家康の血統に近い」となります。 ただし保科正之が生きていた時代は御三卿が存在していませんでしたので、保科正之の時代の基準に照らすと「御三卿ってなんなん?そんなの存在しないんだけど。いうたところで紀州の子供になるんでしょ?」となります。 「江戸時代の基準で」といっても、その江戸時代はおおよそ200年あったわけですからね。明治維新から現代までで150年です。現代を江戸時代に合わせるなら、ようやくもうすぐ幕末になるかなくらいの感じですから、明治時代と平成時代を比較するようなものでしょうね。
お礼
徳川治察が妻子がなく亡くなった後でも、松平定信は、田安家の庶流の庶流である為、継げませんでした。 松平定信は、田安家の七男に過ぎません。 将軍継承権があった部分で、保科正之より上だと言えるのは、時の田安家の当主・徳川治察であればの話だと思います。
お礼
御回答ありがとうございました。