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本歌取り
本歌取りとは、先人の作品の用語や語句などを意識的に取り入れて和歌や連歌をつくることですが、 用語や語句ではなく、<句のつなげ方や構造>などでも、敬意をもって意識的にやっていれば本歌取りといえますか?
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本歌取りのウィキペディアによると藤原定家は ★本歌と句の置き所を変えないで用いる場合には2句未満とする。 ★本歌と句の置き所を変えて用いる場合には2句+3・4字までとする。 ★著名歌人の秀句と評される歌を除いて、枕詞・序詞を含む初2句を本歌をそのまま用いるのは許容される。 ★本歌とは主題を合致させない。 ★本歌として採用するのは、三代集・『伊勢物語』・『三十六人家集』から採るものとし、(定家から見て)近代詩は採用しない。 この5つをルールとしています。
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- fujic-1990
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> 本歌取りとは、先人の作品の用語や語句などを意識的に取り入れて > 和歌や連歌をつくることですが 私は、古文の先生に、以下のように習った記憶があります。 自分の歌いたい心情や情景がある。でも31文字ではとてもそれが表せない。 なので、古い有名な歌に詠まれた心情・情景を借りて来て、それを自分の歌の一部に取り込むことで、自分の心情や情景をいっそう深めたり広げたりするのが本歌取りだ。 ただ、黙っていて「取り込んだ」と自分で思っていても、読む人にはそれが分からないから、取り込む(読んだ人に古歌の心情などもイメージしてもらうための)手段として、古歌の一部の文字を引用するのだ。 と。 自分の心情・情景が主・メインなんです。本歌のほうは従、補足、手段なんです。そして本歌のイメージを取り込むことで、31文字で、自分の心情・情景が深まり、広まるんです。 したがって、「本歌の心情・情景を抜くと、ほとんどナイ」はもちろん、「本歌+α」なんて程度はナンセンス。 パロディなんて、どんなにおもしろくても(パロディとしての価値はあるでしょうが)、パロディであるからには古歌があって初めて成り立つものですから、本歌がメインでしょう。どうつなげてみても、「本歌取り」と称するなどおこがましい。そういう言葉は使えないと思います。 また、自分の歌が取り込まれることで、後世の歌人の歌がとても深くなったり広くなったりしていれば、先人も「本歌取り」として、自分の作品が利用されたことを許すでしょうが、そうでなかったら、・・・ いわば、整形美容で醜くなったときに「あなたの製品を利用したので」みたいに言われても不愉快なだけだと思うんですよ。 たとえ、その藪医者が敬意をもって、「あなたの製品はとても使いやすいので、このような方法で使っています」とか言ってもダメでしょう。 私としては「それは本歌取りですね」と胸を張って批評できるのは、その新作和歌が、古歌を利用していることによって、新作和歌としての全体的価値を高めている場合ですね。 単に、<句のつなげ方や構造>などに、敬意や配慮が認められても、本歌取りとは認めがたい。 まあ、結果として醜くしても美容整形手術は美容整形手術だ、ということであれば、「本歌を劣化させてみました」でも本歌取りと言えるのかもしれませんが・・・ 。 極端な話、古歌の文字列など一切使わなくても、古歌を知る人が、古歌をもイメージせざるをえないような歌を作り、全体としての価値を高めていれば、本歌取りの歌でありうるんじゃないかとさえ思います。お目にかかったことはありませんが。
お礼
本歌取りの定義にも、広義と狭義のそれがある、とのご指摘かと思いました。勉強になりました。ありがとうございます。
- hue2011
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本歌取りというのは、今のことばでいえば「リスペクト」です。 ですから、その表現を聞いて、あああのあれを参照しようとしているのか、がわかるなら、本歌取りになると思います。句のつなげかたでも構造でも、本歌がすぐにわかるようなら本歌取りといっていいと判断できます。 これはそんなに高度にやってはいけないもので、誰でもわかる連想を引き出さなければ意味がありません。その意味で、本歌のほうが知らぬものがないほどの有名なものである必要があります。 だから、敬意をもって意識的にやったからそうなるとは保証はできません。 「道灌」という落語があります。 これは太田道灌が突然の雨に降られてそばの貧乏そうな家に雨宿りをたのんで、できたら傘かミノを貸してくれないかと頼んだ。そうしたらそこの娘が山吹の枝を盆に乗せて差し出した。 道灌は意味がわからなくて困った。馬鹿面をしてぼーっとしていると、同行していた家来が、「兼明親王の『七重八重 花は咲けども 山吹の 実のひとつだに なきぞ悲しき』でございます、この娘はミノひとつもなく申し訳ございませんと申しておるのです」と教えた。 道灌は、その娘の本歌取りでアクションを起こした教養と機転に驚き、自分は教養が足りないと思って恥じて勉学にいそしんだ。そういう話を起点としてバカバカしい笑い話にもっていくのが落語です。 つまり、本歌を知らなければ何を言われてもわからないし、本歌とりを仕掛けた意図も理解されない危険があるということです。 話はともかくとして、道灌の例は「後拾遺和歌集」ですから、おそらく今聞いたら日本人ほご全員に近い人間が実のひとつだに、を思い出しません。いくら敬意を持っても意識的にやっても、それを察してもらえないと思われます。 それがリスペクトの危ない所なんです。
お礼
敬意をもって誰もが知る歌を連想させれば、全て本歌取りであるというご主旨ですね。 どうもありがとうございました。
お礼
ウィキペディアに「本歌取り」の項目があるとは夢にも思いませんでした。 ありがとうございます。 熟読してみます。