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武田家滅亡後の北信濃

武田勝頼滅亡にあたって、上田一帯は真田昌幸が領有することになったと思われますが、川中島(長野一帯)は誰の支配下に入ったのでしょうか? まず当時の海津城の城主(城代)は誰でしょうか? 真田と同格で連合したのでしょうか?真田の傘下に入ったのでしょうか?上杉の傘下に入ったのでしょうか? その後真田家は上田合戦の勝利ののち豊臣秀吉の裁定で徳川の与力に組み込まれますが、真田上杉の力で徳川軍を撃退した事を考えると上杉の与力に組み込んだほうが現状に即しているし秀吉にとっても徳川の力を強くするより都合がよいと思いますが、なぜ徳川の与力に組み込まれたのでしょうか?

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  • toshineko
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回答No.1

武田勝頼滅亡後、北信濃は森長可ら織田氏配下諸将の領国となりました。 しかし本能寺の変により、織田氏諸将は美濃へ撤退し、 以後は上杉景勝の支配下にはいりました。 また、上田合戦後なぜ真田氏が徳川配下に組み込まれたのか。 真意は豊臣秀吉にしか分からないと思われますが、 恐らくそのほうが後々面白いことになると思ったのではないでしょうか。 この時期、徳川氏は北条氏と婚姻による同盟を結んでいます。 何事もなければ平穏無事の関係が続いていた可能性があります。 ここに真田氏が関わることで、北条氏・徳川氏ともに因縁のある立場上、 同盟関係に軋みを生じさせることが可能になると考えたのではないか。 事実、真田氏と北条氏は揉め事を起こし、北条氏が滅ぼされていますから。

参考URL:
http://www.asahi-net.or.jp/~ju8t-hnm/Shiro/TokaiKoshin/Nagano/Kaidu/
jkpawapuro
質問者

お礼

御回答ありがとうございます。 海津城代はかなり転々としてるんですね。

その他の回答 (1)

  • tanuki4u
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回答No.2

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B1%8A%E8%87%A3%E7%A7%80%E6%AC%A1 豊臣秀次事件の顛末から 難を逃れた主な人物 秀次の家臣・与力大名等 田中吉政 中村一氏 山内一豊 与力と言っても、家臣になれ(あるいは、家臣として忠義を尽くす)というのではなく、一種の監視役としての与力も存在します。

jkpawapuro
質問者

お礼

御回答ありがとうございます。 信濃の奥地に宿敵の真田氏がいたところで、内部からの監視は無理でしょうし、今となってはわからぬことでしょうかね。

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