• 締切済み

《信じる》を哲学として定義せよ

 たたき台として次を参照してください。参照無しでもかまいません。  ○ 《信じる》とは  ~~~~~~~      一般に《神》(*1)と呼ばれる《非経験の場 X 》(*2)を対象(*3)としつつ    神の名(*4)をシルシ(*5)として 心に受け容れる(*6)ことである。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~     *1 神:    次に出てくる項目の《非経験の場 X 》が 経験的に認識され得るような《有る・無い》を超えているゆえ 神については それが《有る(有神論)》と仮りに言っても 《無い(無神論)》とやはり仮りに言っても 同じことである。   *1-1 また神は 世界の中で見れば いろんな名がつけられている。これらも 次の《非経験の場 X 》の定義から言って どの名であれ 《全体としてひとつ》なる神のことを言っていることになる。=普遍神。   *1-2 たとえば 次のごとく:    類   型:   神・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・人    __________________________   ・ ブラフマニズム:ブラフマン・・・・・・・・・・・・・アートマン               (梵我一如)   ・ ゴータマ・ブディズム:無(ア‐ブラフマン)・・・無(アン‐アートマン)               (無梵無我一如)   ・ マハーヤーナ・ブディズム:ブッダ・・・・・・・・ブッダター(仏性)               (仏仏一如)   ・ ヘブルイズム:ヤハヱー・・・・・・・・・・・・・・人(神の霊のやどる)               (霊霊一如)   ・ プラトン(?):プシュケー・コスムー・・・・・・・人(神の霊のやどる)               (霊霊一如)   ・・・・・・・・・   *2       非経験の場 X : 前項(1-2)の《神》の項目のそれぞれが 非経験の場の具体的な事例である。   *2-1 《経験世界における因果関係から自由である場》 これを言う。したがって《有・無》からも自由である。   *2-2 人間にとってその能力によっては それが何であるか・またあるか無いかが 分かるか分からないかが分からないもの これが 非経験の場のことである。そういう想定になるものであり これを《非知》と言う。   *2-3 この神は 得たいの知れない・雲をつかむようなナゾであるゆえ 《霊》とも呼ぶ。   *2-4 《アートマン》は 神の霊がやどったその場のチカラを称して言っている。《霊我》と言われる。   *2-5 《ブッダター(仏性)》も 神の霊のことである。呼び名が違うだけである。   *2-6 この《非経験の場 X 》の意味において《イデア》と言っても それはかまわない。神の名は ただのシルシである。ただし・また従って イデアに概念内容や意味はない。(として扱うということになる)。   *3    対象: 何が何だか分からないナゾの霊であるゆえ これが信じるの対象であるということは 《非対象》ということである。   *3-1 それゆえまた この非対象を どんなシルシとしての名で呼んでも 基本としての違いはない。   *4    神の名: 前項の(1-2)などを参照。   *5   シルシ: (2-6)などを参照。   *6    心に受け容れる: たとえばアミターバ・ブッダなる神のシルシとしての名を介して 非経験の場 X を心に受け容れるとは どういうことか?   *6-1 雲をつかむがごとく心に受け留め 何の思考も疑問(=つまり思考)もなく 受け容れる。これは あたかも賭け事において賭けるようなものでもある。相手(対象)は 何もないものであるゆえ・つまり非対象であっても 心でその領収証を発行しておく。これで 《信じる》の完了である。   *6-2 《信じる》が完了すると わが心に《非思考の庭》が成る。非経験の場 X を受け容れたというそのかたちである。   *6-3 この非思考の庭で わが信仰はみづからの動態過程をたどる。具体的なかたちとしては わづかにヒラメキが生まれるといったことがある。あるいは 良心。ほとんどそれらのみである。   *6-4 信仰は おのれが日々あらたにされるごとくして 動態となってあゆむ。みづからの思考がもしあやまったなら これを捉えてワレをもとのワレに立ち帰るように仕向ける。良心のしわざ。それがヒラメキにおいて知らされる。   *6-5 そしてそれは 実際には むしろ感性においてその信号がおくられて来るようにして 作業がなされる。非思考の庭は 感性ともつながっているか。(直感と直観つまりヒラメキ)。つまり 良心がらみであるから ヤマシサ反応となって現われる。

みんなの回答

  • kagakusuki
  • ベストアンサー率51% (2610/5101)
回答No.12

>☆ では 《一般的な信じるの形式》とは どういうものでしょう?  《信じる》とは「疑わずに本当だと思い込む」事、「疑う事無く,頼りとする」事、「心の中に強く思い込む」事であり、それは《考える・思う》と同様のものであり、特に《思い込み》によるものである場合の事を指すものです。 >宗教のオシへを持って来るのではないでしょうね。 >それは ただの《考える》問題としての《信じるモドキ》です。  いいえ、宗教の信者中には「神が実在しているとは思っていない者や「《オシへ》に従わない者」も大勢います。  それでもそういった人々でさえ、「《信仰》している」、「《信じて》いる」とされるのですから、 >《神とわれとの関係》 こそが《信じるモドキ》に過ぎないものです。  だからこそ >《信じる》の例としてはあまり適切なものとは言えないという意味で同じものです。 と申しております。 >このようにツッコミを入れられる前に その論証や例証を述べるのが ふつうの対話のやり方です。  嘘はいけませんね。  論証なら2回目の私の回答である回答No.4以降の私の各回答に、例証なら4回目の私の回答である回答No.9にちゃんと述べられているではありませんか。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  《思う・考える》と同じ意味の言葉なら 要らないではないですか。  ★ 神が実在している  ☆ そんなこと 分かるわけがないぢゃないですか。  それとも何らかの特別の定義が この《実在》にはあるのですか?  そんなことは聞いたことがありません。  この命題(判断)は 哲学ではありません。    ★ ~~~~~~~~~~   >《神とわれとの関係》  こそが《信じるモドキ》に過ぎないものです。  ~~~~~~~~~~~~~  ☆ だから 想定だと再三再四 言って来ています。  《神》は 《知り得るか知り得ないが 知り得ないナゾ――つまり 非知――》として想定するものだと。  その神とわれとの関係です。  想定なるものであるゆえに その関係は 《考える・思う》ではないのです。ゆえに それらとは別の概念として《信じる》が 用いられます。  もう言っていいでしょうね。あんたは 馬鹿か。いったい何度同じことを説明させれば気が済むのですか。  ★ ~~~~~~~~~~~~~  嘘はいけませんね。  論証なら2回目の私の回答である回答No.4以降の私の各回答に、例証なら4回目の私の回答である回答No.9にちゃんと述べられているではありませんか。  ~~~~~~~~~~~~~~  ☆ あぁ これが あなたの哲学だったのですね。すばらしい。よかった。よかった。  

  • kagakusuki
  • ベストアンサー率51% (2610/5101)
回答No.11

>《信じる》における《神とわれとの関係》は 次のように一般的な類型として 《梵我一如》なる形式で説明し得ます。  それは特定の場合における《信じる》に過ぎないものであり、一般的なものとは到底呼ぶ事は出来ません。 >☆ 普遍神は 《有る神》も《無い神》も 同じです。  その通り、 《有る神》も《無い神》も《信じる》の対象としては極狭い特殊なものに過ぎず、《信じる》の例としてはあまり適切なものとは言えないという意味で同じものです。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  《信じる》における《神とわれとの関係》についての一般的な類型として 《梵我一如》なる形式:  ★ それは特定の場合における《信じる》に過ぎないものであり、一般的なものとは到底呼ぶ事は出来ません。  ☆ では 《一般的な信じるの形式》とは どういうものでしょう?  宗教のオシへを持って来るのではないでしょうね。  それは ただの《考える》問題としての《信じるモドキ》です。  ☆☆ 普遍神は 《有る神》も《無い神》も 同じです。  ☆ 神について――マチガヒのない信仰にかんして―― これら《有る神》と《無い神》とのほかには もうかたちとして現われるものはないですよ。  このようにツッコミを入れられる前に その論証や例証を述べるのが ふつうの対話のやり方です。

  • kaitara1
  • ベストアンサー率12% (1159/9170)
回答No.10

(再)無条件よりも無根拠のほうが適切ですね。なぜそれを根拠あるいは前提として採用しているかを相手に納得させることができないことを信じると定義するということでは。自我意識がそのよい例では。デカルトが結局コギトエルゴスムとしか言いようがなかったのもよくわかるように思います。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  ★ なぜそれを根拠あるいは前提として採用しているかを相手に納得させることができないことを信じると定義するということでは。  ☆ ええっとですね。  神はなぜ《無根拠》なのか?  《絶対》だからです。  そういう意味では 説明し得ますし 納得の行くものでもあると思います。  ただ 《絶対》とはどういう状態であるかとか その具体的なことは まったく人間には分からない。  分かるか分からないかが 分からない。  人間の存在にかんしては むしろ   《わたしがわたしである》  という自同律で説明されるものと思います。  つまりは そういった相対的な・有限なかたちの自己同一性でよいものと思います。  《わたし》たちが互いに確認され得たなら それで意志疎通には差し障りはないものと考えるわけなのですが。

  • kagakusuki
  • ベストアンサー率51% (2610/5101)
回答No.9

>その《心に受け容れる》コトを 《信じる》と言う。  いいえ違います。  例えば、イスラム教徒はキリスト教と同一の神を《信じて》《受け容れています》が、イスラム教徒はキリスト教を《信仰》してはいません。  又、「神などいない。"信じる"ものは自分の力のみ」と言う人がいた場合の《信じる》もまた明らかに《信じる》の一つなのは疑う余地がありません。  従って、《信じる》という言葉が神を対象にするのは極一部の話に過ぎず、《信仰》と《信じる》は異なる概念ですし、質問者様の >☆☆ 神とわれとの関係が 信仰です。 >☆ 信仰とは 非知なるナゾの神をわれがわが心に受け容れることである。そしてそのあとの動態をも言う。 という仮説は、《信仰》の定義とは言えません。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  《信じる》における《神とわれとの関係》は 次のように一般的な類型として 《梵我一如》なる形式で説明し得ます。  ○ 《梵我一如》なる信仰類型   A. ブラフマニズム:梵我一如    梵:ブラフマン・・・・・マクロコスモス。神    我:アートマン・・・・・ミクロコスモス。霊我   B. ゴータマ・ブッダ:無梵無我一如(=無神論)    無梵:空(シューニャター)・ゼロ    無我:アン‐アートマン;ニルワーナ   C. ブディズム:仏仏一如(=有神論)    仏:アミターバ・ブッダ(阿弥陀如来)       / マハーワイローチャナ(大日如来)    仏:タターガタ・ガルバ(如来蔵)・ブッダター(仏性)   D. クリスチアニズム:霊霊一如    霊:神・聖霊    霊:《神の宮なるわれ》   E. (プラトン?):霊霊一如    霊:宇宙霊魂(プシュケー・コスムー) / 世界霊魂(アニマ・ムンディ)    霊:《われ》   F. 《もののあはれを知る》    霊:かみ(自然および超自然)    霊:われ(自然本性)   G. ユダヤイズム:霊霊一如    霊:ヤハヱ―;(エローホ=神)    霊:われ   H. イスラーム:霊霊一如    霊:アッラーフ(イラーハ=神)    霊:われ  ☆ 普遍神は 《有る神》も《無い神》も 同じです。  経験事象としての《有る無い》あるいは《因果関係》を超えているからです。

  • kagakusuki
  • ベストアンサー率51% (2610/5101)
回答No.8

>その神とわれとの関係が 信仰です。  それは「信じる」という事のほんの一例に過ぎません。  「信じる」は「信仰」などよりももっと広い意味を持つ概念です。  従って「信じる」と「信仰」はイコールではありません。  この違いについて理解してください。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  ☆☆ 神とわれとの関係が 信仰です。  ☆ 信仰とは 非知なるナゾの神をわれがわが心に受け容れることである。そしてそのあとの動態をも言う。  その《心に受け容れる》コトを 《信じる》と言う。  信じるは 動態用言。  信仰は 行為をも意味としてふくんだ体言。

回答No.7

ジジくさい外来宗教の研究に見えるんだよ、これは。 信じることと愛する事は重なる部分が有る。 その一致項から、人すらも信じると言うのが日本だ。 10年来ガミガミオジジは納得してないね。 苦情は自らが招いていると言う教えが仏教だが、ジジイには何かもっともな言い分が有ってわめいているとは私もさすがに了解している。 普遍性を土台にしているが小学生が納得出来る位のわかりやすさまでは至っていない。 わかりやすさは猿回しから始めるのが私の経験則だ。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  ★ 人すらも信じると言うのが日本だ。  ☆ そういう用法があることと 哲学として理論の内にふくめてもよいかとは別である。  《神わざ》というのは 一般にあたかも神がおこなったかに見える・人間のわざを言います。  だからと言って 神は 人間のあいだに普通にそのハタラキを持って存在している――とまでは言わない。  むしろ 人間との違いをきちんと捉えているからこそ そういった表現が持たれて来る。  《信じる》も同じではないだろうか。  ★ 信じることと愛する事は重なる部分が有る。  ☆ その命題の論証は むつかしいよ。

回答No.6

bragelonneさん この回答を最後に私は、この質問から身を引きます。 「★ ~~~~~~~~~~~~~~  このような「人間の姿の方が歴史的に確かに存在した。」  このことが「信じる」ということであり、  ~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ よく飲み込めませんが 《実在の人物》であるなら 《歴史的に存在した》というのは ただの言い換えです。  それがどうして《信じる》ことなのか?」 それでは、bragelonneさんは、私が現在、存在していることを肯定しますか? ネットの仮想空間でのやり取りで、顔も声も聞こえません。 私の心の中に住む、私の祖父母が存在したことは? bragelonenさんは、もはや会う事はできません。 歴史小説などを読むと、中学校や高校で習う、歴史上の人物が、良くも悪くも描かれています。 例えば、新撰組を肯定しますか、否定しますか? bragelonneさんは、そんな人達は存在しなかった? イエスも仏陀も何千年前に生きた人です。 存在を認め、その言い伝えを「信じる」か。 では、おやすみなさい。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  残念ながら 意味不明です。  あなたには 生みの親として 父および母があります。  その父母それぞれに 両親があります。  あなたの祖父母です。二筋あります。  こうして祖先にさかのぼって行けます。  その過去の人たちについて 実在したと捉えます。  そのように世界は認識されています。  ということですが そこには《信じる》という問題は出て来ませんよ。  では おやすみなさい。よい夢を。

回答No.5

明確な物理的因果関係の把握をせず、特定の 原因ないし結果を先入化した判断をする事。

  • kagakusuki
  • ベストアンサー率51% (2610/5101)
回答No.4

>★ 《信じる》とは「疑わずに本当だと思い込む」事、「疑う事無く,頼りとする」事、「心の中に強く思い込む」事である。 >☆ それぢゃ 《考える・思う》と違わないぢゃないですか。そのとき 思念だとか念願だとかのまさに《思い込み》が強い場合にしか過ぎない。  まさにその通り。  《考える・思う》と同様のものであり、特に《思い込み》によるものである場合の事を指すものです。 >おそらく《神を信じる》という場合の《信じる》の意から派生させ応用した用法なのでしょうね。  いいえ、それは逆ですね。  「信じる」の「信」の字が「人偏」である事からも判る通り、《人を信じる》という場合の《信じる》の意を応用する事で、《神を信じる》という用法が派生したに過ぎません。  「信」の字の形は「『もし自分の言った事に嘘があれば刑罰を受けても良い』という宣誓の言葉を人が口にする」という場面を表しており、「その様な宣誓をするくらいなのだからその人物の言う事は真実だと考えても良いであろう」という事から「信じる(信用する)」という意味を持つ様になったものです。  貴方は、「『神が嘘を吐いた場合の事』を想定して『その様な時には神に刑罰を与えよう』」と考えておられるのですか? 【参考URL】  「信」という漢字の意味(名前・名付けの意味)・成り立ち・読み方・画数   http://okjiten.jp/kanji393.html >《強く思う》と言っているわけです。なぜなら 《信じる》には ゆるがない何らかの関係が――むろん神とわれとのあいだに――あると見られていて そのことをふつうの経験事象にも応用しようとしたに違いない。  それはまさに >《思い込み》が強い場合にしか過ぎない。 そのものではありませんか。 >ですから なんらかの《非経験の場》についての受け容れとしての《信じる》があって それとは別次元で・そのほかのことがらについての応用が派生した。 >このように推し測られましょう。  それはまさに >《考える・思う》と違わないぢゃないですか。そのとき 思念だとか念願だとかのまさに《思い込み》が強い場合にしか過ぎない。 そのものではありませんか。 >この原義とその応用とを区別しないと 用を成さない。  元々違い自体が無いのですから、区別など付けてはいけません。  質問者様のその様な考えは用を成しません。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  《かみ》というのは そもそも目に見えないものです。  一例として昔の人の定義をかかげておきます。:  ▲ (宣長:古事記伝) ~~~~~~~~~~~~~~  凡(すべ)てか迦微(かみ)とは  古御典(いにしえのみふみ)等(ども)に見えたる天地の諸(もろもろ)の神たちを始めて、其を祀れる社に坐す御霊(みたま)をも申し、  又人はさらにも云(い)はず、鳥獣(とりけもの)木草のたぐひ海山など、其与(そのほか)何にまれ、  尋常(よのつね)ならずすぐれたる徳(こと)のありて、可畏(かしこ)き物を迦微とは云なり。  すぐれたるとは、尊きこと、善きこと、功(いさお)しきことなどの、優れたるのみを云に非ず、  悪(あし)きもの、奇(あや)しきものなども、よにすぐれて可畏きをば神と云なり。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ ただしこの定義に従うことを意味しません。  なぜなら たとえば山が神だという。かむなびやま。やまつみ。  あるいは 大きな石。いはくら(磐座)。  あるいは そのほかもろもろの ものごとが神だと言う。  そのとき それらモノ・コトは あくまで神の――霊の――依り代であるに過ぎないものだからです。  依り代というのは 神が仮りに現われたと見なして捉えたもの。すなわち 偶像のことです。  別様に言いかえると 神という正解を問い求めて行く過程で 偶像ないし依り代として補助線を引いたということです。  補助線が 神そのものではない。こういうことです。  山や海や神の宿る大木や何やかやのモノ・コトは 神本体を指し示すシルシだということです。  ですから 経験事象としてのモノ・コトについては 人間は《考える・あるいは認識する》のであって 信じるものではありません。《信じる》ものは その補助線・依り代・偶像がシルシとして指し示すその先の何ものかなのです。  だからわざわざそのために 《信じる》という漢語を用いるようになった。  《信》が そう読まれるように 《まこと〔と思う〕》というような表現であらわしたものと思われます。  《真(ま)・事(言・こと)》というのはこの場合 仮りに依り代と見なしたモノ・コトの奥にあると想定される神のことでしょう。  この非知なるナゾとしての神は 人間が思ったり考えたりしても・つまりいくら強く思い入れしようとあるいはけなそうとも 何の影響も受けません。  その神とわれとの関係が 信仰です。  この違いについて理解してください。

回答No.3

bragelonneさん こんばんは。 独自の哲学作りには、論理が必要と思いますが、宗教を肯定する私には、bragelonneさんの主張は、ファリサイ派かサドカイ派か、分裂した仏教の教えのように感じます。 熟読したわけでないので大きなことは言えませんが、ホワイトヘッドの下記の言葉を私は肯定します。 「仏教とキリスト教は、その起源を各々の歴史における二つの霊的満ちた時のうちに見出す。すなわち、仏陀の生涯とキリストの生涯である。仏陀は世界を開覚するために自らの教説をあたえ、キリストは自らの生命をあたえた。教説をそこから導き出すのはキリスト教徒がしなければならないことであり、また、おそらく、究極的には仏陀の教説のもっとも価値のある部分は、彼の生命をいかに解釈するかであろう。」 ホワイトヘッドは仏教を過小評価し批判的だったそうですが、上記の言葉は、的を射ていると思います。 つまり、私に言わせると、bragelonneさんがキリスト教において、エレミヤの予言が、どーのこーの、と、こだわるのでなく、神などという、人間の目には見えず、カントに言わせると、物自体は認識できないのだから、理性の越権行為だなどと、うんぬん理屈を捏ね回すのではなく、キリストとしてイエスという神が「人間」という「目に見える姿」で現われたという歴史的事実。 仏陀という「人間」が確かに存在し、菩提樹の木の下で悟りを開いたという歴史的事実。 このような「人間の姿の方が歴史的に確かに存在した。」 このことが「信じる」ということであり、 また、イエスや仏陀の生き方を共感すれば、「この世で良識ある人生を暮らせる」ということも「信じる」に価することであることであると私は思います。 私は死後に天国や極楽などで暮らすのは退屈そうなので、カトリック教会の教えの「本の沢山置いてある煉獄」に行き、死後も研究を続けます。 ファウスト2世より マルガレーテ命(笑)。

bragelonne
質問者

お礼

 こんばんは。ご回答をありがとうございます。  例によって 自由にツッコミを入れてまいります。  ★ ホワイトヘッドは仏教を過小評価し批判的だったそうですが、上記の言葉は、的を射ていると思います。  ☆ ええっとですね。  この評論は ただ外形を捉えようとしただけなんです。家を外からながめてその間取りや構造がどうなっているかを憶測した。というものではないのでしょうか?  つまり  ▲ 霊的満ちた時  ☆ の中身は どう捉えているのか?  ▲ 世界を開覚する   ☆ とは 具体的にどういうことを言うのか?  ▲ 生命  ☆ を あまりにも安易に持ち出し過ぎでは? もしちゃんと述べているのなら そこのくだりを引用してください。  あとのほうで:  ★ 悟りを開いたという歴史的事実  ☆ そのさとりの中身を明らかにするまでは ただの推理文学です。  ★ 神などという、人間の目には見えず、  ☆ これが 違うんです。《人間がその能力によって知り得るか知り得ないか それが知り得ないナゾ》というのは 《知り得るかも知れない》のです。その可能性を――《不可知》とは違って――残しています。  だから 《おれは神を見た》という主観は その主観内にとどまるかぎりで 認められることになります。《神を見た》というその主観内容を 否定して証明することは出来ないからです。  ただし おれが見たのだから おまえもそれを承認せよと言っても それはその相手の自由です。この場合の自由というのは たとえ よっしゃ おれは承認してやるぞと言っても その承認が 人びと一般の――定説のような――了解事項にはならないかたちにおいてなのです。  なぜなら もし或る人が見たという神を別の人が同じく見たというなら その神はすでに《可知の領域にあって既知となります》。つまりは 非経験の場ではなくなり 経験事象だとなるからです。  ★ カントに言わせると、物自体は認識できない  ☆ そういう想定を言ったまででしょう。自分の理論をみちびくための作業仮説のようなものです。それは それだけのことです。  ★ キリストとしてイエスという神が「人間」という「目に見える姿」で現われたという歴史的事実。  ☆ ナザレのイエスは 人間ですよ。父がヨセフで母はマリア。  このイエスが実在の人物であったことは おおむねみとめられているようです。(否定説も出ています)。  ここで問題は 《キリストとして》という規定です。これは 神の子であり神そのものを言うのですから この規定は 想定なのです。非経験の場を・つまり経験世界を超えたところとして 想定しているものです。  先ほどの既知なる可知でもなく不可知でもないところの非知なるナゾとして想定されているものです。  そのままでその神学の中身が 現実であるなどとは到底言えません。  キリストが指し示した神――普遍神です――を信じる場合の信仰は どのように成り立っているのか? と問うた場合に 想定事項として説明するのが 神学です。  霊――つまり 非知なるナゾ――というだけでは 一般の人たちへの説明として埒が開かないのですから いろいろと弁明します。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~  このような「人間の姿の方が歴史的に確かに存在した。」  このことが「信じる」ということであり、  ~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ よく飲み込めませんが 《実在の人物》であるなら 《歴史的に存在した》というのは ただの言い換えです。  それがどうして《信じる》ことなのか?  ちなみに キリストなる神が 肉となって イエスなる人間において存在したというのは 神の想定からみちびかれたさらなる想定です。そういう想定としての神学です。よ。  信じるのは そういう想定そのものではありません。想定は 言葉≒概念で説明するものですから 経験的な思考の問題です。  《信じる》のは そこに想定されたという《非知なるナゾ》のほうです。言いかえれば ナゾとして《無根拠》のことです。信仰は 《義無きを以って義としている》のです。    ゴータマ・ブッダは ただの人間です。  ★ また、イエスや仏陀の生き方を共感すれば、「この世で良識ある人生を暮らせる」ということも「信じる」に価することであることであると私は思います。  ☆ その《生き方》を明らかにしないことには そうだとも・違うとも何とも言えません。  漠然とした世の中の風評ないし思潮としてそうだと言うに過ぎないでしょう。  ★ 煉獄  ☆ も 文学ないし心理学の問題です。  ★ マルガレーテ  ☆ は 大ざっぱに言ってしまえば 悪人ですよ。だったのです。  

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