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松平定信が田沼意次を憎んでいた理由は?
松平定信は田沼意次を憎んでいたという話を聞いた事があります。 田沼意次は、徳川吉宗にずっと仕え続けていて、吉宗に大変気に入られていた田沼意行の息子なのに、何故、松平定信は田沼意次を憎んでいたのでしょうか? 松平定信が田沼意次を憎んでいた理由を教えてください。
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>松平定信は田沼意次を憎んでいたという話を聞いた事があります。 実際、仲は良くないかったでしようね。 定信が老中になると、徹底的に田沼政治を否定しましたからね。 それも、田沼が失脚した後も「色々と悪い噂を流す」のです。 ある意味で、異常です。 ※賄賂も、当時としては普通の事なのです。賄賂でなく、お礼金・心づけですからね。 >松平定信が田沼意次を憎んでいた理由を教えてください。 他にも回答がありますが・・・。 松平定信は、「徳川吉宗の孫」ですよね。 運が良ければ、将軍家・御三卿です。 が、奥州白川藩に左遷となった。当時の老中は田沼。 「田沼憎し!」だったと思いますよ。 また、定信は「超保守派」です。 「重農主義」で行き詰った経済を「重商主義」に改革しようとした改革派田沼は、許す事が出来ません。 定信は、吉宗の政治が100点!と考える保守派です。 吉宗の政策を否定する事は、許す事が出来ません。 今でも同じ事が起きていますよね。 前川前事務次官が「文科省は、日本政府の指示・管理は受けない。キャリア官僚が決めた政策に、政府・内閣は口出しするな!」とお怒りです。 ※「安倍政権によって、文科省の独立性が失われた」と、ペラペラ発言しています。 ※各省庁は、内閣の命令・指示・監督で行動する組織なんですがね。^^; ※前川君によると「司法・立法・行政・文科省」なんだそうです。 安倍首相を田沼意次。前川前事務次官を松平定信と置き換えると理解できます。
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- kitsunetoneko
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元々は,田沼意次氏を,憎んでいたのは,御三卿の一つの,一橋徳川家の,徳川(一橋)治済氏だったようですね‥‥徳川治済氏は,結果的に,当時の,徳川将軍;徳川家治氏に,田沼意次氏と,大奥の上層部の意見や,推挙などで,自身の息子;豊千代(後の徳川家斉氏)を,徳川家治氏の養子とし,自分の息子を,次期将軍職に,就かせることなどが,決まったわけですが,徳川治済氏自身は,かなりの策士で,権謀家な面があったようで,田沼意次氏には,将軍の重臣や,側近中の側近の人物として,自身の息子を,時の将軍の養子などに,推挙してくれた,多大な恩などが,あるわけですが,やはり,田沼意次氏自身は,いわゆる,平家の,平清盛氏のように,親子二代などに渡って,時の権力者の,徳川将軍家の将軍に重用され,元々は,紀州藩の一家臣などから,様々な運などが重なって,藩主が,徳川将軍家の将軍職を継いだことから,時の徳川将軍の小姓などとなり,どんどん出世を遂げて行った,いわゆる,時の人や,時代の寵児的な,徳川将軍家の将軍の,寵臣だったわけで,田沼意次氏は,頭も,切れたとは,思いますが,結局,徳川吉宗氏時代に制度化された,将軍の側近としての地位である,御側用人職ですかと,幕閣の重職である,老中職も,兼ねるなど,権勢をほしいままにし,大奥にも,切符が良かった為,人気が,有り,自身を支持する幕臣や,幕閣の人間なども,多かったようで,平治の乱で,排斥・殺害された,後白河院(上皇)の乳母夫で,時の執政だった,少納言入道信西(俗名;高階通憲)氏みたいですが,結局,その将軍をも凌ぐ,田沼意次氏の権勢や,権威などに,周りの,徳川将軍家につながる,御三卿などからは,『成り上がり者』としての,蔑みや,妬みなどが,あったのでしょうね‥‥田沼意次氏の場合は,息子の,田沼意知氏の死去後に,徳川治済氏が,同じく御三卿で,英明の誉れが高かった,田安徳川家出身者の,松平定信氏を取り込んで,田沼意次氏排除などの方向に,舵を切ったようです..驕れるものは 久しからず でしょうか‥‥結局,権謀家の,徳川治済氏等の意向で,田沼意次氏は,排斥され,次の,幕閣の中枢には,松平定信氏が,就任したようですので,松平定信氏自身が,田沼意次氏などを,すごく恨んでいたかどうかなどは,私には,よくわかりません..
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御回答ありがとうございました。
- jkpawapuro
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政治的考え方(経済政策)が真逆 政敵 まあそもそも嫌う理由がそろっているのですが、根本的な理由は下賎な出身のものが幕政を思いのままにしてたのが鼻持ちならないのではないでしょうか? ご存知かとは思いますが田沼意行は紀州の足軽、かろうじて武士とは呼べますが陪臣どころか松平からしたら小者もいいところです。 世が世なら将軍の血を引く松平定信などとは口などきけるわけがない。それが大名になり老中です、はっきり言って定信からしたら憎らしいし汚らわしいのでしょう。
お礼
御回答ありがとうございました。
- edogawaai
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松平定信は、儒教の信者で超保守派 田沼意次は、リベラルで 閉塞した幕府経済の現実を 改革したかった進歩派だったのです 現代の目から見れば、田沼が正しかったのですが 朱子学的儒教の信者の松平定信には、改革は絶対に容認できない事でした 今の、憲法九条信者と同じですね
お礼
御回答ありがとうございました。
- ithi
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xukcfir さん、こんばんは。 かれが、奥州白川藩主の後継者として養子に出されたときに、実兄田安治察が病死し、彼が養子を解消して田安家を継ごうと思った時、邪魔をしたのが田沼意次だったという事です。そうなれば、彼は11代将軍になる可能性が高かったのです。 松平定信 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E5%B9%B3%E5%AE%9A%E4%BF%A1
お礼
御回答ありがとうございました。
お礼
御回答ありがとうございました。 文部科学省はおかしいですね。 官僚ははっきり言って、ただの事務ですのにね。 選挙されたわけでもなく、国会や国民の監視を受けるわけでもない官僚が、国民を代表しているとでも、思っているんでしょうかね。 日本は、「維新の○傑」と言われていた人達が政治を去った時点で、官僚はただの事務以上の事をできないようにするべきだったと思います。 そうすれば、太平洋戦争に突入する事もなかったと思います。 ありがとうございました。