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源頼朝が出陣しなかった理由

家康や尊氏が天下を取るにあたって自分が大将として出陣して合戦をしていますが、頼朝が出陣しなかったのはなぜですか? よく言われているように本人が戦下手を自覚していたから他の者に任せたのでしょうか? それとも他にもっと深い理由があったのでしょうか? なんだか不思議な気がします。

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  • jkpawapuro
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回答No.5

基本的においそれと本拠地たる鎌倉をがら空きにできなかったというのが正しいと思いますがもう一つあると思います。 家康や尊氏は最初から明確に覇権思想、日本全体を支配しようと目論んでいますが初期の鎌倉幕府はちょっと違いますよね? 鎌倉幕府の目的は関東、自分らの領地を朝廷の介入なく自分らで支配すること、割拠思想ですよね?頼朝や鎌倉幕府・関東平氏にとって何より大事なことは鎌倉を守ることで、遠征はそのための手段にすぎません。鎌倉幕府の支配が朝廷を上回り全国に及んだのは承久の乱以降、承久の乱も鎌倉幕府からしたら仕掛けられた戦なのでしょう。だからそもそも頼朝自らが鎌倉を離れるという発想があまりなかったでしょう。 征夷大将軍というと江戸時代を想像する人が多いので、鎌倉将軍にも同じものをイメージしがちです。ですが坂上田村麻呂を思いだしてください。将軍というのはそもそも朝廷が外敵と戦うために辺境部に一定の領地を割き、その領地内で軍事内政双方で全権限を与える制度です。逆にいえば本来その定められた領域のみに権力が及ぶのが将軍です。これをその領域を定めないことにより徐々に勢力を勝手に拡大していったのが鎌倉将軍です。逆にいうと承久の乱以後鎌倉将軍が全国に支配権を及ぼすまでは、将軍だから全国を支配できる・すべきであるという発想がまだない時代です。そもそもこの時代の将軍職が割拠的意味合いの強い役職だったわけです。朝廷内で太政大臣になった平清盛とよく比較されますが、単に組織を外部に作っただけではなく朝廷と鼎立できるという意味で大きな違いがあります。

noname#213315
質問者

補足

みなさん、ありがとうございました。 みなさん留守にできなかったという意見ですね。

その他の回答 (5)

回答No.6

してますよ 富士川の戦いや奥州征伐ではちゃんと先頭に立ってます 屋島とか壇ノ浦の頃は関東を守る必要があった(木曽義仲などと源氏同士の覇権争いもあったので関東を留守にできなかったから)=留守の隙に鎌倉を奪われたら元も子も無いですから 家康や尊氏は同盟軍が周りに居たり、天皇から討伐の命令をもらってたので 本拠地を離れても問題は無かったのです(それで領地が奪われたら 奪った奴が逆賊となるのでね)

noname#224207
noname#224207
回答No.4

全く出陣しなかった訳ではなく、必要に応じて出陣していました。 権力確立のための総仕上げの戦であった奥州合戦には出陣しています。 深い理由というよりも動くに動けなかったということです。 頼朝の周辺の武将というのは、北条氏をはじめとして関東平氏が主体でした。 頼朝が伊豆で挙兵して敗れたあと安房へ逃げて下総で再挙兵できたのも、関東平氏の千葉氏が参陣したことによるものです。 後白河法皇以下京都朝廷が頼朝の台頭を抑え込もうと盛んに画策していましたので、うっかり本拠地の鎌倉を離れると隙を突かれる恐れが多分にありました。 頼朝自身は京都の出身で鎌倉は祖父の縁があった程度の地です。 周辺の武将一族は関東出身者でした。 義仲、義経と身内の源家一族を滅ぼしていますので、油断ができませんでした。 家康にせよ尊氏にせよ周辺は股肱之臣と呼ばれる身内で固めていましたので、負けても勝手も自由に動けました。 あとは、後世の歴史家のなかには、頼朝自身がきわめて猜疑心が強く人を信用しない性格だったのではないかと見ている人もいます。 蛇足 源平合戦と言いますが内実は伊勢平氏と関東平氏の争いでした。 頼朝はいうなれば、関東平氏が名分をたてるために担ぎ出された、いわば御神輿の鳳凰のような存在でした。

  • eroero4649
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回答No.3

頼朝の人となりを伝える資料がほとんどないので、名前をよく知られている割にその実態が研究者でさえよく分からないというミステリアスな人物です。 ということは、自分からリーダーシップを発揮して皆なをぐいぐい引っ張っていくタイプではなかったということだと思います。そういう人なら何がしかの個性を伝えるエピソードが残っているはずだからです。タイプ的には調整型のリーダーだったのではないでしょうか。 というか、私はきゃば倉、いえ鎌倉時代はそんなに詳しくないのですが、なんというか天才プロデューサー北条政子によって演出されたスターだったような気がしないでもないです。 というのも、そもそも頼朝の死に方が「落馬して死んだ」って、偉大な創業者の死が公式記録(吾妻鏡)でその一言だけってのはどう考えても不自然だし、その後に源氏の血筋はあああっという間に内紛で途絶えて北条氏の時代になります。ていうか自分が源氏に嫁いでいるのに北条氏を名乗るってどういうことなのですかって話ですよね。 さすがに北条政子は戦場について行くわけにいきませんから、自分が手の届かないところに行って好き勝手なことをされることをされるのを北条政子が嫌がった説を唱えたいと思います。

回答No.2

鎌倉を離れるとクーデターや暗殺が怖かったからです。 保元・平治の乱と源氏・平氏が親子兄弟で 殺し合いをしていた時代です。 頼朝の父、源義朝は部下に裏切られ、暗殺されました。 一家離散の目にあい、頼朝も苦労しました。 その原体験から慎重にせざるを得なかったのでしょう。 義経とて面識はほぼなかったですし 鎌倉に入れず腰越の地に留め置いて京に返しました。 実際頼朝の死後、頼家は追放され、実朝は暗殺され 北条氏が政権を取っています。 身内、妻の実家である北条氏すら信用できなかった証です。

  • ithi
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回答No.1

tazunerumonoさん、こんばんは。 どちらかといえば、武略というより政略にたけた人だと思います。ただ、自身が木曽義仲や平家を自分で追討出来るかといえば、そうでもなかったようです。それ程事態は複雑だったようです。奥州藤原氏や佐竹氏などや実際に自分の叔父に攻め立てられるという事態になったことがあります。だから、鎌倉を開けておくと外敵が攻めてくる可能性もあったようです。また、実力で関東の所領を処断していましたが、これは朝廷から認められているのではなく、非公式の処断でした。朝廷が公式に頼朝の勢力を認めるのは寿永2(1183)年ころだそうです。 詳細は下記のURLを参照ください。 源頼朝 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%90%E9%A0%BC%E6%9C%9D#.E6.8C.99.E5.85.B5

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