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幕府設置の意味
鎌倉幕府設置の理由、意味についての質問です。 平氏政権の打倒後に源頼朝が後白河上皇に征夷大将軍に任じさせたことで鎌倉幕府は設置されました。氏姓制度以来、政治的権力を集中させた豪族から平清盛までの権力者は天皇の貴種性を利用して政権を獲得してきましたが、なぜ源頼朝は朝廷とは独立した政権を立ち上げたのでしょうか。確かに朝廷側に「任命」されるので、その貴種性を利用してはいるのですが、二元的支配に移行した点でそれまでの政権とは大きく異なるように感じます。 また、そのように朝廷からの独立を考えるに至った背景はどのようなことがあったのでしょうか。 よろしくお願いします。
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日本の経済の仕組みが土地中心であった時代、もともと貴族や寺社の荘園の農作業員や用心棒であった武士層が、 自分たちの財産や揉め事を、自分たちで相談して決めさせてもらいたいということでできたのが武士の政権です。 本来は源氏ではなく平氏がその役割を担う立場だったのですが、平氏は貴族化して、武士の言い分を聞かなくなったので、 変わりに担ぎ出されたのが、同じような地位と家格を持っていた源氏です。 頼朝は確かに優秀な政治家でしたが、所詮は北条氏や三浦氏など関東の豪族武士に担ぎ上げられた神輿です。 だから鎌倉に閉じ込められた上に、3代目で断絶したんです。 結局鎌倉幕府は、それまで貴族たちの律令というルールでなかなか思うようにならなかった武士が、 資産を増やした結果、武士だけは朝廷のルールとは違うルールで生活させてね、といって苦心してできたものです。 実際、当初貴族たちの荘園、寺社の荘園はほとんど手付かずで貴族や寺社の自由に扱える状態でした。
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まず、武家政権の定義です。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A6%E5%AE%B6%E6%94%BF%E6%B2%BB >うまく意味を汲み取れなかったのですが 詳しく説明いただけたら幸いです また、官位は一般の御家人が高い官位を得る事はありません。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%98%E9%80%94%E5%A5%89%E8%A1%8C 幕府が官位を授けるよう、天皇にお願いします。 これは武家の規則であり、「天皇への」規則とは違います。 処罰されるのは武家です。
- o24hi
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こんにちは。 頼朝は,関東に島流しになっていたのですが,その地で力をつけていきました。当時,関東の武士には朝廷のやり方に不満があり,頼朝を棟梁として,いわば関東地方に独立国をつくり,朝廷から派遣された役人を追放し,武士の棟梁である頼朝に政治をゆだねたわけです。 ですから,朝廷から独立して,武士の権益を守ることが頼朝の存在意義といえますから,朝廷から独立する必要があったわけです。 ちなみに,当時は「幕府」という言葉や概念はなかったですから,タイムマシンに乗って鎌倉時代に行って,「鎌倉幕府の場所はどこにあるか」と聞いても全員が「???」ということになります。 つまり,徳川家が他の大名を支配していた徳川幕府とは違い,頼朝は関東武士の代表だったわけで,政権を立ち上げたとはいえないです。
お礼
貴重なご返答ありがとうございます。大変参考になりました。 惣領制に立脚した鎌倉幕府 独自 の支配の仕方であるのですね
- ecoshopQ
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簡単です。 「東方の鎮守は私メにお任せください」といって 位をもらったわけですから義理にも関東に本陣を すえなければならないからです。武力で謀反を起 こすことはないという意味で京都から遠いことは 何かと有利に働きます。
お礼
ご返答ありがとうございます。 >武力で謀反を起こすことはないという意味で京都から遠いことは何かと有利に働きます。 謀反を起こすことは無い というのはどちら側がでしょうか 読解力の欠如でしたら申し訳ありません。
最初から教えねばなりません。 ここが原因なのです。(天皇は、自分で自分の首を絞めたのです。) http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BF%9D%E5%85%83%E3%81%AE%E4%B9%B1 これが平治の乱です。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E6%B2%BB%E3%81%AE%E4%B9%B1 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B2%BB%E6%89%BF%E3%83%BB%E5%AF%BF%E6%B0%B8%E3%81%AE%E4%B9%B1 結局、天皇や武家は平家を良く思ってはいない。 源氏を使って良いようにしようとした。 問題は領地が東海、中部にあった事です。 京に幕府を開くと更に領地が増えてしまいます。^^; これは少々誤算でもあったでしょう。 また、 勝手に官位を授ける事が出来なかったのではなく、 勝手に授ける事は出来ますが、 武家の方が二度と鎌倉には入れなかったのです。 武家政権は平家で行っているので問題はありません。 もう、天皇は幕府に対抗する力は無かったのです。 もちろん、面白くないので承久の乱を起こします。 これで天皇と公家の貧乏は確定します。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%89%BF%E4%B9%85%E3%81%AE%E4%B9%B1
お礼
ご返答ありがとうございます。 >勝手に官位を授ける事が出来なかったのではなく、勝手に授ける事は出来ますが、武家の方が二度と鎌倉には入れなかったのです。 うまく意味を汲み取れなかったのですが 詳しく説明いただけたら幸いです。
- buchi-dog
- ベストアンサー率42% (757/1772)
ご質問については、歴史家の数だけ回答があると思いますよ。大学教授が書いた鎌倉時代史の本を読むと、それぞれの本で微妙に違うことが書いてあるでしょう。何しろ、源頼朝が自分の考えを明らかにした文書が残っているわけでもないので、全ては歴史家の解釈の問題になってしまいます。 一つ言えるのは、後世の我々から見ると 「源頼朝が権大納言・右近衛大将・征夷大将軍となり、鎌倉に『鎌倉幕府(と現在呼ばれる組織)』を設け、武家による政治を始めた」 ことは非常に画期的なことであり、後世の日本史を大きく変えた「壮挙」です。 ただ、源頼朝とその周辺の人々が「オレたちは歴史上今までに無かったことをやってのけるんだ」と考えて「朝廷からの独立を考えるに至った」かというと、そうでもないと思いますよ。様々なことが積み重なって、頼朝の死後に起きた「承久の乱」という朝廷の力を弱める大きな事件を経て「武家の朝廷への優越」が確定したと言えるのではないでしょうか。 ともあれ、質問者さんの疑問はたいへん良い所を突いていると思います。ぜひ自分でいろいろな本を読んで「自分なりの答え」を導き出して下さい。
お礼
すばやく、また疑問のつぼを押さえた意見をありがとうございました。 現在歴史を学ぶ側の私たちと当事者たちを繋ぐ文献の解釈が多様であることは必然ですね。 「幕府」という概念が歴史の集積の結果であり頼朝個人の構想だけの結果では無いのですね。 大学受験生という身分ですので迅速な返答は大変助かりました。ありがとうございました。
お礼
わざわざのご返答ありがとうございました。