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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:忠臣蔵は美談ですか?)

忠臣蔵の血まみれの真実

このQ&Aのポイント
  • NHK大河ドラマを含め、忠臣蔵の様々な映像作品が存在しますが、その真実は分かりません。
  • 忠臣蔵は一部で美談として描かれていますが、実際には仇討ちのために殺人を犯し、血まみれになるなど、過酷な行為が行われた可能性もあります。
  • 忠義の心や侍の美学に触れる作品として評価されていますが、当時の死体や遺体の処理については不明な点も多いです。

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回答No.6

浅野家側からの視点なら美談。 主君に命かけて忠義尽くしたのですから。 また武士の立場・当時の国民の立場から俯瞰しても美談。お家取りつぶされてちりじりになっても主君の仇討果たしたのですから・・・。仇討が当時の法律上許されてた社会情勢は、現在とは違うので今の感覚で計ることはできませんね。 ただし、吉良側・幕府側から見ればこれは美談でもなんでもありません。既に幕府としての正式な裁定下ったあとの逆恨み的な蛮行に過ぎないでしょう。吉良上野介は国許では名君だったらしいですしね。悪役的なイメージは後世の講談とかのせいでしょう。他方浅野内匠頭は短気で名君とは程遠い人物だったらしいし・・・

noname#225409
質問者

お礼

聞いた事はあります。よくキレていたらしいです。今となってはどうして切りつけたのか、本人にしかわからないことです。また神のみぞ知る、ところでしょうか?吉良上野介は庶民のため用水路を作ったという話も聞きました。まさに歴史は塗り替えられているのでしょうか?真実は誰にもわかりません。 ありがとうございました。

その他の回答 (6)

  • staratras
  • ベストアンサー率41% (1498/3648)
回答No.7

この討ち入りについては、その当時にあっても評価が分かれていて、皆が皆「美談」だと考えていたわけではありません。 発端となった江戸城内の刃傷沙汰については、現在に至るまで動機がよくわかっていません。義央が長矩に賄賂を贈らなかったから意地悪をされたなどというのは想像で作られた話らしく、当時の確実な史料にはなく、大石らもそのようなことは主張していません。 しかし当時の武士は自分が直接仕えている主君に対する忠誠を何より重んじていました。この立場からは、理由のいかんを問わず主君浅野長矩が吉良義央に切りつけて殺そうとしたが果たせなかったことが重要であって、その主君が「果たせなかったこと」を家臣が代わって実行したのが討ち入りです。 これはいわゆる「敵討ち」というにはあたらず、むしろ一種の「自力救済」と見るべきでしょうけれど、当時の幕府内でも在野の学者の間でも浪士の評価が分かれました。主君浅野長矩に対する忠義という立場からだけ見れば「立派な行い」で、この点を高く評価する者がいたことは当然です。 しかし時はすでに戦国の世ではなく、幕府という日本全体を治める中央政府が存在していました。幕府の立場から見れば、主君の私怨のために、集団で幕府高官の屋敷に押し入って吉良義央らを殺傷したのは、この時代なりの「幕府による法と秩序」に対する挑戦に他ならないと冷静に考える者もいました。 結局切腹を命じることになったのは、吉良家の断絶とあわせて遅まきながら(当初の刃傷沙汰の際には実行されなかった)「喧嘩両成敗」の慣習法を尊重する態度を示したものと考えることができますが、江戸の人々が浪士の討ち入りという行為を高く評価したことも背景として無視できません。江戸時代であっても時の政権は「世論」を無視することはできなかったとも考えられます。 結論としては、事件当時も現在も「美談」と考える者もいれば、そうは考えない者もいるということになるでしょう。回答者個人は「美談」というより、時代の転換期にその流れからやや遅れたが故の「悲劇」ではないかと考えます。とりわけ被害者であるはずながら悪役視されている側にとっては…。三田村鳶魚は次のように述べています。(以下引用) …『忠臣蔵』の勢力は実に偉大なもので、赤穂浪士復讐に関係のある人物及び事柄の批評観察は、一切ここから打算される。自分が吉良義央の事跡を稽査するについても、世人は芝居の『忠臣蔵』から観察して、予断的に吉良義央を品騭するのを遺憾とする。…(「『忠臣蔵』の師直」)

noname#225409
質問者

お礼

ありがとうございました。

  • nekosuke16
  • ベストアンサー率24% (903/3668)
回答No.5

忠臣蔵は、他の回答者にあるように、目的は、あくまで、松の廊下の刃傷事件において、綱吉により内匠頭に下された切腹命令に対して、吉良上野介は御構い無しという「喧嘩両成敗」の原則に反した判断の誤りに対する謀反であり、私情による敵討ちとは、本質的な違いがあります。 こうした図式も、宮本武蔵などと同様に時代の変遷の中で、講談や歌舞伎の題材として、着色編集されながら現代に至っていることは当然のことです。 結果として、時代劇にありがちな勧善懲悪的な美談として、吉良低討ち入りの12月14日を前に毎年のようにテレビなどで放映されてきました。 ただ、武士の鑑などと言われながらも、貴方の言う通り、今風に言えば、単なる大量殺人事件でしかありません。 しかし、関ヶ原から100年の時を経て、漸く、戦乱の世から太平の世になったとはいえ、鎌倉以来の武士の世の中が磐石なものとなったに過ぎない。 つまり、武士の帯刀は、平民に対する殺人を日常的に許容し、また、決闘、仇討ちも、その成果、目的によっては、天晴れなどと言われた時代でもあります。 大量殺人の中で、誰が腸を拾い頭を集め、何処にどう処分したかという問題ではなく、殊に忠臣蔵の場合は、武士の在り方というよりも、明らかな政治批判という点においては、殺人という事実以上に精神性が最も重要な要素だったのではないですか? 後の時代に語られるからこその美談。 勿論、今の時代に馴染む部分は皆無ですがね。

noname#225409
質問者

お礼

私も人の言うことに感化されるところもあるようです。 おっしゃる通り、後に語られるから美談?でも真実は何処へ?でしょうか? また、真実とやらは・・・ ありがとうございました。

  • meido2010
  • ベストアンサー率15% (68/448)
回答No.4

武士社会の江戸幕府は鎌倉幕府以来の将軍が治める社会です。 特に江戸時代の前は戦国時代で幕府が開闢してからも大坂の陣があった くらいです。(注、真田丸を見てください) 武士に求められるのは、忠義です。主君に忠義で応えることが真の武士 である。と徳川家康が薫明して以来、武士の誉となりました。 実際は、関ケ原の戦いの際に負けた石田三成の豊臣秀吉に対する忠義心 に感銘を受けた。とも言われますが。 江戸時代も元禄時代になると武士が武士の本文を忘れて遊興に浸る姿が 目立つようになり、町民からも蔑まされる行いをする武士もいました。 そんな時代に江戸城松の廊下の事件があり、嫌みで賄賂好きな吉良上野介 がお構いなし、浅野内匠頭は即日切腹で御家断絶。これ程庶民が「すわ 仇討ちか」と色めき立つのは当たり前ですね。 近松門左衛門が人形浄瑠璃や歌舞伎で「仮名手本忠臣蔵」の台本を書いた のも、こんな世情があったからです。 そして、江戸庶民が仇討ちはいつだ。仇討ちはいつだ。言っていている内に 本当に吉良屋敷に赤穂の浪人が討ちいって見事本懐を遂げたのだから、彼ら を英雄視するのは当たり前です。 ちなみに幕末の新選組の陣羽織も歌舞伎の忠臣蔵を真似たものでした。 また、斬られて死んだのは吉良家と上杉家の者だけで、赤穂の浪人からは死者 は出ていません。死者の埋葬は吉良家と上杉家でやっています。 また、検視には大目付の多門伝八郎が立ち会っていました。 彼らは三家の旗本の家に預けられ、年が明けて二月にそれぞれの家で切腹して います。 また吉良側の武士で逃げた者、戦わなかった者は切腹、斬首の裁定が下され ました。

noname#225409
質問者

お礼

ありがとうございました。

回答No.3

主人の為に仇を討ったところが美談であって、わざわざ掃除のとこはいわなくていいでしょ。 美味しい牛タンを「牛を殺傷したのは誰だ」「舌を切り裂いて」とか言うのでしょうか。

noname#225409
質問者

お礼

ありがとうございました。

  • SPS700
  • ベストアンサー率46% (15297/33016)
回答No.2

 忠臣蔵は、当時の政府の批判ですから、大石内蔵助が大星由良之助、吉良上野介が高師直と変名を余儀なくされる頃から、事実は情報統制にあっていたわけです。  美談かどうかは別として、多少たりとも史実と関連のあるものは、桃太郎よりは信憑性がある、といった程度でしょう。

  • tzd78886
  • ベストアンサー率15% (2590/17104)
回答No.1

当時の価値観に合っていたので「美談」になったのでしょう。何でもそうですが、価値観というのは時代とともに変化しますし、常に同じではありません。私も復讐のためにすべてを捨てた47士には賛同できませんが、これは人それぞれでしょう。

noname#225409
質問者

お礼

ありがとうございました。