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有名な般若心経の中の言葉『色即是空、空即是色』の意味を『空』の文字を使わずに論じた文章を紹介
- 『色即是空、空即是色』という言葉は、物質と意識が相互に関連し合う存在の本質を表しています。
- 内面の動機と外面の因果が同じ活動として現れることを通して、主観と客観は絶対観念態の内外二面として現れます。
- この統一を絶対観念態と呼び、全宇宙は客観物体として存在するだけでなく、観念界でもあるとされています。
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ど~も。 ☆☆☆ ◇《本当にあるわけではない》 これに引っかかるんだ。 そら、そうだ、これを書いている僕自身、何のことだか、さっぱり分からないもの。 《○○は、本当にあるわけではない》 と感じられないもの。 《○○は、幻のような物》 と言われても、そう感じられないもの。 分かっていれば、悟っているわいなぁ~。 仏教の本とかで、《本当にあるわけではない》《実在しない》《実体としてあるわけではない》という表現は、 《因(直接的原因)と縁(間接的原因)からできている》 と同じ意味だと解釈していいと思います。 《空》や《無自性空》と言ってもいいんだけれど。それでは、空をもって空を説明することになるからさ。 仏教の本なんかでは、空は、《それが実体として存在しない》や《自性を持っていない》と説明されているでしょう。 これは、《中論》の著者である《龍樹》の定義。 では、《自性がない》とは何かと言うと、 《因と縁で、(物や心は)生成する、できていること》。 物や心に《自性》《実体》があるのならば、なぜ物や心の生成に《因》や《縁》が必要か。《因》や《縁》は必要ないではないか!! まぁ、そういうわけ。 で、空を《無自性》と同じ意味にとらえるようになった。 なので、《空》は《無自性空》からではなく、もっとオリジナルの《縁起》から考えた方がいいよ。 つまり、 「《因》と《縁》でできているものは、《空》である」と考える。 「《因》と《縁》でできているものは、刹那刹那に生まれてはすぐに滅する、幻のようなもの」 ☆☆☆ ついでだから、《分別》の説明。 分別の、サンスクリット語で《vi-kalpa・ヴィカルパ》の訳語。ものを分解して考えるとか、ものを見るものと見られるものに分けて考えるということ。主観と客観に分けて考えるってこと。 (viは”わける”という意味の接頭辞。ドイツ語の”ver”と同じ意味。ドイツ語とインドのサンスクリット語は、同じ祖語から分化した言語なのよ) 華厳四観の○○○○観の観法は、 まだ主観←→客観、能観←→所観、能取←→能取の構造が残っているので、 厳密に言えば《分別》の世界。 つまり、まだまだ、迷いの世界なんだよねぇ~。 やれ、法身だ法界だぁ~、その光でホニャララだといくら言っても、 それを立てていること自体が《虚妄なる分別》の世界である証拠で~す。 ☆☆☆ でも、「あんまり《空》にこだわるのは、ちょっとどうかな」と思うよ。 空の意味の追求は大切だけれど、《空》に必要以上にこだわることを《空病》という!! 「まことに、カシャーパよ、もしある人々が空性という観念をつくり、その空性に帰依するならば、カシャーパよ、わたくしは彼らをこの教えにそむき、破壊するものとよぼう。実に、カシャーパよ、慢心ある者が空性という観念(空見)によって(自分の思想を)飾り立てているよりは、スメール山ほどにもおおきな個我の観念(我見)によっているほうが、まだしもましである。それはなぜか。カショーパよ、個我の観念を信奉する者を(自由な境地に)出離させるものが空性であるのに、その空性の観念に固執するならば、彼は何によって出離することができよう。」 (宝積経・64) 宝積経、すごく分かりやすいよ。難しい言葉をあれこれ使っ説明している小難しい本を読むより、 宝積経(大宝積経の第三十四章・迦葉品)を読んだ方がどれほど勉強になることか。 仏教の基本的な教えはすべてここで説明されているから、入手もしくは閲覧可能なら、《宝積経》の訳文を読んでみて。 できたら、漢訳からの翻訳ではなく、サンスクリット語からの訳がおすすめです。 般若心経も、漢文、漢訳からの日本語訳ではなく、サンスクリット語から訳したもの、 たとえば、 《般若心経・金剛般若経 中村元 岩波文庫》 を読んだ方が、理解しやすく、仏教の核心に迫れると思います。
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ANo.3です。回答No.11のお礼欄読みました。でも、他人が書いた文章を写して頂くより、もっとご自分の考え方について書いて頂く方が、回答する側としては有難いです。 茶碗はどの角度から見ようが、どの様に見えようが茶碗のままです。しかし、我々が茶碗と呼んでいるものは、土や釉薬などの物質(色)が組み合わさって出来ているものであって、茶碗が茶碗として独立単体で実在している訳ではありません。飽くまでも茶碗なるものは心の中にのみ存在するという話であって、これを一言で表現すると、茶碗なるものの実体は「空」だという事になる訳です。 高嶺の月の、真の姿とは如何なるものか。満月が真の姿か、三日月が真の姿か、はたまた新月こそが真の姿か。富士山は、どの位置から見るのが正しいのか。宇宙の本体、あるいは真理なるものの真の姿とは、これ如何に。 高嶺の月に真の姿などありはせず、富士は如何なる位置から見ても富士であり、真理なるものには無数の解釈があって然るべし。何故なら、あらゆる物事の実体は「空」だから。 あらゆる物事に「空」という不可知の真理が内在しているのではなく、実体なるものが存在すると見なす「迷い」があるからこそ、実体などは無いという真理の言葉が、相対的に生じる事になる。しかし、我々の認識は「実体」なるものを起点としている為に、それが存在しない様子というのは、想像を絶する。 経典の類が無い無いづくしになるのは当たり前。何故なら、全ては心の現れに過ぎず、本当は何も無いのだから。まあこれって、宇宙には絶対の大心霊体のみが存在する、と言う事でもある訳ですけどね。ま、ちょっと無理めの直球を放ってみましたが、これも愛嬌という事で。
お礼
私にとって『空』は魔法の言葉、です。 他の回答へのお礼で、ちょっと勇み足が在って後悔している所。 まだまだ、いろんな意見を聞いてみたいのですが、潮時とも思うのでここで閉めることにしました。 回答ありがとうございました。(2012/6/10 02:20)
- ukiyotonbo
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>空欄の真ん中にぽつんと「・」を打ったら、「空」を表現したことになるんだろうか。 >回答No.11のお礼欄をぜひ読んでみてください。 「」があるから残念とか、点を打つ、これを読とか、何度も空を色にしているのはあなたですね。 「全宇宙は全体客観物体なると共に、全体観念界なり。」ですか。 >『空』の概念がどうもつかめないのです。 何を掴もうとしてるんですか。相手は空ですよ。 正しい空だの、仏教で言うところの空だの、ゼロがどうのこうの、点だの、全部間違い・・・ 正しく空を認識するという矛盾。空の概念という矛盾。 空なんて言葉すら消え・・・・ おそらく、あなたは解っていらっしゃってますね。逆に何かを教えようとしてますか? ことの本質を・・・・
お礼
解かっているわけではありません。 いつも不安なので、確認してみたくなるのです。 回答ありがとうございました。
- 日比野 暉彦(@bragelonne)
- ベストアンサー率16% (203/1213)
No.13です。 すでに投稿したことのある文章ですが お寄せします。 * たとえば 大野晋の古語辞典には こうあります。 ▼ (大野:古語辞典) ~~~~ いき【息】(生キと同根)・・・〔* 意味が三項目しるされている〕。 ○ 〔* 解説として〕息と生キとを同根とする言語は 世界に例が少 なくない。 例えばラテン語 spiritus は息・生命・活力・魂 ギリシャ語 anemos は空気・息・生命 ヘブライ語 ruah は風・息・生命の根源の意。 日本の神話でも《息吹(いぶき)のさ霧》によって生まれ出る神 神があるのは 息が生命を意味したからである。 (1990補訂版) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~ すなわち この《生(生命・生活)なる世界》について見て いわゆる《純粋意識》にまで還元するとこの《息もしくは風》に到るという現象学を もともと昔から行なって来ている見られます じんるいは。 地水火風ないしアトムという場合も その種の探究なのでしょう。 《息》にかかわるアートマン( atmo-sphere の atmo- と同根)を根源としての純粋意識と見立てたブラフマニズムが ブッダに先行しましたね。 そのアートマンのさらに根源(または 同じ根源)としてのブラフマン これを世界ないし宇宙の側に 主宰神として据え 両者の一体(梵我一如)をとなえました。 ブラフマン(梵)とアートマン(我)との一如といった純粋意識に還元した世界観を ふたたびのようにさらにまた現象学的還元をしたのが ゴータマ・ブッダだと見られます。 梵我一如なる見方が 社会における身分制とその保守にもかかわっていたことも事由になったのでしょうか あまりにも生活世界の内にただの観念としてまた単なる通念として有力となってしまっているのを捉えて ブッダはさらにまた現象学的還元をした。本質の本質にたどりついたと。 すなわち 諸行無常ないし諸法無我ととなえました。つまり 無我=アン‐アートマン( an-atman )の説です。ブラフマンなどという神は 想像の中におさまるようなものであって仮りのものだと言いたかったのでしょう。《われ》に実体などないと言いたかったのでしょう。 すなわち 言い方を変えるなら ○ 《色・受・想・行・識》即是空 だと見る純粋意識であるようです。 あるいはつまり 世界を空と見る《超越論的な〈わたし〉》の観点を そのゴータマ・ブッダ自身の《わたし》に立ててみた。これが 人にとって普遍的な存在のあり方であると 批判的にもしくは総合判断として提出した。 ところが 後世においてかどうなのか この無我説の総合判断にもとどまっていなかった。まだ還元し足りないというわけです。 ちょうど現象学において 初めにそこから抽象というエポケー作業がおこなわれたところの生活世界 この生活世界があとでは ぎゃくにあらためて取り上げられとうとばれるようになった。 そのこととあたかも同じように ブディズムにおいても 色即是空からのさらに新たな還元が行なわれたようです。 色即是空からすすんで いわく: ○ 空即是《色・受・想・行・識》 すなわち《生活世界》――これはもちろん 《色・受・想・行・識》から成る現象世界のことです――こそが 人間とこの世界にとっての根源の場であるのだと二省三省されたようです。 おまけとしてと言ってはいけませんが: ブッダは 主宰神ブラフマンを説くひとつの特殊絶対神論に異を唱え 特殊絶対無論(無神論)を唱えたとも見られましょうか? もしこうだとしますと これらの特殊絶対性理論を 普遍的なひとつの根源にまで還元する一般絶対性理論が待たれます。 ブッダの後世において 《仏性》が持ち出されて来ました。 これによると 名前こそ違え やはり梵我一如と同じ趣旨の特殊絶対神論に回帰したとも見られます。 とするとけっきょく 絶対有と絶対無とは 互いに同等であり対等な《非思考》の理論だと思われます。 * 一連のご質問でご紹介の著者氏は 言わば《一般絶対性理論》を打ち建てようとしておられるのかも知れません。 ひとことだけ 感覚的な物言いを述べますと たとえばヘーゲルのごとく《精神》ないしやはり《観念》ということに集中して行くきらいがあるように思います。 生活世界に降りて来て欲しい。これが 偽らざる思いです。
補足
知られるところの“色即是空、空即是色”は宇宙の本体は心霊体=観念態である、という処からきていると思うのです。 イメージとしては、占い師が使う水晶の玉とその中に現れる映像。 これが宇宙というもの、であると。 でも、その物質的現象、“客観”であり、自身にとっては“主観”?として現れた我々にとってこの世、現世にブラジュロンヌさんの言う処の“生活世界”があるので、この著者(悟られたお坊さん)は、その世界に生まれ、そして生きなければならない命に「情」の念を持ち、真理と云う理(ことわり)を知らしめるための活動を、したのだろうと思います。 真理は真理、生活世界は真理に沿うか沿わないかで良心(好ましい方の心=思いやりの心とか)の反応に是非が現れると考えます。 ありがとうございました。(2012/6/9 20:32)
- NemurinekoNya
- ベストアンサー率50% (540/1073)
○当時には観念と云う言葉は無く、しかたなく「空」が使われたのではないでしょうか。 般若心経には、はっきりとは出てきませんね。 でも、金剛般若には《観念》という言葉は出てきているはずですよ。 「それはなぜか。スプーティーよ、これらの偉大な菩薩たちには、《わたくし》という《観念》はおこらないし、衆生という《観念》も、命あるものという《観念》も、個我という《観念》も起こらないからである。また、スプーティーよ、彼ら偉大な菩薩たちには、もの《法》という《観念》も生じないし、また、ものではないという《観念》も生じない。さらに、スプーティーよ、彼らには《観念》であるとか《観念》でないとかということさえも生じない。」 (金剛般若経・第六節) としっかり、《観念》という言葉が出てきています。 あなたに薦めておいてアレなんだけれど、実は、僕、持ってないんです、中村元訳の《般若心経・金剛般若経》。 なので、上記のものは、別のサンスクリット語からの訳文です。 中村元訳に《観念》という訳語が使われていないとしても、それは訳の際に《観念》という言葉を使わなかっただけです。《観念》に相当するサンスクリット語は存在するということです。 また、八千頌般若経にも《観念》という言葉が出てきます。 般若心経は、八千頌般若経などの膨大な般若経群のダイジェスト、その中核部分を抜き出したものだから、《般若心経》成立時には、既に観念という概念はあったということになります。
補足
観念と云う概念が在ったからこそ、「空」という言葉が使われたのだと思います。 般若心経に使われている「空」を現代、いや近代の日本に現れた人(明治時代に日本に存在した悟れる人、日本はこういう方が存在した事を誇っていいと思います)の表現する処の「観念態」と違う、と云っているのではありません。 同じことを、“現代=近代”の表現で顕わしていると受け止めているのです。 解かりにくい“空”よりも解かりやすいのではないかと思っているのですが。 ただ、取り上げていただいた経に、観念と云う言葉=概念、はあったとしても、この回答を見る限りにおいては、宇宙の本体を観念態、とは表現できていないように思います。 こうした事を確認して見たくて、質問としたのですが。 やっぱり不十分なのでしょうかね。 回答ありがとうございました。
- NemurinekoNya
- ベストアンサー率50% (540/1073)
「アキレスと亀」の回答を見ました。 哲学していますね。 《空》していますね。 仏教していますね。 ☆☆☆ ○ゼノンのパラドックス、(アキレスと亀)を考えているうちに到達した事柄は、“ゼロ・瞬間・一瞬”それは言い換えれば現在・今。 でも、その“今”は、厳密にはそれこそ一瞬のことで、そこを捉えようとしても、すでに過ぎ去っていて、それは「過去」。 これぞ、仏教でいう《刹那(生滅)》の考え方。 刹那刹那(刹那とは時間の最小単位)に生まれては、すぐに滅する。 「今」もすぐに過ぎさって「過去」になってしまう。 この考え方を突き進めてゆけば、いずれ龍樹の《中論》の結論に到達できるかもしれない。 ○過去と未来の接点、それが“今”。 でも、“今”は一瞬。 と、云うことは・・・・・ゼロ? そのゼロに、時間は有るの? 「過去と未来の接点、それが“今”」は正しいけれど、「今は一瞬」は問題ありです。 《一瞬》とは、本来、瞬きを一回する(ほどの)短い時間。有限の長さをもった時の長さです。 有限のものは、どれだけ細かく分け(分割し)ようが、やはり有限の長さをもっています。けっしてゼロになることはありません。 時間というのは、時の長さ。時刻t1と時刻t2の差、長さで定義されるもの。数学的表現をすると、 Δt = t2 - t1 が時間。 n→∞ Δt/n → 0 限りなくΔt/nはゼロには近づくけれど、けっしてゼロになることはない。 なので、 「一瞬、は“無”」は間違いということになります。あくまで、有限の長さをもっています。 言っておくけれど、時間ゼロは存在するのよ。 Δt = t1 ー t1 = 0 これは同時刻を意味し、有限の時の長さを持っていないとして定義できます。 そして、このゼロが発見されたのが今から大体2000年前のインド.... ゼノンはこのゼロを知らなかった.... このゼロの発見と、仏教の空、何か関係があるのかもしれなませんね。 ○そう思うと、人の思考の中の“点”は、有るもので無く、単に概念でしかない。 これはますます難しい問題ですね。 人間は、有限の大きさ、長さを、幅をもったものしか認識ができない。その意味で、長さを持たない点を直接認識することはできない。認識できない以上、その意味では無いと言ってもいい。人間が説明のために勝手に作り出した概念かもしれない。 また、人の思考の中にあらわれる”点”はやはり長さや幅などの大きさをもったもの。なので、点は、長さや幅などを持っていないと自分に何度もしつこく言い聞かせ、そう思い込まないとならない。そして、そのような点は存在すると.... そして、そのような点の実在を疑わなくなる。 なにか、点やゼロって、仏教の《空》に似ていると思いませんか。 ちなみに、仏教も広うございまして、「概念は実在する」とする学派も存在します、しました(たとえば、説一切有部)。
お礼
書籍にある言葉 “実体のないもの” これを今は“観念態”と受け止めれば、“無い、無い”尽くしは “理性”とか“意志”とかの「性能」を持つ宇宙の本体が“観念態”であるが故、其れゆえに ・・・・・ と、云うことではないでしょうか。 ありがとうございました。(2012/6/9 16:24)
- sheep67
- ベストアンサー率28% (36/128)
追加させてもらいます 思い浮かぶままに書くんですが、 空がわかりやすくなった=空から離れた、ということかも知れません。 この引用文を読むと、空に対する説明が途中で止まっており、 したがって読むと空がわかるような気になるのでは? と思いました。 著者が空に対する説明を最後まで書ききってないように思います。 空に対してもし誠実な説明なら、「空は分からないということが分かる」という風なルートを行くはずです。 つまり、空が人の知性を受け付けない矛盾そのもので、 空とは、定義として「理解できないもの」なんだ、ということが理解できる、それに気付かされるものでないと誤解を招きます。 空なんてそんなものはない、そんなものはないけど、そんなものなんだ、という・・ 空を論理で表現すれば、龍樹の4重否定的表現になるはずです。 それは結局あらゆる論理の組み合わせの否定を以って、空を論理的にかつ間接的に表現したことになるからですが。一面的ではありますが。 別の言い方をすると、空は生の体験、ということにもなるかと思います。 体験してませんが・・ この引用文がそこまで書ききってないので、鵜呑みにしないか、あるいは自分で足りないところを補う必要があるかも、と感じました。 この引用文を読んで、「空とはわからないものだ、ということが分かる」ような感じはします? そこが一番抜けてるなーと思ったので。 この引用文を、空に対する途中までの説明文だとするのなら、間違いではないと思いますが、 でも誤解しやすい文じゃないかと思いました。
お礼
sheep67さんにとっては初めて接する文章だと思います。 にもかかわらず私などより読み込んでいるように思え、頼もしく感じました。 私は単純だから“鵜呑み”レベルの読み、ですがsheep67さんが、この文章に慣れてきたなら、また違った受け止め方をしてくれそうで期待大です。 「神は天にいまし、世はすべてこともなし」 いい言葉ですね。 この著者も、神(如来)は念ずるところ(目の前)に在(まし)ます、と云っています。 どうぞ回答No.11のお礼欄を見てくださるようお願いいたします。 ありがとうございました。(2012/6/9 15:54)
- sheep67
- ベストアンサー率28% (36/128)
うまく書ききれないですが、個人的には ーーー前提として自分の考えです。 この世は主観と客観を、優劣や序列を付けて合成しています。 この混同を解除して 2つが混ざってるものを分離することは、2つを対等に並べることであり、2つが止揚することにもなります。 ーーー質問の引用文について 質問文の、主観と客観は一つの本質の2面的な表れというのはそう思います。 でも、空のことを、物心不二による一大観念 同一観念態 絶対観念態と表現するのは、空という言葉より誤解を招きやすい表現だと思います。 いまいちというか・・ 引用文の著者は 「物質が内観すれば観念にして、観念を外観すれば客観なり 全宇宙は全体客観物体なると共に、全体観念界」 だという風に2つを対等に扱ってるかと思えば、一方では空のことを上のように観念態観念態と連発します。 なんかちょっとおかしい・・ 大きく間違いとも思わないのだけど、あまりいい表現とは思わないっす。 なんたら観念態などと書くくらいなら、空と表現する方が優れていると思います。 この引用文の言い回しなら、空と書く方が誤解を招きにくいし、読み手に対して、理解不能の空のことを「何かの観念なのか?」という風な誤解を与えずにすみます。 著者が空のことを十分に理解してるかどうかはわかりませんが、少なくとも表現としては今ひとつに思いました。 仮に著者が、「絶対観念とは既に観念にあらず」、とか何とか書いておられるのであれば、それなら間違ってはいないのだけれど、でも読み手にそこまで要求するのもおかしいですし・・ これなら素直に「空」と書くほうがいいんじゃないでしょうか? 僕なら、「絶対観念であり、相対物体であるところの、表現不可能な何か?」という風な表現のほうがまだましかもと思います。 紛らわしいというか、半分合ってて半分おかしいというか・・・微妙です。 何だかなーと思いました。 一番肝心なところに来てツボを押さえてないってどういうこと?みたいな・・ 全く間違ってるわけでもないし、でも的を得ないし、なんだよこの言い方?とか思ってしまいました。 すんません・・
補足
解答No.15にお礼文を書きました。 ありがとうございました。(2012/6/9 16:04)
- 日比野 暉彦(@bragelonne)
- ベストアンサー率16% (203/1213)
こんにちは。 《空》観とは ○ 《聖なる甘え》という境地にあること ≒ 《われに立ち還る》こと でしょうね。 言いかえると ○ 《空》とは何か? という問いのもとに見い出すものでは必ずしもなく そうではなく ものごとについて《空》観に立てば どのように見て どのように認識し またどう対処するか? これが問われる。 ということではないでしょうか? 実践の問題だという意味です。
お礼
ブラジュロンヌさんは、仏性とかについても過去に議論していますが、その頃と今とでは受け止め方に変化がありますか。ちょっと聞いてみたい気もしますがそろそろ閉め時なので、そのうち機会があればと思います。 回答No.11のお礼欄をどうぞ見てくださるようお願いいたします。 ありがとうございました。(2012/6/9 15:26)
- poinsettia0401
- ベストアンサー率0% (0/1)
龍樹の『中論』の核心をついていると思います。 「<業と煩悩とが滅尽すること>により、解脱が〔起こる〕。もろもろの業と煩悩とは、分別により〔起こる〕。それらは諸〔分別〕は戯論により〔起こる〕。しかしながら、戯論は<空なるものであること>(空性)において滅する。」(『中論』18.5) 龍樹は意識は悪魔の領域であると言っていますが、意識とは主観と客観の二元対立の世界に他なりません。意識(認識)の世界を分別であると言っています。分別とは輪廻により反復されている作者・業・作・瓶・布・王冠・色・受・女・男・りんご・皿・得・不得・楽・苦・名声・悪評・称揚等を特質とする、ありとあらゆる戯論により生じます。無始以来、串習されている、あらゆる言語が、意識の表層に上ってきて、言語作用(言葉を話す)が生まれ、この言語作用が分別の原因です。 この分別から、<われという思い>と<わがものという思い>が執着が生まれ、それが、有身見を根源とする煩悩が生まれ、煩悩から業・苦が生れます。 戯論とは、わたしたちの存在の根底にあって二元的分裂を二元的分裂を引き起こす元初的な言語作用のことなのですです。 自分と知覚するものを対峙して捉える心の奥底の元初的な働き→無限の言葉が生れる→言葉でもって、すべてを区別する→「われという思い」と「わがものという思い」が生れる→我執と我所執(わがもの)が生れる→業と煩悩が生れる。『中論』18.5は、この逆から説いています。 「心の行為領域がすでに止滅しているのであるから、言い表されるべきものが、すでに止滅している。なんとなれば、あたかも涅槃のように生じておらず滅していないものが、法性であるから。」(『中論』18.7) ここをチャンドラキールティは、「心の対境こそが存立しえないとき、そのときには、およそ何であれそれをもって<諸語言が生起すること>が存在するでもあろうか」と述べています。主客一如の世界では、区別が存在しないのですから、「心の対境」が存立することもなく、「心の対境」がないので一切の言葉も生まれません。 「心の対境こそが存立しえないとき」とは、どういう境地でしょうか。わたしたちは、煌々たる月の光をみれば、<月>という対境がうまれ、主客二元分裂の世界に投げ込まれます。ここでは、煌々たる月の光と一如になることであるとチャンドラキールティは示しています。 そうなるとどうでしょうか。人間の無意識の領域に接して発生している根源的な活動である主観と客観の二元分裂作用、それがが一如になれば、月の光を見て<諸語言が生起すること>はありませんん。「月」という言葉が聖者には生れないのです。<諸語言が生起すること>がなければ、分別も生れません。分別が生じなければ業と煩悩が生まれません。 「戯論は<空なるものであること>(空性)において滅する。」ことになるのです。 空とは言語の(性起作用)の止滅といえます。あらゆる言語が止滅するとは、法界が一如になることでもあります。 「他のものを縁とするものでない、すでに寂滅している、諸戯論をもって戯論されない、分別を欠いている、〔かつ〕別異なる意味のないもの、これが実性の特質である」(『中論』18.9) すべての言語が止滅しているのですから、他のものを縁とする(縁起)の世界も超越している言亡言亡慮絶の、絶対涅槃界の世界を龍樹は指し示しております。
お礼
龍樹の『中論』、少し学んでみようかと思いますが私の頭では解かりそうもなくて・・・ 解答No.11のお礼欄を見てくださるようお願いいたします。 ありがとうございました。
補足
お礼欄の投稿日時 (2012/6/9 13:00頃)
- NemurinekoNya
- ベストアンサー率50% (540/1073)
ど~もです。 お礼、感謝です。 ☆☆☆ でも、 「おろろろろ~、 予想していたのと、違うぞ~」 って感じです。 予想は、 「《華厳四観》と似てますね」 or 「《物心不二観》に似ていますね」 だったんだけれどなぁ~ ☆☆☆ 《中正と両極端の分別》(中辺分別論)の冒頭の詩頌(しじゅ)。 虚妄(こもう)なる分別はある。 そこに二つのものはない。 しかし、そこに空性が存在し、その中にかれが存在する。 僕自身、この詩頌の意味を理解できていないから、説明とかしたくないんだけれど、 《知られるもの》とは、客観、表象、観念、、仏教用語で言うと《所観》《所取》、《心象》。 《知るもの》とは、主観、《能観》《能取》。 《虚妄なる分別》とは、《能取》と《所取》を生み出す、《分別》する心というか、心の作用みたいなもの。 で、《分別》に《虚妄なる》つまり《真実でない》とついているのは、 《煩悩で汚れているから》という意味。 つまり、 主観と客観の対立構造を有する(迷いの)心、つまり、《虚妄なる分別》は、確かにある。 でも、主観と客観は、迷いの心《虚妄なる分別》が作り出したものだから、本当にあるわけではない。 主観と客観が実在するわけではないのだから、《虚妄なる分別》も実在するわけではない。 でも、主観と客観は因と縁で生み出される仮の存在として存在しうるから、《虚妄なる分別》も(仮の存在として)存在する みたいなことを言っているらしいのよ。 紹介した詩頌は、まさに唯識・瑜伽行の観法そのものなの。 《虚妄なる分別はある》《そこに二つのものはない》だけで、少なくとも、華厳四観の第三番目の○○物(仏)心観まですべて説明している。 このことに気づいてほしかったんだけれどなぁ~。 偉いお坊さんの怖ろしく難解で、長たらしい説明よりも、 虚妄(こもう)なる分別はある。 そこに二つのものはない。 しかし、そこに空性が存在し、その中にかれが存在する。 の方が簡潔で、分かりやすいと思うんだけれどなぁ~、僕。 ちなみに、この詩頌を使うだけで、大乗のほとんどの教義が説明できてしまうというとっても有難い魔法の呪文なのよ。 般若経や中論の 「無であるから、有であるから…」 知られるものが知るものは、(本当には)存在しないから、《無》である。 (迷いの世界では)《虚妄なる分別》が存在するから、《有》である… と読みとくことができる。 空の、ある意味でどうでもいい、不毛な形而上学を繰り広げるよりも、認識論的にとらえた方が建設的だと思うのよ。 観法、禅を含めて、所詮、人間は認識の中でしかものを捉えることができない。 それならば、いっそ、最初から、すべてヨーガを含む広範な意味での認識論にすべてを還元した方がよい。 それが(インドの)大乗仏教の最終到達点なのよ。 この(インドの)叡智を信じるかどうかは、あなた自身です。 僕は、「結構、いい線、いっているな」と思うけれどさ。
補足
今度の土曜日に、なるたけまともなお礼文を書き込みたいと思います。 あまり自信はないけど。 注目点は「主観と客観は迷いの心が作りだした物だから本当にあるわけがない」と云っている所です。 「迷いの心」という表現にNyaさんが、どんな思いを込めているのかを知ることも、私には重要な事のように思っています。 また「本当にあるわけがない」と云っている所には疑問を感じてもいます。 でも核心部分は共有できそうで・・・・・。 たぶん私は無知ゆえに白紙の状態で、この質問で取り上げた“文章”に接しているのでしょう。だから抵抗なく、違和感なく、分からない所も含めて“異議なし”と受け入れられるのだと思います。 ありがとうございました。
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お礼
読んでみました。中村元・岩波文庫の『般若心経・金剛般若経』を。 時間が無いので熟読してはいませんが、ざっと読んで気づいてみれば、「観念」という言葉が出てこない! 当時には観念と云う言葉は無く、しかたなく「空」が使われたのではないでしょうか。 また“無い、無い”尽くしで説明している事は「宇宙の本体は絶体の大心霊体=観念態」であることを説明しようとしているように思います。 そして今回質問で紹介した文章に、回答者の皆様がそれぞれ何か引っかかるものを感じるのは、豊富な知識を持っているが故、とも。 私には無いので海綿が水を吸うように、?も含めて抵抗なく読めるのだろうと思います。 文章の一部を取り出して、全体観を観て欲しいという考えが間違いだと云うことに気づきました。 でも“確信犯”としては今回の小タイトル「物心不二観」がある、大タイトル《4》大圓鏡智、の初めの文章を写してみたいと思います。この文章の次に「物心不二観」が続くのですが、ここでは「空とは心質にして色とは物質なり」とはっきりと云っているので。 《4》 大圓鏡智 吾人の寫象と世界とは客観と主観とは別々なるも、其の本質内容に於いては吾人が寫象に相応するものなるが故に吾人は世界を寫象することを得るなり。若し客観及び主観の本性にして全然特殊のものならんには、いかにして吾人は之を寫象するの可能あらんや。 主観と客観と相ひ反対せる如くに感ずるは抑々(そもそも)何故なるや。 感覚的実在の世界萬物が、固湿暖動等の固体となり質碍の物と感ずる感覚的実質なるものは、一大意志、即ち力の勢能にして、力が吾人の意志力とは同質にして、之に触るるが故に吾人が之を固体また熱また湿等と感覚するなり。 本質は観念態に物象として理性的の故に規律的に産出し活動せるものを人、之を客観界の物質と感ずるなり。物質と感ずる寫象態にありて物質の重力及び熱また固形態等と触感するものは意志、即ち力の能なり。 色声香味等の物象と感ずるものは絶体寫象より、客観の実態として、一大意力によりて発動せり。この理性的規則、即ち天則秩序に時間的空間的因果律的なるは実態が理性態なればなり。 萬物の物象は客観の観念態より発動し、意志力の萬物に秩序整然たるは理性の故に、実態の相用の三大よく萬物を現出す。 宇宙は一大精神にして、相大と用大の属性あるは、例えば宇宙を塑摸(そも?)せる人の精神に寫象意志がありて、表相あり活動するが如し。 若し実態に三大の性能なからんか、焉(いずれ)に依って其の表相と亦た其の如き活動をなさしむるものぞ。 若し能観の心と所観の世界とが其の本質全く異なるものならば、否、人は如何にして之が寫象を可能ならしむるか。是れ奇怪ならずや。 然れども全くその本質の相は観念態にして、其の能力により之が天則規律に随って客観的観念、即ち物体と実現したるものなるが故に、人の主観的観念が之を寫象し、また再現することを得るなり。其の本質同一なればなり。 本質に於いては一体なりとて客観の実在と主観の心質とは現象に於いては反対に現じたるを以て、なりと云うべからず。相対的にまた能観所観異なればなり。 物体は力に実現せられたる客観観念なればとて、本質に於いて一致せることは拒むべからず。 佛教で色即是空、空即是色とは是れなり。空とは心質にして色とは物質なり。物質と心質とは其の本質にては相即して異なるものに非ざるなり。 絶対無碍観 如何にして無碍を観ぜん。世界あるも亦た無碍なり。自ら観念せよ。物質を通じて観念は無礙ならずや。 ☆ そしてこの後に質問文の「物心不二観」が示されます。 回答ありがとうございました。(2012/6/9 12:20)
補足
早速、紹介していただいた“本”を読んでみます。 教えてGoo!らしくなってきた。 ありがとうございます。