• 締切済み

《信じる》を哲学として定義せよ

 たたき台として次を参照してください。参照無しでもかまいません。  ○ 《信じる》とは  ~~~~~~~      一般に《神》(*1)と呼ばれる《非経験の場 X 》(*2)を対象(*3)としつつ    神の名(*4)をシルシ(*5)として 心に受け容れる(*6)ことである。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~     *1 神:    次に出てくる項目の《非経験の場 X 》が 経験的に認識され得るような《有る・無い》を超えているゆえ 神については それが《有る(有神論)》と仮りに言っても 《無い(無神論)》とやはり仮りに言っても 同じことである。   *1-1 また神は 世界の中で見れば いろんな名がつけられている。これらも 次の《非経験の場 X 》の定義から言って どの名であれ 《全体としてひとつ》なる神のことを言っていることになる。=普遍神。   *1-2 たとえば 次のごとく:    類   型:   神・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・人    __________________________   ・ ブラフマニズム:ブラフマン・・・・・・・・・・・・・アートマン               (梵我一如)   ・ ゴータマ・ブディズム:無(ア‐ブラフマン)・・・無(アン‐アートマン)               (無梵無我一如)   ・ マハーヤーナ・ブディズム:ブッダ・・・・・・・・ブッダター(仏性)               (仏仏一如)   ・ ヘブルイズム:ヤハヱー・・・・・・・・・・・・・・人(神の霊のやどる)               (霊霊一如)   ・ プラトン(?):プシュケー・コスムー・・・・・・・人(神の霊のやどる)               (霊霊一如)   ・・・・・・・・・   *2       非経験の場 X : 前項(1-2)の《神》の項目のそれぞれが 非経験の場の具体的な事例である。   *2-1 《経験世界における因果関係から自由である場》 これを言う。したがって《有・無》からも自由である。   *2-2 人間にとってその能力によっては それが何であるか・またあるか無いかが 分かるか分からないかが分からないもの これが 非経験の場のことである。そういう想定になるものであり これを《非知》と言う。   *2-3 この神は 得たいの知れない・雲をつかむようなナゾであるゆえ 《霊》とも呼ぶ。   *2-4 《アートマン》は 神の霊がやどったその場のチカラを称して言っている。《霊我》と言われる。   *2-5 《ブッダター(仏性)》も 神の霊のことである。呼び名が違うだけである。   *2-6 この《非経験の場 X 》の意味において《イデア》と言っても それはかまわない。神の名は ただのシルシである。ただし・また従って イデアに概念内容や意味はない。(として扱うということになる)。   *3    対象: 何が何だか分からないナゾの霊であるゆえ これが信じるの対象であるということは 《非対象》ということである。   *3-1 それゆえまた この非対象を どんなシルシとしての名で呼んでも 基本としての違いはない。   *4    神の名: 前項の(1-2)などを参照。   *5   シルシ: (2-6)などを参照。   *6    心に受け容れる: たとえばアミターバ・ブッダなる神のシルシとしての名を介して 非経験の場 X を心に受け容れるとは どういうことか?   *6-1 雲をつかむがごとく心に受け留め 何の思考も疑問(=つまり思考)もなく 受け容れる。これは あたかも賭け事において賭けるようなものでもある。相手(対象)は 何もないものであるゆえ・つまり非対象であっても 心でその領収証を発行しておく。これで 《信じる》の完了である。   *6-2 《信じる》が完了すると わが心に《非思考の庭》が成る。非経験の場 X を受け容れたというそのかたちである。   *6-3 この非思考の庭で わが信仰はみづからの動態過程をたどる。具体的なかたちとしては わづかにヒラメキが生まれるといったことがある。あるいは 良心。ほとんどそれらのみである。   *6-4 信仰は おのれが日々あらたにされるごとくして 動態となってあゆむ。みづからの思考がもしあやまったなら これを捉えてワレをもとのワレに立ち帰るように仕向ける。良心のしわざ。それがヒラメキにおいて知らされる。   *6-5 そしてそれは 実際には むしろ感性においてその信号がおくられて来るようにして 作業がなされる。非思考の庭は 感性ともつながっているか。(直感と直観つまりヒラメキ)。つまり 良心がらみであるから ヤマシサ反応となって現われる。

みんなの回答

  • kaitara1
  • ベストアンサー率12% (1159/9170)
回答No.2

無条件の前提として何かを採用することでは。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  こちらからもツッコミを入れます。  ★ 無条件の前提として  ☆ という場合には その前提としてこの《無条件の》という場合とそのほかにも《条件をつけての》という場合とがある。と考えられて来ます。  つまりは 《条件をつける》ということは その対象となっているものごとが 《考える》ものであると言っています。無条件という場合にも 《考えた結果》そのように決めたわけです。  ――つまりは 《信じる》とは違っている。ということになるはずではありませんか?  無条件というよりは 《無根拠》においてその《無根拠》そのものをわが心に受け容れる。――と言うとよいかも分かりません。どうでしょうね。

  • kagakusuki
  • ベストアンサー率51% (2610/5101)
回答No.1

 《信じる》とは「疑わずに本当だと思い込む」事、「疑う事無く,頼りとする」事、「心の中に強く思い込む」事である。  「神」であるのかどうかなど関係の無い話である。  何を信じるかは人それぞれであり、個人個人が何を信じるかは完全にその個人の自由であり、個人によって恣意的に決められる事柄に過ぎない。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうとございます。  ★ 《信じる》とは「疑わずに本当だと思い込む」事、「疑う事無く,頼りとする」事、「心の中に強く思い込む」事である。  ☆ それぢゃ 《考える・思う》と違わないぢゃないですか。そのとき 思念だとか念願だとかのまさに《思い込み》が強い場合にしか過ぎない。  ★ 「神」であるのかどうかなど関係の無い話である。  ☆ というのは おそらく《神を信じる》という場合の《信じる》の意から派生させ応用した用法なのでしょうね。  あの人を信じます。わるい人ではありません。わたしはよく知っているのです。――といったように応用がなされますね。  《強く思う》と言っているわけです。なぜなら 《信じる》には ゆるがない何らかの関係が――むろん神とわれとのあいだに――あると見られていて そのことをふつうの経験事象にも応用しようとしたに違いない。  ですから なんらかの《非経験の場》についての受け容れとしての《信じる》があって それとは別次元で・そのほかのことがらについての応用が派生した。  このように推し測られましょう。  この原義とその応用とを区別しないと 用を成さない。こう考えますが どうでしょう。

関連するQ&A