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カント『純粋理性批判』入門(黒崎 政男著)

カントの理性、悟性、感性の概念が分からないと質問した時、「お勧めの入門書」をリクエストして読みました。 でも、これ私にはまだ難しかったです。 まず上記3要素の定義ですが、これはだいたい合っているのではないかと思います。 感性>感覚器官を通じた現実存在(仮に感官がそう認識するところの)の認知 悟性>(≒知性)概念的に考え悟ること 理性>総合的な考え(?) ちなみに古くは、 知性>インスピレーション、霊感、直観力、察知力、知識(人間の感官より上のもの)(?) で、どうもカントは実存在は不可知だとしておきながら、感性と悟性の合一によって世界は真だと言えると言っているようなのですが、このへんがチンプンカンプンで分かりません。 世界が感官で真かどうか分からないものであるのならば、感性を頼った思考もすべて真かどうか分からないのではないでしょうか? 何が「コペルニクス的転回」されて、「純粋(?)」「理性(?)」はどう「批判」されたのでしょうか?

みんなの回答

  • koosaka
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回答No.2

補足に対して、再度回答します。 最近、カント学者の中島義道の「不在の哲学」(ちくま学芸文庫)を読了しました。 カント哲学やそのほかのことについて、いろいろ教わることが多くて、久しぶりに良い本を読んだと思いました。 今回の私の回答はほとんど中島センセイの「受け売り」です。 カントの「コペルニクス的転回」も私はこれまで誤解していました。 読んで、そういうことだったのかあ、と思いました。 よく、カント哲学は大陸の合理論と英国の経験論を総合したと言われますよね。 総合したというのは、一緒にしたというのではなく、両方とも認める、というもの。 つまりデカルトも認める、ヒュームも認める。 デカルトの考えが超越論的認識、ヒュームの考えが経験的認識、両方認める。 経験的認識の成立を認めて、その上でその可能性の条件として超越論的認識が、経験的認識に先立つと考える。 でも、あくまで可能性であって、超越論的認識がある、と言っているわけではない。 そして経験的認識が、地球を中心に物事を考えることとしたら、超越論的認識は太陽を中心に物事を考えること。 もちろん、太陽に立つことできないので、それは可能性にすぎない。 そして太陽を中心に物事を考えると、地球を中心に物事を考えることは「現象」にすぎないということができる。 私たちは経験的には、地球を中心に物事を考えています。 でも、超越論的には、つまり太陽を中心に考えたら、それは「現象」でしかない、あるいは「仮象」でしかない。 そして地球中心に物があると言っているけど、太陽を中心に、あるいは超越論的には、それは不可知でしかない。 自己中心に物事を考えていたら、物の真の姿は見えない、経験的認識は物のすべてを認識していると言っているけど、実はそれは「現象」であり、だから不可知。 カント哲学は、自己中心に物事を考えるとともに、脱・自己中心に物事を考えるという、二重の観点で物事を考えることを特色とします。 自己中心と脱・自己中心と、内側からと外側からと、地球からと太陽からと、両方から見ます。 経験的認識と超越論的認識と、両方から物事を見ます。 経験的認識にあっては、もちろん経験が必要ですが、超越論的認識にあっては、経験を必要としません。 経験的認識にあっては、外的世界の「外的触発」が必要ですが、超越論的認識にあっては「自己触発」があれば十分です。 そこであなたの疑問を一つ一つ解決しましょう。 (1)ロック的には、生得観念はないのですが、経験的認識にに先立つということは、これは生得的ということになりますか? ・・・・・経験的認識にあっては、デカルトの言う「生得観念」はもちろんのこと必要ありません。 そして超越論的認識にあっても、超越論的認識はあくまで可能性ですから「生得観念」は必要ではありません。 (2)「カテゴリー」は分類という意味ではなかったですかね? ・・・・・量・質・関係・様相の大別して4つの「カテゴリー」は感覚与件を分類するものですが、それは「形式」という意味であって、悟性の「形式」であって、純粋悟性概念と言われます。 (3)どうもカントは実在性は不可知だとしておきながら、感性と悟性の合一によって世界は真だと言えると言っているようなのですが、このへんがチンプンカンフ゜ンで分かりません。 ・・・・・カントが実在性は不可知だと言ったのは、超越論的認識から見たら、経験的認識の言っている物の実在は実は不可知ではないか、と言っています。地球中心に物事を考えているのでは、物の本当の姿は見えないのではないか、太陽を中心に物を見なければならないのではないか、と。 (4)世界が感官で真かどうか分からないものであれば、感性を頼った思考も、すべて真かどうか分からないのではないか? ・・・・・・経験的には、私たちは感官で確かめたものは真だと思っています。また、感性に頼った思考も、真だと思っています。 でも、感官にも、感性にも頼らない超越論的認識からしたら、感官で確かめたものも、感性に頼った思考も、すべて真かどうか分かりません、むしろ「仮象」である可能性があります。 (5)何が「コペルニクス的転回」されて、純粋理性はどう批判されたのでしょうか? ・・・・・・「コペルニクス的転回」とは、世界を地球中心と太陽中心と、二通りに見る、二重の観点で見ることです。つまり経験的と超越論的との二通りで見ることです。 そのことで、デカルトの超越論的見方とロック・ヒュームの経験的見方の両方を認めながらも、彼らの一つの見方しか認めない理性というものを批判しました。 (6)認識を経験的認識と、超越論的認識に分けて、・・・・これはいわゆる「二元論」というやつでしょうか? ・・・・・「二元論」ではありません。見方の相違です。地球中心に見るのと、太陽を中心に見るのと、二通りの見方です。 (7)これを統合できるか、出来ないかが、後のヘーゲルに「逃げた」だなのなんだ、と言われているアレで良かったのでしょうか? ・・・・・カントは統合しろとは言っていません。経験的と超越論的との二通りの観点から、物事を考えよ、と言っています。 これでよろしいでしょうか? でも、お断りしておきますが、あくまでこれは私の解釈ですので、また中島センセイの「受け売り」でもありますので、正しいかどうか、保証はできません。 それを承知しておいてください。

Psychic_student
質問者

お礼

お世話になります。 中島義道の「不在の哲学」(ちくま学芸文庫)ですね。読んでみます。ありがとうございました。

Psychic_student
質問者

補足

>超越論的認識にあっても、超越論的認識はあくまで可能性ですから「生得観念」 つまりこれは神の視点のメタファーだから、人間の生得観念は関係ないという話ですよね。 >関係・様相の大別して4つの「カテゴリー」は感覚与件を分類するものですが、それは「形式」 つまり、時空に意味づけ(関係・様相)が加わったのを「カテゴリー」と呼んでいるだけで、実態は「時空とその意味づけ」が悟性の「形式」ですよね。 >超越論的認識から見たら、経験的認識の言っている物の実在は実は不可知ではないか それは超越論的認識が神の視点であり、人間の視点ではないからですよね。 >むしろ「仮象」 この用語は私の質問の考え方で良いという話ですよね。 >つまり経験的と超越論的との二通りで見ることです・・・彼らの一つの見方しか認めない理性というものを批判しました それは二元論ですよね。第一版では感性と悟性の上に「構想力」を置いたが、第二版では大幅に削除し、悟性一本に絞ったっていうやつですよね。 >地球中心に見るのと、太陽を中心に見るのと、二通りの見方です 太陽には立てないから、「人間と神」の二通りがあるんですよね。 >・カントは統合しろとは言っていません。経験的と超越論的との二通りの観点から、物事を考えよ、と言っています それは二版の話ですよね。一版では「構想力」を作ろうとしたが止めたんですよね。

  • koosaka
  • ベストアンサー率43% (78/179)
回答No.1

カント哲学は「超越論的哲学」とか、「超越論的観念論」と言われます。 この場合の「超越論的」とは、「超越的」が文字通り、私たちのいる世界を超越する、上から眺めるということだとしたら、「超越論的」とは、経験的認識が成立していることを前提として、その可能性の条件を遡行して探究することです。 いわば、下に向かって、下降するということです。 そしてカントにとって、経験的認識に先立つのが、超越論的認識です。 経験的認識にとって、外的世界は確固とした実在です。 認識は外的世界を刺激として受容し、それを時間・空間という直観の「形式」と悟性の純粋形式である「カテゴリー」を純粋統覚によって結合し・総合することで出来上がります。 科学・物理学もそのような経験的認識によって成り立っていますから、不可知なものなんてどこにもありません。 今知られていないものでも、いずれ知られるようになります。 しかし、これを「超越論的認識」から見ると、世界のすべては「現象」です。 たとえ物であっても、霊魂であっても、その「現象」しか私たちは知りえません。 それは私の自我とか、心であっても同じです。 経験的には私の自我とか心は存在するかもしれませんが、超越論的認識に関しては「現象」であり、自我とか心は、そして外界に存在すると言われている物も、霊魂も、等しく「現象」であり、不可知です。 超越論的認識にとって、外的刺激は必要でなく、認識は「表象」だけあれば十分です。 言い代えると、自分で自分を触発する「自己触発」だけがあれば十分です。 ショーペンハウワーの言う「世界は私の表象である」です。 これがカントのいう「コペルニクス的転回」です。 天文学でいうコペルニクス的転回は、それまで地球が世界の中心で不動で、太陽などの天体が地球の周りを回っているというのを転回し、太陽が不動で地球がその周りを回っている、というものでしたが、カントの場合はそれとは逆で、人間の超越論的主観が世界の中心で、不動であり、世界はこの超越論的主観を中心に回っているというものです。 これは思想史的に言うと、これまでの中世が神を中心に世界が回っているものとしたら、カント以降、人間を中心に、あるいは超越論的主観を中心に世界は回っているというものです。 このようにカントは認識を経験的認識と、超越論的認識に分けて考えていました。 それをごっちゃにすることから、あなたのような疑問が生じてきます。 一応参考までに。

Psychic_student
質問者

お礼

お世話になります。 >経験的認識が成立していることを前提として、その可能性の条件を遡行して探究する これが難しいです。ロック的には生得観念はないのですが、経験的認識に先立つということは、これは生得観念ということになりますか。それが「経験的認識が成立していることを前提」としなければならないというのは、なんのことでしょう? 「可能性」?の「条件」?を「遡行」? 「カテゴリー」は分類という意味ではなかったですかね? それが時空に対応する悟性の「形式」? 後半ですが、これはつまり主観的世界が自分にとっての真実である、それでいいじゃないか(コペルニクス的転回)、という話でしょうか。 >認識を経験的認識と、超越論的認識に分けて これはいわゆる「二元論」というやつでしょうか。 これが統合できる出来ないが、後のヘーゲルに「逃げた」だのなんだのと言われているアレでよかったでしょうか?

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