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時の権力者はなぜ天皇に取って変わらなかったのか?
曽我氏に始まり、藤原氏、平氏に源氏に北条氏、足利氏に、信長秀吉家康と数え上げたら切りが有りません。 これらの面々は天皇家より強大な権力と財力を持っていました。室町以前の天皇家の荘園なんて無いに等しいぐらいだったと聞きます。 はたまたこれらの権力者は直接的、間接的に天皇や上皇を殺し勝手に次期天皇を決めたりしています。有史以来天皇家が権力財力を誇示できたのはほんの一ページに過ぎません。 これだけ天皇家をないがしろにしていて大義名分もあったものでは無いと思います。 世界と比べたらいけませんがここまで来たら大半の国は禅譲もしくは簒奪が行なわれていたと思います。 万世一系などというのもどこの権力者も夢見る事なので理由になりません。 本当に神の子孫と考えていたのなら殺したりするでしょうか? これらの事を考えても象徴だからとか大義名分が取れなかったからとか万世一系だからというのは理由にならないと思います。 これらの面々が天皇に取って変わったとしても利点は見当たるが欠点はあまり見当たらないように思います。
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- imadakara
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時の権力者は国内では逆らう者がいません。 1番力を持っていますから、しかし回りの国々ではその権力者を 対等に思うものやそれ以上だと思う国王は沢山いたはずです。 そしてもし国と国との戦争になりその権力者が敗れてしまった 場合には一族皆殺しを実行する国もあります。 そうなっては家が滅びて無くなってしまいます。 ですから、外国から見た場合にはナンバーワンではないが 国内から見た場合はナンバーワン!!都合が良いですね^^
- caesar-x2
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”世界史を見る限り”ではなくて、日本史を見てください。 論点は日本のことでしょう。天皇家やそれを巡る情勢というのは 世界広しといえども、日本にしかないものです。 あなたの焦点の合ってないところはそこです。 普遍的な理由なんてありません。 探すだけ馬鹿げてます。何しろ、世界に一つ、日本の出来事ですからね。 日本の歴史は普遍的なものではないので、普遍的に見るのは間が抜けてます。 ”親類だから滅ぼさないという理由にはならない”と本当にいえますか? その根拠がむしろないですよね。 安徳天皇は平清盛の孫だし、三条天皇は藤原道長の甥だし、 藤原氏は姻戚関係が複雑に入り組んで完全に皇室と同一です。 実際、後年になるとそういう扱いになる。 推古天皇も崇険天皇も蘇我馬子の姪と甥でしかない。 これほど近しいと同族といえるし、世界史の例ではなく、日本史の例を見ると、 古代から強い母系社会によって結ばれた日本では、 外戚が本家の位置づけにもなるわけで、そこの日本の習慣・特色があるわけでしょう。 それを漠然とした世界史の歴史、世界平均に当てはめて、 ”理由にならない”なんてのは、思考の停止以外の何物でもない。 そんな感じじゃ、確かにあたなが理由が”見当たらない”と言うのは当然でしょうね。 思い込みで処理してしまってますから全く論外、日本の特色に着目してない。 オスマントルコのような、親族皆殺しにするような例は 世界史的にみても稀有な例であって、実際、世継ぎ争いこそあれ、 それ以外では同族から権力を奪った例は、非常に稀なんです。それが世界の常識。 ”権力を取り自分が皇帝になるのだから征夷大将軍などというしがらみに捕らわれなくてもよかったはず”といいますが、 その根拠は? そして何度も言うように、そんなことが日本の歴史で可能でしたか??? いつ可能だったんです? 誰が可能だったのです? ”世界史からみたら当然”なんてのは、全く荒唐無稽ですよ。 世界史って一言でいいますが、当然のことならが、その歴史はいろいろ。 権力を奪うのが当然だと思ってるようですが、世界史をよく見れ そういう歴史ばかりじゃないのは、知っているはずですが・・・知らないようですね。 じゃ、あなたが当然というのは無理があるでしょう。 ”まとめにして言わせて頂くと公家と武家を分けたからって天皇家にとって変わらなかったという理由にはまったくなりません” というか、理由をあなたがわかってないだけですよね。 日本の社会は、当時、封建社会だったのですよ。 封建社会がどういうものか、わかってます? 徳川家であれ、北条家、足利家であれ、日本全土を支配しているわけじゃないんですよ。 ”両方潰しちゃえばいいだけの話なのですから”って、だからそういうことが可能だったかって話ですよ。 両方潰す????? 大量殺戮でもする気でしょうか。 そんなこと上手くいきますか。正気の沙汰じゃない。 武家社会で武士をなくすってどういう意味です???? 「両方潰しちゃえ」ってお子ちゃまの意見ですね。論外だと思います。 機会が無いだけだというけれど、機会があるかどうかが、 実際には重要なわけで、機会が無ければ、起こりえない。当然ですよ。 逆に言えば、天皇家を廃して、日本全土を支配するような中央集権的な権力が 登場しなかったということがいえます。 日本史をみても、中央集権政府が誕生したのは、明治までないわけで、 それまではずーーーと地方分権型、封建型の社会なわけです。 封建社会では絶対的権威の所在が必要であり、多くの場合、 将軍家は最大あるいはもっとも影響力のある大名もしくは武家の棟梁であるだけだったわけで、 それでは天皇家に取って代わることはできないわけです。 しかし政治の実権と言う点において、公家と武士は、源平の前から つまり武士の誕生以来、しばしば争っていて、それが両者の領分を分けるという システムの誕生につながっている。 そしてそれこそが日本の中世史の全体像なわけであり、それを無視して考えるのは論外ですよ。 最近ことに、研究が進んでる日本の中世史をあなたが少しでも、かじれば、 具体性の無い議論、「世界史的にウンタラカンタラ」と言って日本史を論じるという 泡のような議論はやむでしょうね。
- staratras
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ご質問は日本の歴史の本質にかかわる重要なことがらだと思います。 ご指摘の通り古代は別として、中世以降の天皇には「権威」はあっても、ほとんど「権力」はなかったので、「天皇に取って代わる」ということは「天皇が持っていた権威を手に入れる」ことになります。「権力」ならば、実力で奪い取ることができますが、「権威」はそうはいきません。特に天皇の「権威」の根源には国の祭祀を司る宗教的な力がありますから、世のなかの大多数の人が認めてくれなければどうにもなりません。いくら権力者が「俺が一番偉いのだ、天皇より偉いのだ」と言ったところで、「成り上がり者が何を言うか」と世人に思われてしまえばそれまでです。そう考えれば、自分が天皇に取って代わるより、天皇の「権威」をできるだけ利用して自分の「権力」を安泰にするほうが得策であると考えるのが当然でしょう。 一つ参考になるのは、平安時代に東国で反乱を起こした平将門の事例だと思います。彼は「新皇」と称しましたが、京都の天皇を「本天皇」と呼んで手紙を送り、自分が東国で行ったことを説明して理解を求めています。東国の独立を目指した点では反抗・反乱ですが、天皇に取って代わって全国を支配する気はなく、また東国を支配するその権力の源泉も、「新皇」という名称が示すように天皇の権威から逃れることができなかったことは象徴的ではないでしょうか。 もちろん、義満や信長のようにそれだけでは飽き足らず、できればそれを乗り越えたいと考えていた権力者も少数ながら存在したことは確かですが、結局その願いは実現しませんでした。
鎌倉幕府の力の及ぶ所は関東だけでした。 ここが転機になります。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%89%BF%E4%B9%85%E3%81%AE%E4%B9%B1 これ以前に頼朝討伐の院宣を義経に渡しますが、 頼朝は大軍を率いて上洛。義経は逃亡。 頼朝討伐の院宣を撤回させ、義経討伐の院宣を下させます。 この時点で既に脆弱化していた推測が出来ます。 平安時代、荘園は無税であったのでここに百姓が農地を寄付の形を取り、貴族や自社に礼金を納付する事が流行し、律令制はほぼ崩壊します。 国衙領(公領、公田)は以下の流れです。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%BD%E8%A1%99%E9%A0%98 国司の流れで天皇の権威の動きは読めると思います。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%BD%E5%8F%B8 戦国武将は国司の肩書きを必要としていました。 他国を侵略する理由が無ければ周囲が全て敵になるからです。 元は町程度の領地から周囲を領地にしていますので、戦国武将は家柄や官位の必要性を痛感していました。 家柄をお金で買えれば買います。 また、婚姻も大国と小国ではまとまらないので何らかの 対等性の理由が必要不可欠であったのです。 戦国時代以降、将軍と家臣の間柄になります。 こうなって来ると、トップである根拠と家臣である根拠は明確にせねばなりません。 土佐藩主は元は豊臣の家臣です。 うちの殿様は、源氏の血筋で無いので将軍は永久に無理。 やる前に腰を折る事で政治の安定を図ったのです。
- sudacyu
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古墳時代から蘇我氏あたりまでは、天皇位が美味しい立場であったようで、割合ストレートに天皇位を争っています。 平安時代以後、回りの人間にとって利用価値がある割りに、天皇になった人間自身にはそれほどメリットのない時代となります。 権力者は、摂政関白であったり、院であったりと、あまり天皇自体には権力がありません。(それに対して、病気になった時に針や灸などの治療はできないなど、天皇がしてはいけない禁忌が多く、本人にはデメリットが多い。) 朝廷という天皇を含んだシステムに実態があって、天皇単独の存在には、政治的本質がないものとなります。 次の過去の質問は参考になるかもしれません。 http://oshiete1.goo.ne.jp/qa3294468.html 日本人の心のあり方について なんの武力も持たない天皇と武力を持って地域や国を統治している武士団と並存しているのはどうしてでしょうか? 普通に考えると、武器をもたない天皇は、武士団に虐殺されてもおかしくないのにそれをしてこなかったのは日本人独特の心なのでしょうか? 不思議な日本人の心のありかたを教えていただけないでしょうか?
- komes
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強いて天皇に代わる必要がなかったためではないでしょうか。 足利義満は既に実質上海外から日本天皇に相当する日本国王に認められておりました。 信長は天皇を越える神になるつもりでした。 当時の天皇に残されていた公務は形式上のものばかりで実質既に自分達が手中にしていたものです。 このような権力を自由にしていながら、簒奪してまで天皇になる必要はまったくありません。 それに血統や大義名分などを犯す冒険は必要皆無です。
- jamiru
- ベストアンサー率5% (170/3044)
つ「嫉妬」。 これには勝てません。
- tanuki4u
- ベストアンサー率33% (2764/8360)
私の考える結論。 島国で本格的な外敵の侵入がなかったから。 統治の正当性を確保することは、かなり難しい事業です。 典型的には、「血のカリスマ」が有効です。 アジア中央部においては、チンギス血統原理が働いています。チンギスハンの男系直系でないとカーンになれない。例えば、実力で中央アジアをまとめ上げたチムールは、嫁をチンギス血統からもらい、ハーンではなく、アミールとして統治しました。ハーンを天皇、アミールを将軍とすると近い関係です。ロシア帝国に繋がるイワン四世も、キプチャクハン国の末裔から任命されるというカタチで、モスクワ公国からロシア帝国になっています。 血のカリスマを打倒するにはどうしたらいいか? 近代社会以前においては、その宗族なり疑似血縁集団が破壊される必要があります。日本は結局それが破壊されなかったと言うことになります。 中国においては、殷が周によって簒奪されたわけですが、太公望が姜族出身といわれているように、他民族による簒奪だったわけです。これが前例となりましたので中国という歴史空間では、簒奪・禅譲OKとなりました。 他の歴史空間では、イギリスの王朝は系統的にはノルマン王朝1066年から続いているわけですが、ノルマン王朝自体も、その前の王朝から血統の繋がりがあると主張してイングランドに侵攻しています。
お礼
回答ありがとうございました。 やはり血統というのが一番大事なんですね。 日本の時の権力者は血統が一番で天皇を超える事はできないと自覚していたのかもしれませんね。 世界史はあまり解りませんが、ノルマン王朝は前の王朝と血統で繋がってたんですね、人種が別だと思ってましたが。ノルマン人とサクソン人で別物かと思ってました。
- Tacosan
- ベストアンサー率23% (3656/15482)
権力者が自らの「権力」の後ろ盾として天皇の「権威」を求めたということはいえると思います. 「権力」の後ろ盾としての「権威」というものは世界的にもしばしば見られ, 例えば「神聖ローマ皇帝」の背後の「ローマ教皇」であるとか, 「国王」の背後にある (王権神授説を通しての) 神, あるいは「(中国の) 皇帝」を支える「天」なんかはそうでしょう. つまり, 権力にかかわる「日本人」が全体として「天皇の権威」を認めていて, それに代わる「権威」を自ら作ることをしなかった (「歴史がある」ことそのものが「権威」となりえて, この「家系の歴史」を越える「権威基盤」を作れなかった) ということではないでしょうか. 実際支配層においては「天皇」を最上の権威と認める動きは 8世紀頃から見られ, このとき既に各地の豪族が「天皇」を (ある程度) 自発的に自分の血筋に加えていた (→天皇の権威に基づく権力を主張した) そうです. 源氏や平氏もそうで, 天皇に遡ることのできる「貴種」であるというのが, 地方武士をまとめる求心力として作用していたとか.
お礼
回答ありがとうございました。 中国で言う徳治主義と一緒ですかね?天が徳の有る者(皇帝)に統治を委任するみたいな。ここで天に当たる物が天皇で徳を得る物が藤原氏や徳川といった感じでこういった面々は天になる事ができないと自覚していたという事ですかね。中国でいう皇帝(権力者や統治者)の地位になる事はできても天を超える事ができないといった感じですかね?信仰的?な物が強かったという事ですかね。
- caesar-x2
- ベストアンサー率46% (251/542)
抽象的に考えるのではなくて、具体的なケースを見て考えれば 答えがでると思います。 ”これらの面々”を具体的に考えてください。 いわゆる天下人は、日本の歴史上ごく限られた人々であり、少数です。 きりが無いところか、逆にすごく少ないことに気付くべきです。 例えば、曽我氏、藤原氏、平家は、すべて天皇のごく近しい親類です。 一族から天皇を出せる立場にある、あるいは実際に出しているのに、 わざわざ天皇家を滅ぼす意味はありません。 これは単純に理解できるでしょう。 次に政権を継いだ源氏は、ご存知のように3代で滅ぶわけで、 源氏の力としても弱く、有力御家人の寄り合い所帯だったという特色があります。 この場合、源氏が天皇家に取って代わることが、状況からいって、単純に不可能でした。 源氏を引き継いだ北条氏の場合、征夷大将軍に九条(藤原)家や皇族を迎えるという方法をとりましたから これまた天皇家に取って代わることが無理で、承久の乱等で、 公家と武家の立場を厳しく分けるという政策をとったわけですから 天皇家から権限を奪いつつも、それを認めていくというのは、当然のことです。 足利家の台頭、室町時代の成立は、まだ南北朝の騒乱が続く状況下で起きます。 成り行き上、院宣をもって九州から復活した足利尊氏は、当然のことならが 天皇権威を脅かすことなどできません。 足利義満のときに南北朝を終結させ、権勢が頂点に達しますから、 このときだけが天皇家に取って代わる好機でしたが、義満はそれをしませんでした。 以後の足利家は内紛で弱体化し、守護大名の騒乱も始まるので 天皇家云々どころか、将軍家も危うい状態だったので、以後は論外です。 次に機会を得るのは、ご存知、織田信長ですが、彼は右大臣職を受けるなど、 天皇家の権威を誰よりも活用しており、天皇家を滅ぼすつもりだったというような説もあるものの、 実際にそれを行おうとして形跡は全くありません。そして本能寺です。 豊臣秀吉は、下賎の出身であることから、彼も天皇家の権威にすがりました。 その権威を利用する以上、彼が天皇家に取って代わることはできません。 徳川家康は、鎌倉政権のような立場を取って、再び、公家と武家の立場を 分ける政策に戻ったので、長い幕藩体制化でも、天皇家は安泰だったわけです。 明治以後は、いうに及ばないわけですが、 大義名分云々ではなくて、日本の歴史のその時代時代を見て、 現実の情勢としてそれを行う状況になかったというのが、正解なのです。 要するに、なぜそれが起きなかったではなく、 誰がそれを可能だったかと考えれば、誰も可能ではなかったというわけ。 織田信長ですら、新天皇を名乗るような時間は現実になかったのであり、 彼が長生きしたらどうなったかわからないということは出来ても、 現実には非業の死を遂げているわけで、足利義満にしてもそうです。 公に禅譲や簒奪するの機会は、奇異にも、日本史上、誰にもなかったから 天皇家は現在も存続している。単純な事実です。
お礼
回答ありがとうございました。 >例えば、曽我氏、藤原氏、平家は、すべて天皇のごく近しい親類です。 一族から天皇を出せる立場にある、あるいは実際に出しているのに、 わざわざ天皇家を滅ぼす意味はありません。 世界史を見る限り親類だから滅ぼさないという理由にはまったく当てはまりません。よってここで「天皇家を滅ぼす意味はありません。」と断定はできないと思います。 >源氏~~北条云々~~当然 権力を取り自分が皇帝になるのだから征夷大将軍などというしがらみに捕らわれなくてもよかったはずです。天皇から権限をうばいつつそれを潰していくのも世界史から見たら当然のことなので、ここで回答者さんのいう根拠の無い「当然」というのもまた当てはまりません。 足利家は弱体が原因で天皇に取って変わる事ができなかったと理解できました。 ですが、一まとめにして言わせて頂くと公家と武家を分けたからって天皇家にとって変わらなかったという理由にはまったくなりません。両方潰しちゃえばいいだけの話なのですから。 徳川家の後代に勤皇思想が高まってからではやはり天皇に取って変わることは私も無理だったと思います。 回答者さんの最後の文面からすると結局は禅譲や簒奪する機会が無かっただけでそれが起こりうる可能性は大いに有ったということですね。ただそれが無かっただけと。
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お礼
さようなら