- ベストアンサー
フッサールの生活世界は内在なのか超越なのか?
フッサールのいう「生活世界」は、「内在」なのですか、あるいは「超越」なのですか? つまり、生活世界は、「超越論的自我の中にあるもの」なのですか、それとも「超越論的自我 の外にあるもの」ですか? 生活世界が、人間の純粋意識の領域の外にある、つまり超越的なものとすると、フッサールは 外界=客観的世界の実在定立の判断をさしひかえる判断停止(エポケー)を解除して、外界の実在性 を一定限度で容認したということなのでしょうか? ご回答お願いします。
- みんなの回答 (4)
- 専門家の回答
質問者が選んだベストアンサー
- ベストアンサー
こんばんは、Hidocchiと申します。 > どうして”生活世界”なるものが必要とされたの? 「ヨーロッパ諸学の危機」1936年 の背景から列記致します。 ・ナチスの台頭により、ユダヤ人であったフッサールの活動は極度に抑制される(国内での全著作発禁)。 ・世界はすべて(ガリレイ等に代表されるように)数学的に説明できるという信仰が一般に広がっていた。 ・学問(科学・数学)は、“人間的生の意味”を排除し、絶対的客観的世界を説明するものへと向かっていた(そもそもは数学・科学は、人により、人間的生をよりよくしたいという動機から作り出されたものに関わらず にです)。 ・その結果、ある種の「絶対的客観性」を追い求めるばかり、人間的生の意味等は軽視される傾向にあった。 以上の点から、上記顛倒性を感じ取ったフッサールが“諸学(問)の危機”を憂えた ものと考えております。 さらに申しますと、そもそも人間の必要に応じて世界を把握してきたのが学(数学・科学)なのですから、”自然それ自体が絶対客観的なものとしてあるという態度”を、 “生活世界”へと還元する必要があると そう考えたものと解しております。 そこで、ご質問内容ですが、 > フッサールの生活世界は内在なのか超越なのか? まず、”超越”を「実在の世界」と定義しますと(フッサールではかような解釈だったかと記憶しております)、”生活世界”も”超越”と考えられます。 ”生活世界”とは、上述のように間主観性に基盤を置いていること、さらに、この間主観性は「実在の世界」から存在意味をもたらされているからでございます。 ご参考になれば、幸いでございます。
その他の回答 (3)
- ふじ-さん おたま-さん(@OtamaFJWR)
- ベストアンサー率11% (26/222)
とっても難しい哲学ですね。 私の脳は障害があって、マトモではありません。 しかし、何が正しいか?の判断はできます。 他の方が、言われているように、思想は物理と矛盾してはいけないと、 私は思います。この世に学問の境界線は無いと思います。 分断された知識をつめこまれた人間は、たくさんいるのでそれが、 スタンダードに見えるだけで、経済学者や哲学者の中にも、 頭の良いアホウ、知識の豊富な低能者、は大勢います。 あなたに教えている先生は、残念ながら。。。です。
お礼
回答ありがとうございました。 >思想は物理と矛盾してはいけないと、 >私は思います それは、真理とは「整合的である」(つまり、無矛盾)という真理観をとった 場合のはなしです。 実在と観念の一致を真理であるとする自然科学が採用する「対応説」を貫いたばあい、物理学の法則は、矛盾してくる。 たとえば、対応説では地動説も天動説も両方正しいことになる。計算の 仕方がちがうだけで、客観的実在をうまく説明する。 われわれは、まず「正しいとは、何か」をあらかにしなければならないのでは ないでしょうか。
- mesenfants
- ベストアンサー率31% (43/136)
うまく答えられる自身はありませんが。 とりあえず思考実験です。 知的エイリアンが、地上のある地点に「謎の物体」を観測したとします。 「縦、横、高さ」が「等しい」から、あれは「立方体」である。「質量」「温度」「成分」などと調べていって「あれは、何か」を決定するでしょう。 ですが、このエイリアンには「脚や腰」が(あるいは重ささえも)ないとします。この場合、どんなにそこにある物体を調査しても、 たとえば、それが「椅子」であるという結論は出せないでしょう。このエイリアンには「椅子」という概念が存在しません。 長いこと歩いてくたくたなとき、そこにある「切り株」は「椅子」です。 そこにあるものをたとえば「椅子」とみることが、ここでいう「生活世界」なのだと思われます。 「生活=生」とは、そこに何があるものはなんぞやと認識論を始めるまえに、それを問うひとが「生きている(あるいは(死ぬ運命にある)」というまっとうな前提を明確にするという立場から見えてくる「世界」のことではないでしょうか。ちなみに「死ぬ」という前提をいれるたのが、フッサールの不肖の弟子のハイデガーです。 エイリアンが「立方体」だ「固体」だとあれこれ「分析」しているとき、それこそ「生活世界」をまたいでしまっているのであって、それはやはり「超越」的な態度といわねばなりません。 わたしたちは「有限」な存在であってそこに立ち戻ろというのが、フッサールのスタンスであったように記憶しています。 そこで、それを「椅子」とみるというのは、どういうロジックなのだということになり、いわゆる『イデーン』が書かれたと思われます。 ここが、フッサール評価の岐路であるのですが、認知心理学やら、アフォーダンスやら、はてはラカン派やらが、いわば「暗黙知」の次元であれこれむずかしいことを言っているわけです。 そろそろおしまいですが、 「生活世界」とはむしろ「超越的態度」を改めるためのものであり、「内在」か「超越」かと問う人には、「どちらでもない」とお答えしたいです。そういう認識論的次元への疑念から始まったといいたい。 以上ですが、意のあるところを酌んでいただければ幸いです。
お礼
回答ありがとうございました。 わたしの直観では、フッセルは、「内在」だけで 勝負するのを断念したんだと思います。それで、 「生活世界」なるものを導入したんだとおもいます。 フッセルの文章を読んでいると、超越を先取りした文章が出てきます。 そして、そのあとで、「いや、これは、あくまで私の意識なのだ」と がんばっています。 「世界とそれに属するすべてのものは、それら自身の固有の意味には上述したような超越性(純粋意識の領域の外にある)が含まれているのである。世界自身の意味には、このように非実的に(意識の内部に実在しないで)包含されているという意味での超越が属している。〈超越論的なもの〉(自我のうちのあるもの)というこの概念と、その相関概念(反対概念)である〈超越的なもの〉(自我の外にあるもの)という概念は、もっぱらわれわれの哲学的省察の状況からのみその意味をくみとらなければならない。還元された自我が世界の一部分でないの同様、他方の世界とそれに属するすべての客観(対象)も、わたしの自我の一部分ではなく、したがって私の意識生活の内部にその実的(意識の内部に実在する)な部分として、すなわち感覚与件(所与)や諸作用の複合体として実的に見出されはしない。」(セレクションp221)
- 雪中庵(@psytex)
- ベストアンサー率21% (1064/5003)
量子論的世界像では、有限な存在性は観測される事によって生じています。 量子的な相補的不確定性を介した、自我仮説と時空仮説の相補分化と、 そこにおける、無の射影としての存在性。 (無の無限の闇に対する自我の射影) 全ては、あなたが存在するための(物理的根源にまで遡った)補完なのです。 全ての存在は、量子的な不確定性(確率波動)に基づいており、無限に 詰め込むと存在確率の山が平らになって、無と等しくなります。 この「絶対無=不確定性無限」において、その無限の闇に、認識体の 仮定断面の運動(プランク定数hの収束の時系列化)を想定すれば、 相対的に無の風は光になり、認識体はその光の向うに、自我仮説の 補完としての時空仮説=宇宙を認識するのです。 認識体との相対においてしか時空は計量できないとする相対性理論や、 同じく認識体が現象表面的に物事を捉え、本質的に決定しない事により 有限的存在性は生じるとする不確定性原理といったものを伴う時空を。 原理的に確定化しようとすると分限発散する対象を、階層現象表面的に “いい加減に”捉えることによって、有限な性質を伴う「存在」は派生する のです。 相対性理論の四次元時空の式において、時間項はマイナスであり、 そのために空間軸と時間軸の等距離点に、“ゼロの面”ができます。 それが「ライトコーン」、即ち光子の形成する面であり、光速以下の 領域(未来)と超光速の領域(過去)を分ける界面原点なのです。 相対性理論では、超光速においてエネルギーは虚数化し、相互作用 =二乗において負=過去(時間的反転)と等価になり、全ての“現在” からの対発生(自我仮説)を時系列化することが可能になるのです。 即ち、「何か有るんじゃないの?」という疑問(自我仮説)の相補として 生じた時空仮説に対して、「本当はないんだけどね」という無の射影として、 存在は生じていると言えます。 無いとは分からない事が有なのです。 (エポケー(判断停止)は現代物理を知らないフッサールの頭の中の方で(^o^))
お礼
量子力学の世界観をつくったシュレディンガーやハイゼンベルクでさえ、形式論理学や、これにもとづいてつくられた公理論的集合論を前提にして波動方程式や行列力学をつくりました。つまり、数学には、どのような立場をとりにせよ、 ロジックの前提(つまり、形式的な推論規則)があるのでず。つまり、仮定の規則、MPP、MTT、DN(二重否定)、CP(条件の証明)、RAA(背理法)、∧導入、∧除去、or導入、or除去、UI(普遍導入)、UE(普遍除去)、EI(存在導入)、EE(存在除去)、=I(同一性導入)、=E(同一性除去)という形式的な推論規則を前提にしています。 これを素朴に「正しい」と信仰して、あらゆる数学理論はつくらています。 フッサールの現象学は、このような論理学的な「信仰」をも「純粋意識の領域」の問題として疑いうると思います。 したがって、エポケーから獲得された純粋意識の領域を前提とし、そのから得られたロジックの法則を素朴に信仰して、使用する量子論の成果から、エポケーや「生活世界」を論ずることはできないとおもいます。 わざわざご回答ありがとうございました。
お礼
「生活世界」の必要から生まれたはずの「科学」が、生身の人間を疎外 するようになった。 そこで、エポケーを解除して、超越をみとめたわけですね。 たしかに、フッセルは「自我の外的対象は、存在可能である」といっています。 つまり、後期フッサールは、ついに「自我の外的対象は、存在する!」という確信をもたざるをえなかったわけですね。 なるほど、納得できました。 わたしは、「純粋意識の領域」だけで勝負しようとした前期フッサールのほうが、カッコイイとおもいます。 ていねいな回答ありがとうございました。