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豊臣秀吉以前の天下統一とは?
- 戦国時代の前には平氏政権・鎌倉幕府・室町幕府などが日本を支配していましたが、豊臣秀吉が史上初めて天下統一を成し遂げました。
- しかし、それ以前の政権は天下統一ができていなかったため、幕府を開くことができました。
- 鎌倉幕府などは一定の勢力を持っていましたが、天下統一とは言い難い状況であり、豊臣秀吉が初めて本格的な統一を達成しました。
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戦国末期までは荘園制の名残が残っており、其の地域は他の支配を拒否していました。 「加茂川の流れと賽の目と山法師は意のままにならぬ」と白河法皇の言葉が残っている通りに、当時から寺社の勢力を抑える事は出来ませんでした。 そして武家も独立勢力となり武家の事は武家で決めると幕府を樹立しました。 つまり大きく分けて、日本には公家・武家・寺社の勢力が入り乱れていたのです。 そしてその荘園支配に一番最初に乗り出したのが今川義元です。 つまり戦国期になって初めて、実力者が力で支配する形が登場したのです。 それを信長が「天下布武」で完成させて、寺社勢力も抑え、それを秀吉が全国に徹底したのです。 刀狩がその象徴で、あらゆる勢力も武力を持つ事を禁じたので、武力を所有できるのは武家だけと、これで決まりました。 これにて天下一統が成りました。
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- 0fool0
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返す返すもご質問者様には、心ならずもこの場を荒らしてしまった事を深く深く陳謝いたします・・・ さて、私にも漸く何を言っているかが判ってきました。(血の巡りが悪いもので、時間が掛かってしまいましたw) どうやら 「法体系がしっかりしていないから、天下統一とは言えない」 と、言っているらしいです。 この言葉の裏は「法がしっかりしていないから、滅んだ」でしょうか。 >個人が政権全てを掌握し得たなどの印象を与えてしまうのはとても危険な行為であるとの話をしているだけです さぁ、是に対して何と言おうか・・・、この文章だけでは何が言いたいのかサッパリ判りません。 秀吉は独裁者では無かったでしょうか?独裁がいけないと言いたいのでしょうか?そりゃ悪いですよ? 統治と言うものを理解していないのか、別の視点で言っているのか? これは別の議論が必要になると思いますが、繰り返しますが、此処で行うのは大変失礼です。 自分の責任で別に質問して下さい。 >「基本となる法体系」とそれを実施するための官僚組織が必要 ルールを守っていれば大丈夫と言う人間だけなら、なるほど、戦国時代などにはなりません。 家康も秀吉(と利家)の死後、専横にふるまいます。 法体系がしっかりしていなかったからこうなったは聞きません。 だったら秀吉が生きている時からしなければ説明が付きませんから。 >近世幕府論とその前提に関して秀吉を積極的に評価しているとの話を耳にした事がありませんので そりゃ当然、私も聞いた事が無いですね。 反面教師的な面が強いですからねぇ・・w(てか殆ど反面教師w) 私は秀吉を政治家として政策家として優れているから、天下を統一出来た等と何時言いましたか? または別の話ですが江戸時代に渡辺崋山の『慎機論』や林子平の『三国通覧図説』を幕府はどうしましたか? どうも『法』が人の上にないといけないと言う考えらしいですが、それは一面でしかないとは・・、気付いては貰えないでしょうねぇ・・。 第一時代的に全ての法は権力者の権力を守る為に使われるのですよ? 其の範囲内でしか福祉は行われませんし、そもそも発想が無いです。(あるのは功徳や恩情ですかね、つまり気分次第) 自分の思想を持つのは結構ですが、今、生きている人間が、過去の人間を嘲るが如きの発言は慎まれたほうがいいでしょう。 仮に貴方が其の時代に生きていたら、どう生きて、どう考えるか? そこから読み解かなければ、歴史は観念論の餌食になります。 ジンギスカンが義経だとか、天皇は朝鮮の奴隷だとかね。 >一歴史学徒にすぎない僕をご指導いただけるなら幸甚ですが イエイエ・・、私等は考察をするだけの人間で、必要な事が起きれば其の都度ググル程度の好事家でしかないです。 私は書物では見えない人の動き(歴史)を読み、真理を解き明かしたいだけです。 で、ここではこの議論の繰り返しはもうしません。 何度も言いますがご質問者様に失礼です。 私が間違っていてもべつにいいのです、其の時は貴方が口にしたのと同じ様に、私が貴方に教えを請えば済む事です。 其の時は是非、御教え下さい。(優しくお願いします) 私が必要としているのは真実・真理なのであって、プライドではありません。 だから土下座は嫌ですが、間違った時は謝罪をするのは苦ではありません。 どうかよろしくお願いします。 最期にご質問者様、本当に申し訳ございませんでした。 このやり取りは私としてはこれで終了とさせて頂きますので、これより先はご安心をお願いしたいと思います。 勿論、双方悪気で行ったのではなく、議論が白熱してしまったが為の始末です。 しかし場を弁えない暴挙は真に申し訳なく存じます。 で、取りあえず私としての意見では、「全国津々浦々、海までも命令を徹底出来た秀吉を持って、『天下統一』と成る」です。 どうもお耳汚し、失礼致しました。
お礼
(大変失礼ながら、このお礼は、0fool0さんとTANUHACHIさんそれぞれに当てて同一のものを入力しています。) 少しばかり目を離していたらば、思いも寄らないほどの激論が繰り広げられており、「おぉ」と思わず感嘆の声をあげてしまいました。 その内容は、私程度では一文一文を正しく理解するのにも四苦八苦してしまうものでしたが、お陰で本当に歴史を学ぼうとすれば、それは中学高校の教科書のように淡々といくような優しいものではないと思い知らされました。 私の興味本位の些細な質問に、ここまで語ってくださって、本当にありがとうございました。
- TANUHACHI
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>どうも秀吉の能力の点で疑問を持っている方がいるようですが、その様な方は研究不足と言うものです。 では宮川満氏をはじめとする「太閤検地論」による成果を踏まえて、「太閤検地」によるその前と後でのドラスティックな構造変動を史料的根拠に基づいて説明して下さい。 秀吉が国家的レベルにおいての「法」をどの様な形式で発令していますか?。古文書学の書式論に沿った形で説明して下さい。それができないのであれば、研究不足とのお言葉はお返し致します。 寡聞にして「太閤御行書」などに僕は出会ったことがありませんので。「御行書」の書式および性質に関しても当然おわかりですよね? 僕が問題視しているのは、個人が政権全てを掌握し得たなどの印象を与えてしまうのはとても危険な行為であるとの話をしているだけです。古代社会であるならシステムとしての「太政官制度」が実質の権力組織であり、そこに上卿のような高級官僚が関与する形。 鎌倉幕府でも実際は執権を含めての合議システム、室町幕府それも義満以前ならば二頭政治であり、その後は三管四職といった権力組織と構造を持っていることも確かです。 それに対し、信長は新たな形を構築することを意図していた。また家康も政治的統治組織の整理から入ってもいった。けれども秀吉にはそうした「組織」との視点が殆ど見られない。近くに置いたのは戦争で武勲を立てた者ばかりであり、彼等が政治的人間であるかといえば疑問符も付きかねない。これは不思議でもある。 全ては「システム」「装置」「機構」といった構造がなければ意味もなさない。そのためには「基本となる法体系」とそれを実施するための官僚組織が必要との話になるだけです。 この意味で「豊臣平和令」が持つ社会の再編成を説明するならば問題はありませんが、私闘を禁ずるなどの事象に矮小化して説明してしまいますと、多分に誤解を誘発する可能性がありますので疑問を提起した次第です。 一歴史学徒にすぎない僕をご指導いただけるなら幸甚ですが、永原慶二氏や藤木久志氏といった中世史の研究者および朝尾直弘氏や脇田修氏といった近世史研究の第一人者が近世幕府論とその前提に関して秀吉を積極的に評価しているとの話を耳にした事がありませんので、この点に関して補足いただければ幸甚です。
お礼
(大変失礼ながら、このお礼は、0fool0さんとTANUHACHIさんそれぞれに当てて同一のものを入力しています。) 少しばかり目を離していたらば、思いも寄らないほどの激論が繰り広げられており、「おぉ」と思わず感嘆の声をあげてしまいました。 その内容は、私程度では一文一文を正しく理解するのにも四苦八苦してしまうものでしたが、お陰で本当に歴史を学ぼうとすれば、それは中学高校の教科書のように淡々といくような優しいものではないと思い知らされました。 私の興味本位の些細な質問に、ここまで語ってくださって、本当にありがとうございました。
- 0fool0
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政権とは「軍事・経済・立法(この場合は法度ですね)」を掌握する事です。 どうも秀吉の能力の点で疑問を持っている方がいるようですが、その様な方は研究不足と言うものです。 秀吉は信長に続く強力な中央集権システムと経済政策(物流・検地)を引き継ぎ堺を繁栄させ、太閤蔵入地にて石高を増やしたりしていますし、戦も強く人身掌握術にも長けていました。 それらの力が織田家の後継争いで勝利を導く結果に繋がり、実質的な権力者となり、政権を樹立するのです。 ここでは質問者様の意図と外れてもいけませんので述べませんが、「力で抑える」と言う言葉を理解して頂きたいです。 秀吉の事を理解する必要は無いでしょうが、『国内での戦を終結させ、流通を安定し、法度を定める』ことにより天下統一は成りました。 秀吉の能力に疑問を持たれた方は別に質問をされた方がよろしいかと・・・
- TANUHACHI
- ベストアンサー率31% (791/2549)
何か気になるんですよね、「政権」という言葉の使い方が。 確かに秀吉は軍事権を掌握したともいえますが、それでも各地の諸大名が軍事力を保持しし続けていたとの事実をこれだけでは説明することも難しいかと存じます。 徳川が各地の大名の権力(経済基盤ならびに軍事的動員能力)を削ぐことを意図してイチャモンを着けたのが、様々な治水事業であり城のリフォーム事業への財政や人員の負担ともいわれています。 こうしたボディブローのような嫌がらせに近いジワジワとする締め付けがあって、初めて徳川の優位性と正当性を誇示することもできたのでしょう。 秀吉にそれができたかといえば、多分に疑問符もつきます。自身の権力を誇示せんがため、ゴテゴテと飾り立てたように官職や地位を求めたのはなぜかとの素朴な疑問に行き着きます。むしろ彼は自らを特別な存在と勘違いした独裁者まがいでしょう。 信長と秀吉の最大の違いは、ブレーンを持てなかった部分に象徴されもする。少なくとも信長は宣教師などの言葉から西欧の「王」と「教皇」を知っていたが、秀吉は知らなかった。秀吉が知っていたのは専ら「力で抑える」との軍事支配的な色彩の強い強権的なシステムを踏襲したにすぎない。 豊臣平和令といっても、階層の識別も不十分であり、身分のある普通の民とそれ以外の卑賤身分の扱いに関しての具体的な対応がなされたかといえば、それも不確かです。 「刀狩り」として武士以外の武装解除を行ったものの、寺社そのものが有する組織性そのものを破壊することもできず、かといって徳川体制の様に檀家制度を利用しての人身統制に宗教を持ち込んだとの形跡も不明確です。 個人的な見解として言えば、秀吉は何もやっていないことと同じ、です。五奉行五大老を設けたといっても実質それが機能し得たかといえば、悉く離反してもいる。所詮は「豊臣秀吉商店」のレベルで天下統一などとは物語の世界の話でしかありません。
- 0fool0
- ベストアンサー率18% (134/738)
しつこくてすいません、どうも言葉が足りませんで。 もう一つのポイント惣無事令です。 大名間での私闘(戦争)を禁じた物で、秀吉はそれを初めて、日本全国への徹底に成功し日本の軍事・政権を掌握します。 これ等により、日本国中に秀吉の命令を周知させる事が可能になり、その一つの現れが朝鮮出兵です。 天下統一の言葉について 「天下」と言う言葉自体は古くからありますが、その影響力の範囲が日本の全諸勢力に及ぶものではありませんでした。 それは大和王朝等での「版図」等では無く、自国内勢力内の「統治・統制」が出来ていないという意味です。 古代から諸勢力は利益によって統治者と繋がり、統治者の命令の範囲は限定的でした。(要は絶対的に従わせるという事が出来ない) それを秀吉はあらゆる勢力への命令に「従わせる」事に成功したのです。 ですのでこの時の統一がそれまでのモノと比して、真に『天下統一』を果たしたとされている訳です。 余談 御成敗式目の事が出てきますが、つまりこれで鎌倉幕府は武家の事は武家で決めると宣言している訳です。 他の勢力に影響されないで武家勢力内部の諸問題を武家で解決すると表明しています。 これに対して、朝廷は特に有効な手段は何ら打ててません。 それを秀吉は武家のみならず、公家も押さえ関白の位に就く事に成功している。 この様に全ての法度を出せるのは誰か?と言う事を明確に一つの政権に集中させたのが秀吉です。 唯それぞれの国の統治は其の国の領主にまかされては居ますし、徴税権も領主にあり秀吉はそれには触れません。 大名に課せられるのは兵役と普請で、秀吉の命令によりそれらに従事する事が大名の御奉公となり、それにより大名は領土を安堵されるという関係です。 連合国みたいな物とも言えます。 後の徳川政権では更に様々な面で強化が進み、大名の取り潰し等と激しくなりますが、件の「天下統一」は秀吉を持って完成とされています。
- TANUHACHI
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他の回答者の方が、荘園公領制・幕府論を含む中世国家論・身分制等に関して軽く触れていますので、補足を少々。 先ず「天下」との表記ですが、これ自体を質問者様が定義されている内容と回答者の間でも齟齬がみられますので、再回答の連投となっている様子ですね。 「天下」という言辞が「国家」と一対になり「天下国家」となることはご存知と思われますが、この点に異存はないでしょうか。ないならば次の段階に進みます。 「国家」を国家たらしめる要素が何であるかを考えた時に、それが唯一依って立つべき根拠が「法規範」に基づくことも言を俟たないはず。 例えば、ある戦国大名が領国内や家臣団に対して何らかの命令を発するならば、それは領国内のみで効力を発することを意味し、日本全国の遍く空間や階層全てに適用される法体系があるかといえば、それに類するものは一つとしてありえないとの話にもなります。今川仮名目録は今川氏の領国である駿河一円内でしか通用せず、それを甲斐や尾張あるいは本願寺に適用することは不可能でもある。 古代法としての『律令』が太政官制度と個別人身支配を前提とする法体系を有することに対し、歴史の現実は既に律令による統治がスタートした段階から崩壊を始めているとの奇妙で皮肉な展開を見せてもいます。 その「現実」と「律令支配」は狭間を埋めるものが格式と呼ばれる追加法的な性質を持つ法文でもあるが、それも実際にどの程度の効力を発揮することができたかといえば様々な疑問の付くことも既に研究し尽くされてもいます。 もともと「全国一律の法体系」など近代以前では当然不可能であり、それは統一的権力の存在を前提ともし、問題の中核をなす「幕府法」といっても、鎌倉幕府が東国政権であり一方の室町幕府が西国政権であるとの見解もありその後に登場する信長はそうした「従来の体系」を全て書き換えるとの志向を持っていたとも評価されています。 実際に信長は朝廷からの「官位」をどれ一つとして受けようもしなかった。その類例は南北朝統一を果たした足利義満の姿に重なる部分もあります。 義満が太政大臣も官位も全て辞しながら、唯一手許に遺したのは「氏長者」のみでした。それでも新たな秩序の構築には十分ともいえます。自らが出家する形で世俗と袂を分かつ形は、世俗権力の及ばぬ範囲から世俗に対する統治システムを志向したともいえます。 この「世俗権力の及ばぬ世界」がどの様な権門を指すかといえば、具体的には「寺家(神社等の社家も含む宗教的組織)」を指します。 武家や公家に対し、宗教的組織ならびに彼等が生活する空間をアジールと呼びますが、このアジールには幕府や朝廷そして天皇といえども立ち入ることのできない特別な領域です。領域と記したのは「空間」と同時に「そこに属する身分階層の者を含むこと」を意味します。つまり「そこにしか適用できない特別ルール」があるとの意味になります。 ここまでで「統治システムとしての幕府の性質」「権門としての寺社とそれに伴う組織の性質」「法秩序」等に関してお話しをしてきました。 そして質問者様が一つ誤解もしくは見落としている点として、「秩序としての官位・序列」の問題があります。武家は「法体系」に裏付けられた秩序からすれば、元々は想定外の存在で「征夷大将軍」といえども、臨時の官職である「令外の官」です。職務はあっても、その地位はないとの意味になります。地位がないのですから、官僚としての発言権もないことになります。 けれどもその想定外が現実的な権力を行使し始めるのが鎌倉時代ともいえます。平安末から開幕に至るまでの間の恩賞や土地の領有権ならびに相続権の保証を、京都にある朝廷の権限を一部委譲させる形で武家の政治組織である幕府に移させもします。 単にパワーゲーム的な視点からでは歴史の持つ構造的特性やそこに派生する矛盾とそれによってもたらされる歴史の移行過程と展開などの問題に応える視座を養う事など到底できないとのはなしになります。 ですから、問題の中心は「権力」といっても、「それの及ぶ範囲」が改めて問題となる。この確認にしかすぎません。全てを一つの法体系の下で掌握できたのは1868年以後の話になります。 全てを一つの法の下で掌握できたとは前近代の何れのケースにも見ることは現在の所では史料的に確認することもできません。 『吾妻鏡』に見える「是れ即ち淡海公の律令に比す可きか。彼は海内の亀鏡,是は関東の鴻宝なり。」との文言は「律令は日本国の法であるが、この式目は関東に開かれた武家による武家のための法である」として、ダブルスタンダードが存在するとの理解を示してもいます。 とはいえ、武家と公家の相互依存も含めて日本の中世社会が持つ特殊な構造性に関しては、今でも「王権論」として最もホットな議論の対象ともなっています。 個人的にはゲーム感覚や歴史趣味などの次元で語っていただきたくないと存じます。
- 0fool0
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しつこ過ぎてすいません・・・ >今川義元は織田信長の噛ませ犬という感じなのに。 家康が今川家を裏切っているので、後の歴史が殊更に義元を陥れているんですよね。 真実、今川仮名目録こそが、武田を始め他の大名にとっての貴重な思想の方向性を決めたのです。 ここでは質問と違うので省きますが、当時最高の戦国大名でした。 そして其れに打ち勝った信長は、更に新しい統治方法を編み出していました・・・
- 0fool0
- ベストアンサー率18% (134/738)
さらに追加。 今川仮名目録追加から抜粋 『只今はおしなべて、自分の力量をもって、国の法度を申しつけ、 静謐にする事なれば、守護の手入り間敷き事、かつてあるべからず』 実力のみの社会に変わった瞬間です。
お礼
さらなる追加もありがとうございます。 先のご回答にもありましたが、今川義元もさすがに凄い人物ですね。 歴史ドラマなどだと、今川義元は織田信長の噛ませ犬という感じなのに。
- 0fool0
- ベストアンサー率18% (134/738)
追加です。 寺社が統治出来なかったのは独自に僧兵(軍事力)を有していたからです。 鎌倉幕府も天皇も、寺社内の事に命令は出来ませんでした。 そして天皇も幕府内の事には命令は出来ず、幕府も天皇に指示(命令)は出来ませんでした。 つまりそれぞれが自治権を持っていたのです。 其の自治権を始めて否定したのが信長で、その後を継いで強化したのが秀吉です。 『天下布武』の解釈を武力とする説も有りますが、武家とするのがよりしっくりと来ます。
お礼
追加のご説明ありがとうございます。 天皇・寺社・幕府が別々だったのですね。 しかし…… >其の自治権を始めて否定したのが信長で 信長はやはり凄い人物ですね。
- あずき なな(@azuki-7)
- ベストアンサー率16% (1963/11745)
お礼ありがとうございます 鎌倉幕府が成し遂げたのは「全国統一」 豊臣秀吉が成し遂げたのは「天下統一」 鎌倉幕府以降足利将軍まで 全国を統一したのは「武士」である「征夷大将軍」 これは朝廷から全国の支配を許される と言う事 しかし秀吉は「公家」である「関白」として「天下統一」を成し遂げました これは天皇に代わって全国の支配を委ねられることです この違いがわかりますか? 武家と公家では 頼朝の時代は公家や朝廷の方が上位と考えられていた つまり武家の頂点である将軍に公家をはじめ朝廷は従う必要は無い と言う事 しかし秀吉は関白であり天皇の名代です つまり公家も朝廷も含めたトップと言う事 それに加えて全国の武士をも従えていたのだから 武家+公家・朝廷のトップだったということ つまり「完全なる天下統一」を史上初めてなしたのは秀吉と言う事です
お礼
納得しました。 確かに朝廷のトップながらも武家のトップであり、全国を支配したというのは秀吉が初めてですね。 ご回答ありがとうございます。
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お礼
なるほど。寺社の支配圏について、というのは考えが及びませんでした。 そして他の流れも分かりやすかったです。 ご回答ありがとうございました。