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日本の歴史で朝廷はなぜ残り続けたのですか?
学説や細かい歴史について詳しくないため、中学社会の延長での本当に基本的なご回答で構いません。宜しくお願い致します。 諸説あるかと思いますが、もともとは強い豪族や支配者によって古代に天皇が作られたかと思います。 その後、武家社会や戦国時代など1000年以上も力の強い者が弱い者を支配する世の中が続き、支配者も二転三転したにも関わらず、直接的に軍事力が高かったわけではない天皇(朝廷)が残り続け、影響力を保ち続けた(王政復古まで)のはどうしてなのでしょうか? 常に勝ち馬に乗り続けたのか、それとも権力争いをする者達にも天皇=神と信じていたため天皇を支配するという考えはなかったのでしょうか? 宜しくお願い致します。
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天皇家は元々地方豪族(この頃に豪族という呼び名はありませんが)の一つでした。やがて彼らは天照大神と言う神の直系として地域を束ね、やがて日本の統治に乗り出しました。 武士(平家や源氏)も元は貴族であり、天皇を守護する立場です。貴族や武士はやがて天皇の統治のために日本のほとんどを制圧しました。尚且つ勢力争いの中で天皇家の血筋に近づく為に、より近い縁戚関係を結ぼうと画策しました。 天皇家自体も血脈を絶やさない為に多くの子孫が生まれ、貴族や武士の天皇家との繋がり(家系)はこのようにして築かれてきたのです。 日本の統治は天皇家を頂点とした天皇家由来の支配者とその他の豪族(家臣)によって構成されています。そして平氏滅亡後は支配者は基本的に源氏の家系が治めるようになりました。 地方豪族もより天皇家に近い血筋を持ちたいと、当初は血縁によって、後には家系の売買さえ行なわれるようになりました。 秀吉が関白の地位を得るために家系を創った事は有名な逸話ですし、信長の祖先が平氏を名乗り、信長自身も藤氏であるため、源氏系である家康を厚遇したという説もあります。 更に武士の頂点である幕府を開く資格も、基本的には源氏の流れを持つものに限られました。幕府を開く許可を与えるのは天皇であり、幕府は本来天皇を守護する武士団の長ですから、第一に天皇家安泰を考えるのは当然です。 武士の世界といえど、武士は天皇擁護のための組織である事は日本国中の武士が自覚しており、天皇を排斥しようとする者は排斥されるし、戦っても他の武士の助力を得られない事になるのです。 歴史のなかでは度々天皇家に対抗したり、懐柔しようとする者が現れましたが、徳川家でさえ完全な全武士団の賛同と助力を取り付けることは出来ず、中途半端に終わっています。 最後に天皇を担ぎ出したのは薩長軍で、当初は天皇家の許しを得られなかったものの、勝手に天皇家の御旗を掲げて幕府軍を朝的として討伐しました。戦況の有利を得て、天皇も正式に薩長軍を認めたのです。とは言ってもこれは、朝廷の貴族が押したために天皇も認めざるを得なかったのでしょう。 これも、武士が天皇の臣下である事を武士社会全体が自覚していたから成し得たのです。
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- gichou
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源頼朝が幕府を開いて、政権が公家から、武家に移っていらい、朝廷が日本全体の政治を行うことはありません。まあ、明治政府の始め、官僚内閣制が出来るまで、一応トップは天皇ということになっています。それを、「天皇が政治を行っていた」というのであれば、話は違いますが。 戦国時代においては、自国が他国に攻め入るためには、口実というものが必要です。「相手が悪い。だから、アイツを倒す」と言うことを、自分以外の機関に言ってもらって、正当性を身につけたいのです。そこで、朝廷というものは、万人が認める公的な機関ですから、朝廷に媚を売って利用しようとしています。というより、朝廷をないがしろにすると、他国の人間が、それを口実に包囲網を作るきっかけになり得ますから、朝廷にだけは皆、いい顔をしていたのです。 その他の武家社会でもそうでしょう。朝廷と対立すると、自分の支配体制が脆くなってしまう。実際に、幕末も、結果的に、朝廷が倒幕をしろっていう詔を出します。(その、数年前には幕府の反逆者を倒せ、という詔をだしていたようですが・・・) 常に勝ち馬に乗り続けた・・・ 言い方を変えれば、勝ち馬になった人間が朝廷・天皇の存在を利用したのでしょう
- nktn0108
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摂関政治以前は天皇が直接政治をしています。おそらく中央にそれほど大きな氏族がいなかったためです。また白村江の戦いでは皇族が戦闘の指揮をとっています。摂関政治のあたりから武士がでてきます。このあたりから戦闘力はもっていません。反乱の討伐は地方武士にさせています。承久の乱では天皇に味方する武士の反乱ととって天皇は譲位や京よりの追放という形をとったのかなと思います。 足利尊氏は新たに天皇をたてなければ地方の武士の統制がままならなかったのではないかと思います。最終的に天皇という地位以外はあきらめたのではないかと思います。
- Tacosan
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「貴種」として天皇 (とその血筋) を使ったために, 「天皇家をつぶすわけにはいかなかった」という事情もあるとか. 例えば, 源氏が東国武士の棟梁として支配していったのも, 理由の 1つとして「源氏は天皇につながる尊い血筋である」ということがあります. で, 鎌倉幕府でも源氏の将軍が 3代で潰えると藤原氏から出したり皇族から出ていたりしますが, これも「名目だけでも皇族や藤原氏といった『えらい身分の人』から将軍を出そう」という意識があったようです. 「承久の乱」のときは本当に「天皇家の危機」になりましたが, このときもアクロバティックな方法でつなげています. 「どこの馬の骨とも知れない」北条氏が, 天皇の威光を使うために残したって感じですね.
- googahaku
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天皇が山城地方の一豪族であった時代はともかく、その後の歴史の流れの中で「君臨すれども統治せず」、政治に直接かかわらなかったのが長く続いた最大の理由でしょう。 近世・近代に至っては「宗教的な存在」となり、一層政治からはなれた。明治維新の「王政復古」という言葉は少しおかしいと思います。 新憲法でわざわざ「象徴」といわなくても、もともとそういう存在でだったのです。 戦後、戦争責任が問われず、生き残ることが出来たのも政治にはかかわってこなかった、と判断されたからです。 また、日本の天皇は必然的に中国の皇帝やヨーロッパの王と違って私有財産の拡大を目指さず(許さず)「私」を滅殺してきたところも敵を作らなかった理由と思われます。 私に知る昭和天皇や、今上天皇、皇太子 など、皇室の方々の「滅私ぶり」には哀れささえ感じるほどです。 一部にとかく言う人はあっても、国民の大半は日本の歴史・文化・伝統への誇りの象徴として、理屈ぬきで特別な尊敬を払っていることは明白な事実です。 武力で守るのではなく、国民全般のこんな思いが、これからも皇室の存在を守っていくのでしょう。
元皇族家 竹田恒泰氏の「語られなかった皇族たちの真実・・・皇室が2000年続いた理由」という本のなかに、次のような記述があります。 高松宮の話:「皇族というのは国民に護ってもらっているんだから、過剰な警備は必要ない。堀をめぐらして城壁を構えて、大々的に警護しなければならないような皇室なら、何百年も前に滅んでいるよ。」 竹田氏の説明:天皇は政治に関与せず、主な役割は民の幸せを願うことにあった。天皇に「私」はなく、民全体の幸せのためにあり続けた。そのことは、世界中の王宮が贅沢の極みであることと、京都御所が質素の極みであることを比較すればよくわかる。 >もともとは強い豪族や支配者によって古代に天皇が作られた・・・その通りと思います。古代は天皇自身が有力な豪族を配下にして、強い軍事力を保持していました。 >常に勝ち馬に乗り続けたのか、それとも権力争いをする者達にも天皇=神と信じていたため天皇を支配するという考えはなかったのでしょうか?・・・どちらかといえば、「常に勝ち馬」の方だと思います。 中国やヨーロッパでもそうですが、」日本人にはとくに血筋を重んじる傾向があります。 普通の家でも、三代続けて傑物が出てその家が隆盛を誇るようになれば、四代目も下々から尊敬されます。四代目は経営などの俗事は家来にまかせ、自分は祭祀や慈善事業をやるようになり、豪腕で脂ぎった顔付きの初代などに比べ、四代目の顔付きも上品になってきて、悪口を言う人はいなくなります。 天皇家もそんなものだと思います。権威(エラサ、尊さ)だけで、権力を持たなかったのが2000年も続いた最大の原因でしょう。 将軍や執権などの権力者は、天皇の権威を利用して政を行いました。天皇の命令があったということにして、自分のしたいことをしたわけです。もし、将軍や執権などの権力者が、天皇を滅ぼして自分が天皇になったら、すぐにライバルに攻撃され、いずれ倒されてしまいます。 明治時代に、ある皇族の妃が「こんなに政治に深入りしていいのかしら、こんなことをしていたら、皇室も長続きしないのではないのでは。」と、心配していたそうです。西洋の王室の例をよく知っておられたのでしょうね。
- cyototu
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日本は、中央集権国家ではなくて、それの対局にある封建国家だったからでしょう。ときの軍事最強者が実権を握ったとしても、残りの豪族が纏まってしまったら敵いませんでした。#1さんもおっしゃって居りますように、軍事的に日本を中央集権国家にすることが出来るのは唯一信長だったのですが、光秀に暗殺されてしまいました。 このように、皆が団栗の背比べの場合には、自分が天皇に代わって王になるりも、実権を持たない天皇をお飾りして、そこから王の王としての権威をお借りするという形で、バランスの上に立った封建国家という巧妙な制度にしておいた方が、残りの豪族も納得し易くなります。 天皇家を戴いた日本独特の封建制度は、人間の平等、私有財産の認識など、近代国家に無くてはならない基本的な概念を、外国に教わること無く日本人に認識させてくれた点で、非西欧国で日本だけが何故近代化に成功したかを説明してくれています。 西欧では、もともとその正当化の根拠がはっきりしない「平等」の概念を正当化をするために「神の下の平等」という、まるで無意味な理屈を導入しましたが、日本では天皇を神格化することによって、西欧人とちょうど同じような理屈で「天皇の下の平等」という感覚が脳みその奥まで染み付いております。ですから、将軍と言えども天皇から見れば一介の私人であると考えられておりました。天皇からのお墨付きがなくなると、他の豪族達と対等になってしまい、その結果、無駄な血を流すこと無く大政奉還が出来るようになっております。 また、封建制度のお陰で、原則的には各豪族に土地の所有権、すなわち、私有財産権が認められておりました。将軍家と言えども、他の豪族集団の顔色を伺わないと、そう簡単にはお家断絶は出来なかったはずです。 因に、人類史で憲法の中で最初に「私有財産権」を認めることを成文化したのは日本の鎌倉時代の貞永式目だそうです。その当時は勿論私有財産権とはいわず、「本領安堵」と言っておりました。西欧諸国がこれを成文化するのは日本より数百年も後のことです。もし日本が、その当時の他の非西欧国のように中央集権国家だったら、そうはいかなかったはずであり、私有財産権の重要さに気付くのに時間がかかったり、外国から教わらなくてはならなかったはずです。その結果,日本の近代化も随分遅れたはずです。 こうして見ると、日本人にとっては、天皇様々であり、また、天皇家にとっては、光秀様々ですね。日本人は、乃木神社ばかりでなく、光秀神社もお祭りして、光秀神を風下の置くようなことはしないほうが良いと持って居ります。さもないと光秀の祟りでて天皇家御断絶になり、日本人の平等意識も無くなりかねないと思います。その反対に、光秀様をお祭りすれば、天神様と同じように過去には恐ろしい祟りをした神様でも、ご機嫌を直して家内安全や大学受験などに役に立つ神様になって頂けと思いますが、どうでしょうか。 寡聞にて知らないのですが、もしかしたら土地の人達は「明智神社」として既にお祭りしているかも知れませんね。もしそうでしたら、土地の人ありがとう。国民に代ってお礼を申し上げます。 伊勢神宮に行き損なった東行法師が、天皇家および光秀の有り難味が分からなくなった愚民どもを哀しみて詠める、 なにものの おわしますかは 知らねども なさけのなさに 涙こぼるる
- eroero1919
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それは天皇家が「実より名を取った」からだと思います。天皇家は、時の実力者に「権力のお墨付き」を与えることによって自らの存在意義を見出したのです。これならば、自らが権力を手に入れられない反面、実力がないゆえに時の実力者にとって危険な存在とはなりえません。 一方、実力者にとってもそれは都合がいいことです。天皇家からお墨付きを与えられることによって「公式権力者」として認められることとなります。ヘタに天皇家を潰すとその代替権威を作り上げるのが大変です。それより「使えるものを使いまわしたほうがおトク」です。 これは現代日本でもしばしば見られます。多くの歴史ある企業では創業者の一族が名誉的な役職についています。会社内で本当に権力を持っている人たちは創業者一族を追い出すより名誉職に置いて利用したほうがことが荒立ちません。また創業者一族にとってもヘタに権力を取り戻すより「飼い殺し」に甘んじていれば路頭に迷う心配はありません。
- tanuki4u
- ベストアンサー率33% (2764/8360)
日本の天皇を特殊なものとしてでなく、世界史的な視野で「王」として考えると、理解しやすい。 王には二つの側面があります。 統治的な王 司祭的な王 統治的な王は、今で言えば、アメリカ合衆国大統領のように、その時ベストな人物がなるというようになりやすい。日本でも、藤原氏が摂関として支配者になったり、幕府とか実際の統治をする家系に変更されやすい。 ところが、司祭的な王というのは、言い換えると「僕らは、同じ国(祖先を同じくする集合体)だよね!」と信じるための存在です。なので、「違う国、違う集合体だ!」という考えにならないと、変更いにくい存在になります。 西洋史で言えば、フランク王国は、メロヴィング朝からカロヴィング朝に変わるわけですが、カロヴィング朝が継承するまでに、100年かかっています。その間ずっと、南部からはイスラム勢力の圧力という軍事的緊張が続きました。アッバーズ朝も、実権が無くなっても非イスラムであるモンゴル帝国がやってくるまでは存続し続けました。 つまり、諸外国の王は、外部からの強い軍事的緊張などで「もう、今までの 国 として考えない方がいいじゃないの?でないと、滅んじゃうよ」と合意が成立しない限り、なかなか打ち倒すことは難しい。 内陸部で外部との交渉が少なかったエチオピアの王朝が長続きしたり、同様にイギリスの王朝が、ノルマンコンクエスト以降、形式上は簒奪されていないことからも推測されます。 日本は、本格的な外部勢力の進入もなければ、長期の外部勢力との軍事的緊張関係もなかったので、結果的に天皇は生き残ったということではないでしょうか。
実質、律令国家は上手く機能していたのです。 氏と言う恩を与えたのです。 氏を貰えば家柄を貰うも同じ。努力次第では天皇の次に 偉い職務まで就けます。 つまり、社員は社長にはなれないが、副社長までは努力次第なのです。 いくら徳川家康とて、天皇を殺し、全ての大名を敵に回して勝てる戦力を持ってはいません。 逆に言えば、全員が逆らえば負けるのです。 この状態は、戦国時代から続いているのではないでしょうか? これらに、臣下の礼をさせるには征夷大将軍と言う 官位がどうしても必要です。 源頼朝の追討の院宣を義経に与えましたが、頼朝は大軍を率いて京に上ります。義経は戦わず西国に逃亡します。 天皇は、頼朝の追討の院宣を取り下げ、義経討伐の院宣を頼朝に与えます。 脅す事はあっても、実質殺すつもりは無かったのでしょう。 源氏姓の恩もあります。 実質は、天皇方の勢力でもあります。 それ以降、執権と言う、架空の、官位頼りの政治が始まります。 ここから、慣わしが定着したと考えます。
- j_nishiz
- ベストアンサー率26% (183/697)
自分が天皇になろうとした武士、分かっているのは2人。 足利義満 ・・息子を天皇にし、自らは院政を施こうとしたらしい。 織田信長 ・・将軍を追い出した後、次は天皇も、と思ってたらしい。 以上は、「逆説の日本史」読んだ記憶からです。 天皇=神、と信じたというより、武家間の争いに「錦の御旗」を貰ってその権威を利用しようと考えた人が多かったのでしょう。 ちなみに、徳川家康は、自ら日光東照宮に神として君臨し、東国の「天皇」となるつもりだったようです。