- ベストアンサー
【戦国時代】戦国時代に徳川家康、豊臣秀吉、織田信長
【戦国時代】戦国時代に徳川家康、豊臣秀吉、織田信長以外で1番強かった武将を教えて下さい。 あと自分のの中で日本一強かったと思っている武田信玄の武田家はなぜ滅びたのでしょうか?
- みんなの回答 (3)
- 専門家の回答
質問者が選んだベストアンサー
そりゃ、徳川家康です。理由は、最後の最後に天下を取ったから。最後の勝者は家康ですからね。信長はとりかけたところで家臣に裏切られたし、秀吉は天下はとったけど一代限りで終わりました。しかもその天下のとりかたは家康ほど盤石な体制ではなく、五大老という自分の血縁でもなんでもない他人の支えあってのものでした。秀吉はいうなれば「連立政権の首相」です。家康は徳川党で単独与党です。 武田信玄の真実は、最近は大きく変化しつつあります。かつて武田信玄は二十四将と呼ばれる「最強家臣団」を持ったカリスマリーダーだといわれていました。おそらく質問者さんが持っているイメージはそうでしょう。 しかし近年の研究で、実は武田晴信(信玄)という人は家臣団の支持あってこそ当主でいられた政治的に立場が弱い君主であったことが分かってきました。二十四将というのはまあいってみれば会社役員みたいなもので、その家臣団がみんな同意のハンコを押さないと会社として決められない組織だったのです。そこは織田信長なんかとは大きく違うところです。 武田勝頼は最後に小山田信茂に裏切られて天目山で切腹したことは質問者さんもご存知でしょう。小山田信茂の領地は山梨県東部の都留市です。小山田氏は武田家の一族衆ではありますが、「武田」の姓ではないですよね。ご親戚だけど身内ではありません。そんな人が甲斐国内の有力勢力として存在していました。つまり武田家は甲斐国内を武田の名前がつく一族衆だけで固めることができなかったのです。「お前、来月からここの領地な」と命じることはできなかったのです。 武田家というのは、典型的な日本型経営の企業だったのです。家臣団の合意形成がないと何も決められない。おまけに甲斐と信濃は基本的に貧しい国でGDPが低く、銭不足でもありました。「いや金山があっただろうよ」と思うでしょうけど、ゴールドとマネーは違うのです。ゴールドで日常の買い物はできないですよね。経済を回すにはマネーが必要ですが、武田領ではマネー(銭)が不足していたのです。この時代のマネーは中国から輸入していた銅銭です。現代でいうとUSドルですね。GDPが低くてUSドルの保有が少ない。中南米とかの発展途上国ですよね、現代でいうなら。戦国時代の甲斐信濃はそういう国だったのです。で、そのGDPの低さにどう対処したのかというと、増税でした。武田領は税金も高い国だったのです。 組織が合意形成型で、家臣団の合意がなければ決められないからそういう組織では改革ってのはできません。必ずどこかの誰かが反対する。だって有力家臣というのは既得権益を持っている人でもありますからね。 それでも勝頼はなんとか改革をしなきゃいけないと思っていましたが、先代社長の家臣団が改革に反対してちっとも改革できない。「だってアイツは正当な後継者じゃないもんね」といわれてしまうのです(実際正当な後継者ではありませんでした)。 なので勝頼がとった手段が、まずはとにかく合戦に勝つことで『勝頼マジすごくない?もしかして信玄様よりいくさの天才かも』という名声を高めて自分のいうことをきかせるようにすることで、もうひとつは自分の子飼いの若手家臣団を作ることでした。どっちも間違ってないというか、それしか方法はないですよね? それで信玄が攻略できなかった高天神城を攻略したりして「勝頼まじパネエ!」といわれるようになります。遂には「いくさの才能は信玄様以上だよね」という名声を得ることに成功します。 だけど「いくさの天才」っていわれると、逆にそれに縛られますよね。いくさに勝ち続けないといけませんが、いくさってとってもお金がかかります。勝ってればいいけれど、領民には大きな負担です。 その「無理に無理を重ねる『いくさのカリスマ勝頼』への依存」が長篠の合戦の敗北に繋がります。野戦になったら戦力差がほぼ2:1なのだから、勝頼にほぼ勝ち目はありません。だけど勝頼に一発逆転の可能性があるとしたら「野戦に持ち込んで勝つ」しかなかったのです。けれど一方、織田信長にとっては「野戦に持ち込めた時点で戦略的勝利が確定」なのです。そこで引き分けに持ち込めれば武田軍は損害を回復できないし、仮に撤退を強いられてもその敗北のダメージは小さい。万全を期すために信忠の軍を裏に隠し、馬防柵で城塞のようにして「鉄壁のディフェンス」を敷いたのです。信長は0-0のスコアレスドローなら勝ち確なのです。 また自分が抜擢した若手家臣団も、どうしても古参の家臣団との軋轢を生んでしまいます。古参の番頭は「先代はね・・・」と口うるさいし抜擢された若者たちを「ワカゾーが」とも思ってしまう。 ただこれは皮肉にも長篠の合戦で古参の家臣団がみんな戦死してしまったことで、面倒な番頭が一掃されたので勝頼による改革は一気にやりやすくなりました。 そして戦略的には上杉景勝の味方をして北条家と対立したのが失敗でしたね。ここでも信玄の亡霊というか「信玄様でも手を焼いた越後の上杉と和睦した」という名声を得ることはできたけど、お隣の北条家と対立したのはどうにもマズかった。 要らん対立を作ってしまったせいで、徳川家康に高天神城を攻められたときに身動きがとれず、結果的に高天神城を見捨ててしまうことになりました。これが勝頼に取り返しのつかない政治的ダメージを与えてしまいました。家臣団に「勝頼についていても頼りにならない」と判断されてしまったのです。 これは現代の企業でいうなら、勝頼社長が考えてかつて大ヒットした商品「高天神」を勝頼社長の肝入りでリニューアル発売したらこれが大ゴケして売れなくて、それで「この会社は倒産する」と思われて幹部社員が一斉に退職したって感じですね。 というわけで、武田家はその組織と経済的な運命として滅亡は避けられないものであり、その原因は信玄時代にもう存在していたのです。ご清聴ありがとうございました。
その他の回答 (2)
- Ultra-Hetare
- ベストアンサー率38% (204/526)
強かった=領地を沢山獲得した。 ということなら毛利元就が相当します。 単に戦闘が強かった(戦場で負けなかった)なら 上杉謙信ですかね。
- oska2
- ベストアンサー率44% (2300/5115)
>戦国時代に徳川家康、豊臣秀吉、織田信長以外で1番強かった武将を教えて下さい。 個人的には、伊達政宗ですかね。 生まれてくるのが20年早かったら、天下人になっていたかも? 秀吉・家康も、伊達家対策を常に行っていましたからね。 >自分のの中で日本一強かったと思っている武田信玄の武田家はなぜ滅びたのでしょうか? 先ず、武田信玄が病死した事。 次に、勝頼が部下に信頼されていなかった事。 そして、偉大な信玄の存在で後継者が育たなかった事。 先代が偉大だと、次期当主は「古参の配下と、色々と問題を起こす」のですね。 ワンマン経営の会社と同じです。 武田本家は滅びましたが、次男の血筋は現在も続いています。 江戸時代には、幕臣として将軍に仕えています。 余談ですが・・・。 長男の勝頼。 正史では自刃した事になっていますが、高知県では「自刃したのは影武者で、勝頼は逃げ延びた」との逸話が残っています。 大崎玄葉と名乗り、生涯を全うしています。 詳しくは、高知の「武田勝頼土佐の会」へどーーぞ。^^;
お礼
みんなありがとう すごい知識ですね