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幕府と朝廷について

ど素人かつ無知な質問でお恥ずかしいのですが、幕府と朝廷の違いを簡単に教えてください。 もちろん両者が同じだと考えているわけではなく、両者の役割と立場、絡み方を知りたいです。 どうも一国に政府(統治機関)が二つあるような気がしてしっくりこないのです。 今の天皇と総理大臣の違いのような感じでしょうか? でも、当時の天皇は象徴というお飾りではないですよね? 戦国時代になるとまた違うのでしょうか? 幕府は兵をもっていなかったとか。 朝廷には兵はいたのでしょうか? 力(権力、軍事力、財力)の違いもよくわかりません。 質問に脈絡がなくて申し訳ありませんが、どうか教えてください。

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回答No.3

#2です。 やはり本を読まれるのが良いような気がします。Q&Aではどうしても断片的になるので。先に挙げた新書の他に、井沢元彦「逆説の日本史」3,4,5巻あたり(小学館文庫)も、独特の歴史観ですがその分、わかりやすいです。本を読みなれてない方だと学者の書いた本より作家の書いた本の方が読みやすいでしょうし。 >一国に統治機関が二つあるような複雑な状況になったのは何故なのでしょうか? >朝廷という国の統治機関がありながら、何故幕府という機関が発足したのか。 律令制の前提の公地公民(税収は国庫に入り、貴族には官僚としての報酬が支払われる)が、平安時代には貴族の私有地である荘園(および私有民)の拡大によって税収が減り、崩れます。この時点でもう、日本全体を治めるという朝廷政治は正常に機能していないわけです。天皇や皇族ですら荘園を持ち、国庫を経ずに収入を得ている。 鎌倉幕府が出来る直前の状態でいうと、武士達は自分達の権利を京都の荘園領主に対して守ってくれるリーダーを必要としていたわけで、関東のそれら武士が先祖が源氏か平氏かに関わらず、頼朝政権に期待し、支援することで源平の戦いが終わったわけです。頼朝政権は国司に対応する守護、在地の荘園管理者に対応する地頭を武士が全国に置くことを朝廷に認めさせます。名目上は、朝敵となった義経の追討のためですが、実際には武力で脅したといえるでしょう。この守護・地頭が鎌倉幕府の全国支配の元になります。 >当初、幕府の発足は朝廷の望むところだったのでしょうか? 朝廷としては、武士を皇族貴族の手足として使い、農民を支配するのが理想だったのでしょう。鎌倉幕府滅亡後に後醍醐天皇は親王を征夷大将軍にして武士をその配下に置こうとします。 >その後の関わり合いを見ても、非公式な発足とはとても思えないですが。 >ともすれば、利害の一致があったわけであり、お互いどのような目的で、 権威はあるが実質的に支配する能力の無い朝廷と、武力を持った武家政権との妥協ないし、武力による脅しの結果です。 幕府が朝廷を抹殺しなかったのは、一武家である源氏のちには北条氏が他の武家を支配する理由付けとして外に権威を求めたためと思います。これは日本特有でもなく、中世ヨーロッパでのローマ教皇と各国王との関係、イスラム世界でのアッバース朝カリフ(マホメット後継者)とスルタン(軍事)政権との関係も同じでしょう。奈良・平安時代の藤原氏が天皇家に取って代わらなかったことも。 >共存体制をとり、それぞれどんな役割を担う事となったのか。 実質的な支配と、その支配の根拠となる伝統権威との分担です。

gloomy
質問者

お礼

とてもよくわかりました。 そうですね、ご紹介して頂いたような本を読めばより理解を深めらると思います。 この度は、懇切丁寧なご回答ありがとうございました。

その他の回答 (2)

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回答No.2

鎌倉時代前期は、東国を幕府が、西国を朝廷というか荘園を持つ貴族が支配していました。承久の変以降は幕府の支配が西国にも及ぶようになります。貴族支配下の荘園領主も相変わらず居る二重構造なので幕府配下の地頭との争いも発生しています。 ただ、幕府の権威は朝廷から征夷大将軍に任じられ、全国に幕府支配下の守護と地頭の設置を認められたためですから、承久の変でも、京都に攻め上る幕府軍の出発に際して、北条政子だったか義時だったかが、「朝廷側の武家は攻め滅ぼせ。しかし後鳥羽上皇が先頭に立って攻めてきたら降伏せよ」と言ったそうです。 これ以降、戦国時代まで朝廷は建武の新政の時期を除いては政治的な力を失います。都の中はともかく全国レベルで見ると象徴天皇に近いもので、鎌倉後期は幕府が次期天皇の人選にも口を出します(南北朝分裂の原因)。 建武の新政では後醍醐天皇が公家中心の天皇独裁に近い政治を行いますが失敗します。 戦国時代になると、室町幕府も力を失い、各地の大名は朝廷にお金を送り官職(国司など)を得ることで周囲の大名に対抗することになります。貧乏ながらも一時的に権威は高まります。朝廷以外には権威者が無いわけですから。信長も抗争相手と一時講和したい時には朝廷を金で使って調停させてますね。権威はあるけど金と権力が無い。 江戸時代になると幕府が禁中並公家諸法度を作り、幕府が朝廷内部の行動に干渉します。譲位を勧めたり譲位を認めなかったりと天皇位や公家の行動にも口を出します。反抗する天皇も出ますが、最後には抑えられます。 幕末は親幕府の孝明天皇の死後は薩長等の倒幕勢力が少年明治天皇を担いで幕府を倒します。ここでもお飾りです。 明治以降も絶対主義君主でなく、立憲君主制ですから象徴よりは強いとしても原則として直接政治は出来ません。(天皇に責任を負わせないため。決断が無ければ責任も無い) まとめると、鎌倉以降は実権は武家で、たまに朝廷と対立するが基本的には武家側が朝廷を抑えています。完全に抑えていた時期もあれば手を焼いていた時期もある。鎌倉以降で天皇が政治を行ったのは後醍醐天皇だけでしょう。 >幕府は兵をもっていなかったとか。 鎌倉幕府は御家人という東国武士の兵力がありました。 室町幕府は大名の連合体のようなものなので、幕府直轄の兵は鎌倉時代ほどは居なかったと思います。 >朝廷には兵はいたのでしょうか? 桓武天皇が東国征服を諦めた時点で朝廷の正規軍は九州の防人(対外防御)以外は廃止されます。残りは京都の警察程度。それ以降は有力武家に官位を与えて戦わせる方式ですね。負けても武家のせいにする。上皇の北面の武士というのもありましたが、上皇の私兵で国軍ではありません。 >力(権力、軍事力、財力)の違いもよくわかりません。 財力は承久の変までは西国の荘園からの収入があったでしょうが、それ以降は幕府から領地やお金を与えられ養ってもらっている感じだと思います。時期にもよりますが即位の礼も行えないとか、内裏が焼けても修復できないとか貧乏だったようです。戦国時代は幕府も無力なので遠国大名へ官位を売ってしのいでいた。戦国時代以外の武家の官位は幕府経由です。直接官位をもらった源義経は鎌倉政権への反逆者として討伐されました。 資料を見ずに大筋だけ書いたので細かいところは不正確もあると思います。岩波新書・中公新書・現代新書あたりでそれらしい題の本を探して1冊読むと随分わかると思いますよ。

gloomy
質問者

補足

丁寧なご回答ありがとうございます。 朝廷と幕府の関わり合いや確執、その変遷についてよくわかりました。 また、補足でお聞きしたいのですが、そもそも、朝廷と幕府という、 一国に統治機関が二つあるような複雑な状況になったのは何故なのでしょうか? 歴史的には、朝廷の方がずっと古くからありますよね? 朝廷という国の統治機関がありながら、何故幕府という機関が発足したのか。 他に統治機関がありながら、それに代わるわけでもなく、他の統治機関が 別に発足するというのは容易な事とは思えないのです。 当初、幕府の発足は朝廷の望むところだったのでしょうか? その後の関わり合いを見ても、非公式な発足とはとても思えないですが。 ともすれば、利害の一致があったわけであり、お互いどのような目的で、 共存体制をとり、それぞれどんな役割を担う事となったのか。 そのあたりのことをどうか教えてください。 よろしくお願いします。

回答No.1

間違っていたらごめんなさい。 朝廷は天皇が政治を行っていたところ。 源頼朝によって鎌倉幕府が開かれてより、武家政治に移り、天皇は象徴として祭り上げられ政治の権限を奪われました。 しかし、後醍醐帝のとき、天皇政治を取り戻そうと足利尊氏と戦いました。尊氏は後醍醐帝に対して別の天皇を立て、室町幕府による武家政治を主張しました。このとき、南朝と北朝という、天皇が二人同時にいるという、今ではちょっと考えられないようなことになっちゃったのね。 それが南北朝時代といわれるのですが、後に和解して、また一つの朝廷に戻りました。すでに朝廷には力なく、象徴としての存在だけになりました。 >戦国時代になるとまた違うのでしょうか? 室町幕府八代将軍、足利義政のころ、応仁の乱が起こり、それが戦国の始まりとされますが、戦国時代には、天皇は象徴であって政治の中心は武家、つまり幕府です。 >幕府は兵をもっていなかったとか 兵をもっていたのは主に幕府です。 朝廷の兵は青侍と呼ばれ、ただ朝廷の警護役程度でしかありませんでした。 >力(権力、軍事力、財力)の違いもよくわかりません 戦国時代になると、天皇は象徴的存在であって、軍事力、財力はありませんでした。権力については、ある種独特の権限は持っていたものの、それもまた象徴的存在であるということによるものでしかありません。 また、幕府もこの頃には力を無くして、いわゆる下克上の時代になります。 織田信長によって、ついに室町幕府は崩壊に至ります。 その後、徳川家康によって江戸幕府が開かれるまで、信長、秀吉による幕府の存在しない政治の時代があります。

gloomy
質問者

補足

ご回答ありがとうございます。 戦国時代突入の契機となった応仁の乱について、お恥ずかしながら詳しく知らないのですが、 そもそも、幕府の権威や権力が失墜した事が戦国時代の突入の原因なわけですよね? 他に朝廷という元来の統治機関がありながら、幕府の失墜をここぞとばかりに、 それに代わられなかったのは、やはり朝廷の力も失墜していたからでしょうか。 しかし、戦国時代にも、朝廷は財力と権力こそないものの、権威はあり、幕府からの 援助を受け、それに代わり官位を与えたりしていたわけですよね? 私の知識と理解力不足かもしれませんが、どうも両者の共存体制での政治についてしっくりこないのです。

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