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松平定信とその兄の松平定国の比較
松平定信とその兄の松平定国は、どちらの方が格が上だったのでしょうか? また、どちらの方が偉いと思われていたのでしょうか? 松平定信と松平定国は、どちらの方が格が上だったのか、また、どちらの方が偉いと思われていたのか、を教えてください。
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xvuykxw さん、こんばんは。 松平定国の方が最初は上でした。といっても、田安徳川家から久松松平本家伊予松山15万石の養子に迎えられたんですから、当然です。定信は分家の奥州白河11万石の分家に養子に入ります。最初は定国が溜りの間、侍従に昇進。さらに左近権少将に昇進します。定信が出世したのは家督を継いで、御三家の推挙で溜りの間詰になってからです。田沼失脚後、11代将軍家斉の老中首座、将軍補佐というかたちで官位も左近権少将にまで上り詰めます。結局、数年で老中をやめさせられますが、前官礼遇のかたちで溜りの間詰めで居続けます。隠居後伊勢桑名に国替えになりますが、死後、三位を贈られます。これで定信の勝利となるわけですが、老中首座、将軍補佐だったんだから、本家に遠慮した形だと思いますが、大老になってもおかしくないと思います。 松平定信 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E5%B9%B3%E5%AE%9A%E4%BF%A1 松平定国 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E5%B9%B3%E5%AE%9A%E5%9B%BD
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- jkpawapuro
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伊予松山藩主定国が藩主継承後数ヶ月で溜詰に昇格、白河藩主時代の定信が帝鑑間席ですので、まるで序列を定めるかのようにこの時代は定国が上ですね。まあこの時代は田沼時代ですし。 その後定信は老中首座に抜擢されて、大名家格としては伊予松山藩が上ですが役職として定信が定国を圧倒します。まあ定信が格上でしょうねw 老中退任後溜詰に昇格、これで大名家としての名目的家格も松山藩主定国に追いつき二人とも従四位下だった位階も定信が死後正三位を追贈されて追い抜くことになります。
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御回答ありがとうございました。 初めは、松平定国のほうが上で、その後、同格になり、最後に松平定信が追い越したのですね。 よくわかりました。 ありがとうございました。 松平定国 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E5%B9%B3%E5%AE%9A%E5%9B%BD 松平定信 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E5%B9%B3%E5%AE%9A%E4%BF%A1
お礼
御回答ありがとうございました。 よくわかりました。