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「天皇」の政治権力という観点からの位置づけについて
「天皇」について、大日本帝国憲法では、「大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス」と規定され、日本国憲法では、「日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であって、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く。」と規定されています。 知りたいことは3点あります。 (1) 大日本帝国憲法から、日本国憲法に移行することによって、「政治権力」という観点から、「天皇」の位置づけがどう変化したのでしょうか?「統治」と「象徴」という用語をどう理解し、どう運用されてきたのか?がポイントのような気がするのですが? (2) 両憲法で、「天皇」がともに「第1条」に位置づけられている意義・背景は何でしょうか?そこには、「明治政府の成立の背景」とか、「戦後の日本の方向性」といったことも想像できるのですが、何か日本人にとっては、「天皇とは何か?皇室とは何か?」という日本人の精神のにかかる根源があるような気がするのですが??? (3) 日本史の中で、「天皇の地位」が「政治権力」という観点から、最も高かった時代と、最も低かった時代はいつでしょうか?原因・理由も含めて教えて下さい。 恐らく、多くの考え方と膨大な資料があると想像します。膨大な資料を読みこなす力は、私にはありませんので、上記3点について、「あなたのお考えを披露していただきたい」という趣旨の質問です。なお、「お考えを披露していただきたい」という趣旨ですので、BAは選ばないで締め切らせていただきます。それでもよろしければ、ご回答をお願いいたします。
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- あずき なな(@azuki-7)
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>>天皇の人柄に感銘を受けたようです……といわれると、何だか東京裁判で、戦犯として処刑された方々がお気の毒のような気がしますし ・東京裁判は日本によって植民地を失った欧米による報復リンチです なので天皇の罪を問わなかった代わりに戦犯の方々を裁判で処刑したのです >>それに日本を統治するには天皇が必要だと考えたのも要因でしょう……といわれると、マッカーサーは「何故、天皇が必要だと考えるようになったのか???」という新たな疑問が湧いてきました。質問者が言うのも変ですが、私の質問の根源もここにあるような気がしてきました。 ・マッカーサーは日本人から手紙を色々貰ったりしましたし 来日した後の日本人を見て「この国の国民に言うことを聞かせるには天皇を生かしたままにする必要がある」と感じたらしいです 天皇を処刑すれば日本人が怒り 再びアメリカに対して戦争を起こす事を マッカーサーは懸念しました
- あずき なな(@azuki-7)
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>>(1)について 天皇主権国家から、国民主権国家に変わりました。……国家意思の最終決定権が、「天皇」にあったいうことであれば、それにもかかわらず、なぜ天皇は戦争責任を問われなかったのでしょうか???差し支えなければ、お考えを教えて下さい。 これはマッカーサーの一存です 天皇に会った彼はそれまで天皇の戦争責任を追及するつもりでしたが 天皇に会って考えが変わった 天皇の人柄に感銘を受けたようです それに日本を統治するには天皇が必要だと考えたのも要因でしょう
お礼
ご回答ありがとうございました。 歴史には詳しくないので、「マッカーサーの一存」といわれれば、「はぁ、そうですか。よく分かりました。と答えざるを得ないのですが、 天皇の人柄に感銘を受けたようです……といわれると、何だか東京裁判で、戦犯として処刑された方々がお気の毒のような気がしますし、 それに日本を統治するには天皇が必要だと考えたのも要因でしょう……といわれると、マッカーサーは「何故、天皇が必要だと考えるようになったのか???」という新たな疑問が湧いてきました。質問者が言うのも変ですが、私の質問の根源もここにあるような気がしてきました。
- IXTYS
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こんにちは。 とても良い質問です。 既に三人の方がそれぞれ立派な回答をなさっています。 ●1 明治憲法と昭和憲法における天皇の立場 明治憲法は『欽定憲法』と言って時の天皇が国民に対し国の在り方を示し、国民に数々の権利義務を定めて与える。 これが『欽定憲法』です。 天皇様が憲法を定めて我々国民に与え下さる。 ありがたくお受けせよ。 これが趣旨です。 一方の戦後定められた新憲法では天皇は君臨すれど統治せず。 日本国は立憲君主国であり、天皇が君主の立場にありますが、まったく政治的な権能はありません。 国民統合の象徴に過ぎません。 ●2 天皇は両憲法とも第一条に定められている意義 明治憲法では主権は天皇にあり、国民は臣民として天皇にお仕えする旨定めた故。 新憲法では主権は国民にあり、その国民統合の象徴として天皇があることを定めたためです。 ●3-1 天皇の力が最も強かったのは 天皇親政であった平安初期、桓武天皇の時代でしょう。 ●3-2 最も弱かったのは 江戸時代、徳川幕府は公家諸法度を定め、 天皇家を一万石に押さえています。 財政的に貧しく御所に寒風が吹き荒れ障子は破れ放題だったと記されています。 幕末に登場する孝明天皇の嫡子である祐宮親王は年中風邪気味で病弱だった由。 これが明治二年颯爽と白馬に跨り、江戸城に入場されます。 六尺近い大男に大変身。 これがあの『鼻垂れ』だった祐宮親王?
お礼
ご回答ありがとうございました。 ●1 について 特徴を理解するのに、分かりやすい説明だと感じました。 これがあの『鼻垂れ』だった祐宮親王?……(*^_^*)いろいろなエピソードがあるようですね。
- hekiyu2
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(1) 大日本帝国憲法から、日本国憲法に移行することによって、「政治権力」という観点から、 「天皇」の位置づけがどう変化したのでしょうか? 「統治」と「象徴」という用語をどう理解し、 どう運用されてきたのか?がポイントのような気がするのですが? ↑ 天皇主権国家から、国民主権国家に 変わりました。 ちなみに、主権とは、国家意思の最終決定権が どこにあるか、という問題です。 それが、天皇から国民に変わった、ということです。 (2) 両憲法で、「天皇」がともに「第1条」に位置づけられている意義・背景は何でしょうか? そこには、「明治政府の成立の背景」とか、「戦後の日本の方向性」といったことも想像できるのですが、 何か日本人にとっては、「天皇とは何か?皇室とは何か?」 という日本人の精神のにかかる根源があるような気がするのですが??? ↑ 憲法というのはその国のあり方、形を示す ものです。 天皇の存在は、日本の特徴そのものだからです。 (3) 日本史の中で、「天皇の地位」が「政治権力」という観点から、 最も高かった時代と、最も低かった時代はいつでしょうか? 原因・理由も含めて教えて下さい。 ↑ 壬申の乱の時期が一番強かったと思います。 白村江の戦いでぼろ負けしたため、中央集権を やり、天皇に権力を集中させました。 低いのは現在でしょう。 憲法には色々と天皇の権能が規定されていますが、 総て形式なものに過ぎません。 江戸時代も低かったですが、それでも徳川幕府は 天皇から位を授かることを、非常に重要視して いました。
お礼
ご回答ありがとうございました。 (1)について 天皇主権国家から、国民主権国家に変わりました。……国家意思の最終決定権が、「天皇」にあったいうことであれば、それにもかかわらず、なぜ天皇は戦争責任を問われなかったのでしょうか???差し支えなければ、お考えを教えて下さい。
- eroero4649
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1 天皇を「最高権力者」とすることを日本国憲法では外したということでしょうね。実際のところ、大日本帝国憲法下でも天皇は名目上の最高権力者であるにも関わらずその権力の行使はできませんでした。 その象徴が二二六事件です。大日本帝国憲法下では軍は統帥権といって天皇は内閣を介さずに直接の権力を持っていることになります。二二六事件を聞いた昭和天皇は大激怒して「朕自ら一軍を率い、奸賊を撃たん」とまでいったのです。自分が近衛師団を率いて反乱軍を鎮圧するっていいだしたのです。 周囲は慌てに慌てて「いや、そんな前例はありませんから」とかなんとかいって鎮めたんですね。またその後に日米開戦を決めるはずだった御前会議で「発言する」と言い出して周囲を大慌てさせたこともあります。それまで御前会議で天皇が発言するという前例がなかったからです。 「権力が振るえないのに、責任者っていうのもおかしくね?」という至極全うなことなのだと思いますよ。 2 いわゆる「国体」ってやつですね。終戦にあたっても日本政府が死ぬほどこだわったのが「国体の護持」です。しかしこの「国体」ってなんなんや、なぜ「天皇制」という言葉じゃなくて「国体」って言葉なのか、とか考えて議論したらそれで十分本が書けてしまうと思うので、国体の正体については今回は議論を避けたいと思います。 3 最も天皇自身の権力が低かったのは、おそらく平安時代だったと思います。権力を使う理由もありませんでしたからね。政治の面倒くさいことは全て藤原一族がやっていて、その頃は天皇自身もだいたい藤原家の出身で、あとはいわれたことをこなせばいいだけでしたからね。 むしろ後醍醐天皇みたいに、黙って椅子に座ってればいいものを「俺は天皇なんだからさー、俺が権力振るいたいじゃん?」と言い出す人が出てくると世の中が乱れます。 私が知る限り、日本史を卑弥呼の時代から紐解いても「天皇が自ら軍を率いて戦いに勝利した」って聞いたことがないのですよね。だいたいどこの帝国でも、創業者くらいは戦場を駆けずり回っていますからね。 「邪馬台国はどこにあるか論争」というのはご存知だと思いますが、近年最も有力視されているのが纏向遺跡です。で、もし邪馬台国が纏向遺跡だったとすると大変に興味深いのです。なぜなら纏向遺跡は全国の様々な土器などが出土しているからです。どうも「国際都市」だったぽいんですね。 そこから推測できるのは、邪馬台国は全国の国々を支配したトップの支配国ではなく、今でいうなら国連のような存在だったのではないかということです。そうすると卑弥呼も女帝というより、国連事務総長みたいな立場だったのではないかという説も出ています。 非常に興味深いと思いませんか。もしそうなら、日本史上最古に登場する人物も実際の権力者ではなく、象徴の存在にしか過ぎなかったということになりますからね。
お礼
ご回答ありがとうございました。 1について 大日本帝国憲法下でも天皇は名目上の最高権力者であるにも関わらずその権力の行使はできませんでした。……ということであれば、「統治」とか「象徴」といった文字面にこだわる必要もないということですかねぇ。その方がすんなり理解できるような気もします。(*^_^*) 昭和天皇が戦争責任を問われなかったのも、この辺の理由があるのでしょうかねぇ??? 2について いわゆる「国体」ってやつですね。……「国体」ですか。なるほど。分かるような気がします。まったく思いつきませんでした。良く分からんけど、一言で表現すれば、「それが国体というものだ。」という感じですかねぇ。(*^_^*) 3について 邪馬台国といえば、先日、福岡県の赤村(たしか戦後の時代にも電気もないド田舎、西川峰子の郷里という記憶が残っています。)という所で、卑弥呼の墓でないか???というのが、ネットのニュースになっていました。(*^_^*)相手にされてない向きもあるようですが、やはり、邪馬台国は「大和」ですかねぇ。
- nekosuke16
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維新の動乱を契機に、京都に270年にも及ぶ長きに亘って閉じ込められていた中で、突然担ぎ出された天皇でしたが、その威光は思いのほか強力であり、結果、大政奉還に至る直接的な原動力となった。 明治以降、天皇は政権の中枢にあり、常に政治、軍事に直接的に関わり、その権限は大日本帝国憲法による「大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス」の文言度通りに実行され、その威光と体制は、太平洋戦争終結、敗戦に至るまで継続している。 その天皇による決断の影響力が最も如実に表れていることが、敗戦濃厚となった1945年の東京大空襲から沖縄戦、広島、長崎の原爆に至る時系列の中で、常に最後の「成果」を求め続けていたこと。 この天皇の敗戦を認めない姿勢、決断こそが、国内戦での甚大な被害の元凶になっている。 こうした経緯を踏まえて、戦後の日本国憲法の中に、改めて、「日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であって、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く。」という規定を設けることになる。 (1)政治権力という観点からの天皇の位置づけについては、当初、占領軍のマッカーサーが抱いていた天皇像に対して、会見時の天皇の言葉や、日本に駐留する中で、刻々と変化する日本という国と天皇との関係性の認識に変化がもたらされ、それは「天皇を最大の戦犯として殺してしまえ」から「天皇に決して手を掛けてはならない」というほどにまで変化している。 日本国憲法への移行は、ホイットニー(だったかな)によるアメリカ案を原案として取り上げ、旧態依然とした日本案が却下のうえ作成されたのは周知の事実ですが、その中の戦争を含めた天皇の政治権力については、その強大さからも文言から外されたものの、天皇を敗戦国日本の未来のために必要不可欠な存在として象徴というかたちで残すことにしたということでしょう。 (2)、「天皇」がともに「第1条」に位置づけられている意義・背景、何か日本人にとっては、「天皇とは何か?皇室とは何か?」という日本人の精神のにかかる根源があるような マッカーサーが自らの目で見て「天皇」という文言を新憲法に記載する判断を余儀なくされた日本人と天皇との関わり合いの中で、国民の天皇に対する眼差しを考えると、その実態がよく理解できると思います。 現実には、天皇と国民との関わり合いというものは江戸時代以前、明治以降に至っても殆ど無かったと言ってよいと思います。 大久保利通あたりの方策によって行われた各地の巡幸や当時最新の写真技術によって、天皇の存在を国民に知らしめ、教育勅語などの政策を通じて、さらに天皇と国民との距離感を縮める中で、徐々に天皇というものを公の場に登場させ、初めて、天皇と国民との関連性を構築していく。 そうした経緯を踏まえて、大政奉還から新しい国家像を構築する最大のシンボルとして明治天皇が登場する。 優れた指導力を持つ明治天皇から、大正、昭和天皇に掛けての時代変化の中で、さらに日本人と天皇の関係性は、特に戦争を契機に日章旗を手に「天皇陛下万歳」ではないですが、さらに求心力として日本人の精神にまで浸透していくことになります。 現在の感覚では理解しがたいことかもしれませんが、敗戦時皇居の前で自決する人々は勿論のこと、最も天皇に対する日本人の感覚が現れていたものが、戦後の1946年から1954年に至る長期間に行われた全国巡幸。 天皇が全国各地に訪れる中で、その状況は常に歓迎ムードの嵐であり、唯一近畿巡幸で京大学生が抵抗したことを除いては皆無であったという。 敗戦の指導者、成果を求めて戦争終結を遅らせた天皇ではあっても、日本という国における天皇との国民との精神的な結びつきは、マッカーサーの判断通りのものであったと言えるのでしょうね。 また、現在に至って尚、全国の地震などの災害による被災者を訪問する際も、とくにお年寄りなどが天皇に対して手を合わせる光景には、昭和時代の国民の天皇に対する精神が最もよく現れている。 明治に大久保らが日本という国家像を構築するために、そのシンボルとしての天皇の存在を国民に知らしめなければならなかった時代から、大正、昭和を経て、まさに見事なまでに天皇の存在は日本人の精神論の中枢にまで影響を及ぼしていたのだと思いますよ。 (3)日本史の中で、「天皇の地位」が「政治権力」という観点から、最も高かった時代と、最も低かった時代はいつでしょうか? 最も高かった時代 日本という言葉を初めて用いた天武天皇の時代は、確かに歴史年表上では、その存在は認められても、あくまでも、近畿界隈の国家以前の段階であり、平家や源氏などの武家の登場からは、武力の面からも天皇の存在は無視、さらに後醍醐天皇などの時代に至ってまだまだ国家観すらない。 戦国から、江戸時代以降の天皇は、もはや、京都に押し込められた幽閉同様の状態であり、そう考えるとき、内外の状況を考慮して自らの指導力を発揮したという点では明治天皇。 昭和天皇については、御前会議において基本的には何も語らなかった筈ですが、その意向を、取り巻き大臣クラスが忖度していたことが多い。 とくにA級戦犯で絞首刑となった東条英機などは、最も従順な天皇信奉者として有名。 最も低かった時代は、先述の通り江戸時代でしょうね。 あくまでも、過去に読んだ本の記憶を辿りながらのものであり、間違いだらけも許されたい。
お礼
ご回答ありがとうございました。 この天皇の敗戦を認めない姿勢、決断こそが、国内戦での甚大な被害の元凶になっている。……そうだったのですか。にもかかわらず、何故昭和天皇は戦争責任を問われなかったのでしょうか??? (1)について 天皇を敗戦国日本の未来のために必要不可欠な存在として象徴というかたちで残すことにした……なぜこのような結論に至ったのでしょうかねぇ??? (2)について ご説明は良く分かりました。江戸以前と明治以降の天皇と国民との関係も理解できますし、戦後の天皇の国民の姿については、私も同感です。ただ、明治維新から、敗戦までの70年間の歴史で「第1条」に位置づけられたこと説明するのは難しいのではないか???という気がしています。 まさに、「天皇とは何か?皇室とは何か?」という日本人の精神のにかかる根源があるようなという疑問です。それとも、やはり明治以降に形成された「偶像」なのでしょうか???ということです。 (3)について 昭和天皇については、御前会議において基本的には何も語らなかった筈ですが、その意向を、取り巻き大臣クラスが忖度していたことが多い。……戦争が長引いたのは、「忖度」の結果だったのでしょうか???
お礼
再度ご回答いただきありがとうございました。 天皇の罪を問わなかった代わりに戦犯の方々を裁判で処刑したのです……そうだったのですか。「天皇の罪を問わなかった代わりに」というのは初めて知りました。当時の欧米には、「命は平等」という考え方はなかったのですね。ますます、戦犯として処刑された方々がお気の毒になりました。ついつい廣田弘毅のことなんかを思い浮かべて涙が出てきます。 天皇を処刑すれば日本人が怒り 再びアメリカに対して戦争を起こす事をマッカーサーは懸念しました……陛下の処遇をどうするかという問題は別にしても、太平洋戦争における各地での激戦や憲法9条のことを考えると、米国の懸念というのも分かるような気もします。