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後水尾天皇退位
江戸幕府は当時、後水尾天皇の退位に猛反発しましたが、それは何故でしょうか? 秀忠とすれば孫娘の女一宮(のち明正天皇)が即位すれば自分は外祖父で更に強固な権力を握れたはずなのに(幕府と朝廷が融和すると言う意味で) 天皇の退位、親王(内親王)の即位は朝廷、もしくは天皇に決める権利があったのに 何故幕府が口出ししたのでしょうか?
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このことは、後水尾の父・後陽成時代から続く、幕府と朝廷の間の確執が原因です。 1609年、複数の宮廷女官と公家公達との間の密通事件が発覚し、それぞれが処分を受けたのですが、後陽成の母と女御の両名が、時の大御所である家康に対して説得工作を図った結果、後陽成も家康の意見も入れて「大御所のよきようにせよ」との勅旨を出してしまいました。 その結果、家康は処分内容を決定し、実行したのです。 これが遠因となって、6年後の1615年に制定された「禁中並びに公家諸法度」の中でも、朝臣の処罰規定も加えられました。 この時、後陽成もこの処分に不満で、病気を理由に譲位の旨を家康に伝えましたが、別の懸案事項もあり、すぐには実行できず、ようやく1611年の春に実現し、後水尾が天皇位に就きます。 豊臣政権の時代は、朝廷の威厳を整えるための好意的政策が取られていたものが、徳川は、朝廷を全く政治圏外に置くという法制度を定めました。 要するに、武家が朝廷を牛耳ることがその本質です。 ですから、朝廷の存在自体が政治的・社会的活動から遠ざけられ、わずかに伝統的・文化的権威を有するという存在だけになってしまいました。 結局すべてに幕府へお伺いをたてて事前に了解を得ないことには、天皇の譲位も次期天皇の即位さえできないという、力関係です。 従って、1627年の紫衣事件を契機に、更なる鬱憤が爆発し、1630年に報復的な譲位に至ったわけです。 平安時代の摂関政治のような、外戚だから権力を振るえる時代ではありません。 江戸時代は、幕府と朝廷が融和するような平穏な相互関係ではなくなっていました。 幕末になり幕府が弱体化して、困った時の神頼みよろしく、再び担ぎ出されるまでは、ある意味お飾りの存在でしかなかったのです。
お礼
あがとうございました