- 締切済み
1589年伊那郡箕輪領の領主
1589年、真田昌幸の沼田裁定問題で、伊那領箕輪郡が沼田の代替地に真田に引き渡されました。 この伊那領ですがそれ以前は誰が領主だったのでしょうか? おそらく徳川の勢力化なんでしょうが、徳川に臣従した誰かが地元領主としていたのではないでしょうか?徳川が簡単に代替地を提供できるのならば秀吉と敵対する中背後に真田と敵対する必要はないわけで、この代替地の領主がどうなったか気になります。
- みんなの回答 (4)
- 専門家の回答
みんなの回答
- ithi
- ベストアンサー率20% (1972/9601)
jkpawapuroさん、こんばんは。 実はまだ北條領でした。支配する城も箕輪城で、北條氏政の弟氏邦が滝川一益を破り、天正10年(1582)入っていました。その後は織田わあ征伐の後まで氏邦が城主になっていたようです。 詳細は下記のURLを参照ください。 北條氏邦 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%97%E6%9D%A1%E6%B0%8F%E9%82%A6 箕輪城 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AE%95%E8%BC%AA%E5%9F%8E
伊那箕輪城。 箕輪城の築城主が箕輪氏・城主・木下総茂 箕輪城の別名「福与城主」が藤沢頼頼、武田群の伊那攻めで武田軍に敗れ逃げ延びて、後に箕輪に戻って建てたのが「田中城」箕輪町木下で戦国時代の山城では無く平地の天竜川近くに築城したもので、のちの箕輪陣屋になります。 高崎箕輪城。 内藤昌月・滝川一益・北条氏・井伊直正。
お礼
ご回答ありがとうございまいた。
- kagakusuki
- ベストアンサー率51% (2610/5101)
下記のURLのページ 【参考URL】 箕輪町公式サイト > の中の暮らしの便利帳 > 文化・スポーツ > 図書館 > 箕輪町誌を公開しています > 歴史編 閲覧はこちら > p.473 http://www1.town.minowa.nagano.jp/html/pageview_rekishi/pageview.html#page_num=472 に掲載されている情報に拠りますと、直前の領主は、元は高遠氏や甲斐武田家の家臣で、当時は徳川家の直接の家臣ではないものの、その支配下にあった「保科正直」という人物の様です。 【参考URL】 保科正直 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BF%9D%E7%A7%91%E6%AD%A3%E7%9B%B4
お礼
おお、これは珍しいところの資料をご回答ありがとうございます。さすが桜の名所の城下町、箕輪町はずいぶん郷土史をきちんと残してる町なんですね。
- あずき なな(@azuki-7)
- ベストアンサー率16% (1963/11745)
和久頼氏が領主だったと思います 頼氏は間もなく浜松で不慮の死を遂げています
お礼
ご回答ありがとうございます、NO2さんの資料によると箕輪領については保科氏領有だったようですね。 たしかに上田合戦の直後和久氏の切腹があり紛らわしいタイミングです。
補足
ひょっとして保科領の一部を真田氏に、代替の代替に旧和久氏の領地が保科氏になんて流れがあったかもしれませんね。
お礼
すいません、質問は長野県伊那の箕輪で群馬の箕輪ではありません。 ご回答ありがとうございました。