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天下とり

戦国時代の豊臣秀吉という人は なぜ一代で滅んだのでしょうか 子供跡継げないのは、徳川のせい なの、それとも子供は幼くご褒美 期待できなかったのでしょうか 宜しくお願いします。

みんなの回答

  • Hoffman2
  • ベストアンサー率40% (18/45)
回答No.8

正確には秀頼のときに滅んでいるので豊臣二代で滅亡ってことになります。 理由は他の方が言われてるように、生まれながらにしての家臣団というものを持ってなかったとか、天下人になるまでの秀吉と、老後の秀吉は人が変わったとか、いろいろ理由はあるでしょう。 私はちょっと違う視点で考えを述べたいと思います。 戦国最強と言われた武田家も隆盛を誇った信玄時代からわずか一代、息子の勝頼のときに滅んでいます。譜代の家臣もいたのになぜ? それは、信玄しかり、秀吉しかり、突出して偉大過ぎたからではないかと思ってます。 偉大ゆえに、最終決定権はすべて自らが決めていた。今で言う一代で築き上げた創業者でありワンマン社長。自分が存命中であれば何の問題もないけど、自分の死後のことまで考えてなかったことが最大の問題だったと思います。 譜代の家臣がないとはいえ、自分が存命中に、きちんとした豊臣家を中心としたシステムを構築しておくべきだった。五大老、五奉行制度にしても、いかんせん作るのが遅すぎた。死ぬ間際につくったのでは意味がない。存命中に、自分は表面上は隠居し、甥の秀次に関白職を譲り、あくまでも政治向きの全権を譲渡し、自分は裏で睨みを利かせる。まさにこれをやったのが徳川家康。将軍職を息子秀忠にすぐに譲り、表向きは幕府の二代将軍として権力を譲渡するも、自分は大御所として裏から睨みを利かせる。同時に、幕府体制を強固にする。 秀吉もこれができていたら、二代で滅ぶことはなかったかもしれません。 ただ、体制を強固にするためにも、やはり身内、もしくは身内に近い存在の実力者は欲しかったですね。それが実弟の秀長であり、竹馬の友である前田利家。この2人のうちどちらか一人でも秀吉死後10年存命であったら、豊臣体制も確立できていたのではないかと思います。そうすれば秀頼も成人するし、家康も天下獲りを諦めたかもしれない。 一代で傑出した人物が出てくると、どうしてもその後継者が見劣りしてしまう。そうならないようにいかに次世代に引き継ぎ、後継者を盛りたてていくような組織を固めておくかが重要なのではないでしょうか。滅亡しなかったまでも、歴史上偉大な人物の子の代になると、大幅に力が落ちた大名が多いのはそのせいだと思います。

habataki6
質問者

お礼

ありがとうございます。

回答No.7

でしょうね 家康が側室を大量に抱えて 子供をたくさん作ったのは秀吉が子に恵まれなかったのを教訓にしたとも言われています とにかく秀頼に権力を集中させすぎた… 弟の秀長は病死 跡継ぎだった羽柴秀勝は朝鮮で戦死 関白を継がせた秀次は邪魔になって切腹させる… これじゃあ豊臣は黙ってても滅びます

habataki6
質問者

お礼

ありがとうございます。

  • eroero4649
  • ベストアンサー率32% (11074/34519)
回答No.6

そこは一代で成り上がったブレーンのなさゆえの哀しさでありましょうね。徳川家康の場合、元の家が小さかったとはいえいわゆる譜代の家臣というのがいて、その家臣の徳川家に対する忠誠心は絶対でした。幕末になってもこの譜代の家臣で徳川家を裏切った家臣の家はなかったのですから、その忠誠心はまさに絶対といえるでしょうね。 この家臣団は家康個人に心酔していたというより、「徳川家」という存在そのものに対しての絶対の忠誠心だったので、当主が家康だろうが秀忠だろうが家光だろうがそこが揺るぐことはなかったのです。 一方の豊臣家は、元はといえば農民ですから家臣団というものがいない。組織そのものが非常に弱かったのです。しかもその忠誠心は豊臣家ではなく秀吉個人のカリスマ性に頼るものだったのですね。秀吉には前田利家のような竹馬の友もいたわけですが、しかしその利家でさえ大名としての扱いで、「家臣」にすることはできなかったのです。だから関ヶ原のときも前田家に味方に付いてもらうことができませんでした。 その家臣団の組織も、徳川家は小家であっても昔から続く組織が完成されていたわけですが、豊臣家は文字通りに何もないところから急成長したのでツギハギだらけだったのですね。加藤清正も福島正則も石田三成も秀吉に対する忠誠心は絶対だったけれども、家臣団としての結束にはならなかったのです。いってみりゃ石田三成なんて中途採用組ですからね。 これって急成長したベンチャー企業の典型的なパターンですよね。カリスマ的な社長のもとに急成長するけれど、急激な会社の巨大化に組織が追いつけずに社員のまとまりができず、その社長が亡くなったり事業の失敗で引責辞任したりするとあっさりバラバラになってしまいます。ライブドアなんてそうでしたね。あの騒動の中で社員たちが結束したのかというとまるで逆でホリエモンも含めてみんな自己保身に走りましたよね。「俺たちはライブドアという看板を守るのだ」なんて意識はまるでなかったわけです。だからあんなにあっさり瓦解したのです。 徳川家はまさにトヨタのそれと似ていますね。社員の「トヨタという看板」に対する忠誠心は絶対じゃないですか。それは創業一族である豊田家個人に対するものというより、トヨタという会社そのものに対する愛社精神ですよね。

habataki6
質問者

お礼

ありがとうございます。

  • hekiyu
  • ベストアンサー率32% (7193/21843)
回答No.5

家康などは何代も続いた領主と家臣の関係が ありました。 しかし、秀吉は成り上がり者なので、そういった 家臣がおりません。 秀吉には従うが、その子孫に従うかは利害 で決める。 つまり、秀吉を支える人材はいたが、豊臣家を 支える人材が少なく弱かった、というのが その答えだと思います。

habataki6
質問者

お礼

秀吉という人は子供のこと頼むと他人に頼んでいたようですね 身近にいる人ほど信用できないというのは常識なんですけど、 恩賞とかでなければ使えないような人は味方ではないですよね。 ありがとうございます。

回答No.4

詳しくない私の簡単な理解ですが、 豊臣の前に織田という先人がいました。ほっとけば天下を取ってただろうと言われる人物です。が、有名な本能寺の変で殺され、彼の長男もそのときに殺されています。しかし、2男と3男は残っていて、普通に考えればこいつらが織田家を継いで天下を取っていたはずだったのですが、それを横取りしたのが豊臣です。 この豊臣は、関白になりました。よく間違えられるのですが、関白は征夷大将軍より上です。天皇の威厳などはすでに地に落ちていましたので、実質関白たる豊臣の天下になりました。 しかし豊臣秀吉には唯一の不幸がありました、それが実子がいないということです。なので彼は養子をその跡取りに考えていたのですが、高齢になった彼に運命のいたずらが起きます。実子ができたのです。高齢となり、何らかの精神病を患っていた豊臣秀吉は、自分の子かわいさに跡取と考えていた養子を殺し、他にも非道の数々を行い、更に朝鮮出兵を行って他武将(大名)の反感を買いまくって、そして死んでしまいます。 それを目の当りにしていたのが徳川です。豊臣のほぼナンバー2だった徳川は、豊臣に反感をもってたやつを取りまとめて力をつけていきます。同じくほぼナンバー2の石田は、好人物だったにも関わらず朝鮮出兵の負の部分を受け持つなど豊臣の負の部分を受け持ち、皆から嫌われていきます。そのような中で、徳川による独裁体制の構築を見た石田は、豊臣の意を継ぎ徳川を討つべく戦をしかけます(結果はご存知のとおり)。 関が原で天下人となった徳川は豊臣の力を大きく削ぐものの『西の豊臣、東の徳川』と言われる程度が限界でした。なので、いちゃもんをつけて豊臣を攻めます、大坂の陣ってやつですね。これで豊臣を滅ぼした徳川が、晴れて天下を取ります。天下を支配するのに関白ほどの位は必要なく征夷大将軍の特権で十分で、実質天皇も支配下に置き、400年の太平の世をつくりあげたのです。 豊臣が精神病で狂わなければ、徳川も天下を取ろうとは思わなかったらしい、と聞いたことがあります。

habataki6
質問者

お礼

身近にいた人を処分すれば誰も次は自分かもと思いますよね 女、子供でも容赦しないというのは狂っていたということ なのでしょうかね。 ありがとうございます。

  • oska2
  • ベストアンサー率44% (2301/5116)
回答No.3

>戦国時代の豊臣秀吉という人は、なぜ一代で滅んだのでしょうか 先ず、老後の弊害ですかね。 先祖代々の部下とか親族が、秀吉にはいません。 (秀吉に、唯一意見できる存在だった)秀長にしても、早く死にましたよね。 権力集中の独裁ですから、朝令暮改でも誰も意見を言えません。 また、50を過ぎて出来た秀頼に対する異常な程の愛情の結果でしよう。 次に、秀吉亡き後の豊臣家。 武闘派(加藤清正など)と事務派(石田三成など)の対立と、この対立を納める武将が誰もいなかった事。 前田利家も、秀頼が権力を持つ前に死亡。 秀頼の、優柔不断。 関ヶ原の戦いの時に、西軍大将として出陣していれば歴史は変わっていたかも知れません。 最期に、豊臣の力を過信し過ぎた事。 無位無冠の秀頼は、征夷大将軍の家康に敵う訳がありません。 加賀前田家が「人質(実母)を江戸に送った」ように、秀頼も淀君を江戸に送る必要がありました。 そうすれば、武田家・織田家などと同様に幕末まで生き延びる事が出来た可能性があります。 余談ですが・・・。 鹿児島・宮崎には、秀頼生存説が残っています。 日出藩で、秀頼は「木下家の子供」として育ったとか・・・。 秀頼の位牌には「豊臣秀頼」と書いています。 ※旧日出藩主木下家では、一子口伝で秀頼生存関係が伝えられています。 まぁ、徳川幕府としても「秀頼は、過去の人」と考えていたのでしようね。 正史では、大坂の陣で自決した事になっていますから。

habataki6
質問者

お礼

ありがとうございます。

  • ithi
  • ベストアンサー率20% (1972/9601)
回答No.2

habataki6 さん、こんばんは。 戦国時代の豊臣秀吉という人は なぜ一代で滅んだのでしょうか 子供跡継げないのは、徳川のせい なの、 そんな単純な話ではありません。 結局、彼一代で築き上げてきた身代です。一時期甥の秀次に継がせるつもりでしたが、秀頼が生まれた結果、粛清されてしまいます。2度にわたり、何年もかかっている朝鮮との戦争はできたばかりの豊臣家を滅ぼすのに十分な問題でした。つまるところ、秀吉の晩年の我儘が自分の寿命と豊臣家の行く末を危うくしたというのが結論です。 それとも子供は幼くご褒美 期待できなかったのでしょうか 宜しくお願いします。 だって、秀吉が生きていても領地の加増するというところがありません。これが朝鮮との戦争の最大の理由だったようです。

habataki6
質問者

お礼

老いると子供のようにわがままになってしまうのでしょうかね ありがとうございます。

  • tknkk7
  • ベストアンサー率11% (378/3310)
回答No.1

現代で言われる、教育・躾け・理念・・・等々、あの時代では、”強さ=集団特性有効活用+武器入手手段+優秀な親戚+経済観念の伝承+政治力・・・全てに渡り、孤独なる”英雄の末路。

habataki6
質問者

お礼

独裁というものは敵つくらなくても滅びていくものなのですかね ありがとうございます。

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