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仲恭天皇の「廃帝」は誰のどのような権限によって正当化されたのですか?

いくら実際の権力を幕府・北条氏が握っていたといっても、 当時の武家政権の権力は天皇家による正統化を必要としていたし、 だからこそ天皇制を存続しての二重支配が行われていたのだと思うのですが 承久の乱の戦後処理において、仲恭天皇の廃帝はどのような理由づけで可能だったのでしょうか。 wikipediaではありますが >泰時は途中で鎌倉へ引き返し、天皇が自ら兵を率いた場合の対処を義時に尋ねた。義時は「天皇には弓は引けぬ、ただちに鎧を脱いで、弓の弦を切って降伏せよ。そうでないなら力の限り戦え」と命じたと言われる。 という事も書かれていていますし、 弓は引けぬが退位はさせられるというのは非常に不思議に思えたので、質問しました。

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  • km4512
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回答No.5

6月14日 鎌倉幕府軍が宇治勢多合戦で後鳥羽院軍に勝利する。 6月15日 幕府軍が入京(六波羅)する。 6月16日 幕府軍総大将北条泰時・時房が六波羅館に入る。(六波羅探題の初代) 6月20日 後鳥羽院が高陽院(合戦時の総司令部・仲恭天皇皇居)から四辻殿に移る。 6月23日 北条泰時飛脚が鎌倉に着き、合戦勝利を告げる。次いで、京都の処分を決定(大江広元が事記を起案)。 6月24日 京都処分事書を帯び、執権北条義時の直の明を受け、安東光成(義時家人)が京都へと出発する。 6月29日 安東光成が入京する。 7月1日 合戦の張本人の公卿以下を断罪にすべき宣旨が出される。 7月6日 後鳥羽院が四辻殿から鳥羽殿に移る。(出京―形式的にも治天の君の停止) 7月8日 持明院入道守貞親王(後高倉院)が治天の君となる。また、摂政九条道家(仲恭天皇叔父)を更迭し、近衛家実を摂政とし、同時に、後鳥羽院が落飾する。 7月9日 持明院二宮(茂仁)が践祚し、後堀河天皇となる。先帝(仲恭天皇)は高陽院から九条院に移り、新帝は持明院殿から閑院皇居に移る。 7月13日 後鳥羽院が隠岐島へと配流になる。 以上が、幕府軍勝利から後鳥羽院配流までの流れです。 この時代、天皇の廃立権は天皇家の家長である治天の君にありました。しかし、治天の君は国家官制として法定化されたものではなく、慣例として置かれたものです。平清盛は、1179(治承3)年、治天の君後白河院を幽閉し権限を剥奪し、高倉天皇(後白河院皇子)の親政とし、翌年に、孫言仁親王を践祚させ、安徳天皇とし、譲位した父高倉院を治天の君としました。もちろんこれらの一連の清盛の行為は平家の軍事力による強制的なものです。 すなわち、幕府はこの先例をさらに強硬に拡大解釈して実行したものです。まず治天の君を更迭し、そして新治天の君の権限で新天皇を立てたのです。合戦の勝利者が鎌倉幕府で、敗者が京都朝廷である以上、敗者はこれを受けいらざるをえないのです。 なお、仲恭天皇は践祚していますが、正式の天皇になるには大嘗会(11月)・即位式(践祚翌年)を経る必要がありますが、仲恭天皇は7月退位で、これらを行っていないので、半帝なのです。

noname#82077
質問者

お礼

・治天の君の権限という名のもとで新天皇をたてる という形で、一応の形式を整えてはいるのですね。 後高倉院が天皇を経ずに太上天皇となった、というのも大変興味深いです。 大変詳しいご説明、ありがとうございました。

その他の回答 (4)

  • cobamax
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回答No.4

NO1です、 廃帝になる場合の理由はさまざまですが、即位した年齢が異常に幼い場合があります、代表例 「仲恭」 「安徳」 つまりこの即位になんらかの不純な動機が裏にあるため即位も「形式的」なもので 裏であやつった「後鳥羽」「清盛」の権力闘争の道具にされたよういです、「仲恭」は4歳でしたが、「安徳」は2歳でした、闘争の結果 敗れた側の幼い天皇は当然廃位となりました、(廃位前に後鳥羽院 が即位し一次期二人天皇の時があり最終的には入水しました) いずれにしても幼い幼児、あわれなことですね 廃帝だけをしらべてもなかなか面白いですよ

  • Tacosan
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回答No.3

あ, すみません, #2 はちょっと微妙です. これは「歴代天皇・元号事典」という本の後堀川天皇の項を参考にしたんですが, 同じ本の後高倉院の項では「8月に太上天皇を奉った」とあります. こっちをとると, 時間的におかしなことになります. 担当者が違うことでくいちがったんでしょうが, なんとかしてほしかった.... ついでにいえば「4月に即位, 7月に退位」だと大嘗祭をやってる時間はありません.

  • Tacosan
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回答No.2

時間的には, 承久の乱を収めたあと, まず後鳥羽院の院政を停止し, そののちに守貞親王を後高倉院として院政をはじめさせたあとで仲恭天皇を廃しているようです (後高倉院の院政開始が 7月8日, 仲恭天皇を廃したのが 7月9日). ということで, 非常に変則的ではありますが (幕府の指示による) 後高倉院の院宣という可能性があります.

noname#82077
質問者

お礼

なるほど!一日違いだなんて、いかにも関係がありそうですね。 皇位につくことなく治天の君になった人がいるというのも知りませんでした。 ご回答ありがとうございました。

  • cobamax
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回答No.1

まず前提として仲恭天皇は当時の歴史では天皇として認められていなかったことです、つまり承久の乱で倒幕を行う準備の一環として後鳥羽上皇と順徳院より4歳で譲位(形式的譲位であり即位式 大嘗祭などは一切行われなかった)されたのですが、この乱は幕府の権限が強くなりすぎ、朝廷がその権限を取り戻すため途中いろいろな経緯をたどりましたが、基本的に幕府を激高させたクーデターでありその首謀者が祖父の後鳥羽上皇 父の順徳院であったので、乱が失敗し乱の事後処理で祖父 父 が流島(本来は死罪のところ朝廷の立場を考慮して)の処分を受け、当然ながら子供の仲恭天皇(当時は天皇として認められず半帝とよばれました)は、廃位となりました、 結論としてこの廃位は乱の勝利者である幕府の権限で(反逆者の子供であるという理由で)執権である北条家の権限において行われたものです、それ以降幕府の権限はますます強くなり後醍醐天皇により倒幕がなされるまで続きました、明治になり以前の歴史では天皇でなかったのですが、さまざまな検討のうえ史上最短の天皇として加えられ、そのとき仲恭の名前がつきました

noname#82077
質問者

お礼

即位があいまいな状態であったということは重要なのですね。 やはり、正式に天皇として即位していた場合とでは"廃帝"のしやすさも違うのでしょうか。 北条氏が事実上権力を握っていたとはいえ、 表向きはどのような理由で正統化しえたのか、と気になり質問させて頂きました。 ご回答ありがとうございました。