>単に「東国武士に祭り上げられたお神輿」にすぎない程度の人物という評価が今日の主流の考え方なのでしょうか。
すいません、言葉足らずで誤解を与えてしまったようです。
鎌倉幕府成立以前は、「利害」のため頼朝と東国武士の立場はあくまでも「対等」でした。
そして、「東国武士」たちは「独立国としての鎌倉」を望んでいました。
しかし、頼朝は「朝廷国家内での鎌倉幕府」という位置づけに持って行きました。と、いうのも頼朝の目的が「朝廷国家内での地位の向上」にあったからです。
そして、「朝廷国家内での地位の向上」を目指すには東国武士の暴走はなんとしても阻止しなければなりませんでした。
そこで、「論功行賞」を行い敵方(平家勢力)から奪取した土地を与え東国武士を手なづけていきました。
そして、平家打倒後に「父・義朝」の名誉回復を行い、また「奥州合戦」を「前九年の役」の再現として行い源氏の後継者であることを内外に印象づけていきました。
ここにいたって、「鎌倉幕府内での頼朝」の地位は揺るぎないモノになっていきました。
このときの北条氏ですが、頼朝と北条政子とが婚姻していたので「血の繋がり」で他の武家よりは有利な立場を得ていました。
頼朝の死後も、この「血の繋がり」を利用して幕府内での有利を保っていきました。
その事は、「承久の乱」の時、京方の挙兵に動揺する御家人を前に、頼朝以来の恩を説いた事で、いかに「源氏」の威光を利用してたかが分かります。
頼朝個人の評価についてですが、「平家政権と後白河法皇の争い」という機会を利用して名誉回復を図り、またその後に「東国武士の暴走」を抑えつつ、「鎌倉幕府を朝廷勢力に組み込むように持って行った政治力は流石というべきでしょう。
お礼
たびたびのご回答、ありがとうございました。 私は単なる一中年サラリーマンでありますが、「源頼朝」というたった1人の歴史上の人物を分析するだけで、これだけいろいろな歴史の背景がわかるんですね。本当に勉強になります。 話はずれますが、中高生にもこうした視点を持って勉強してもらうと嬉しいですね。