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古文の質問です。
古文の質問です。 逆接確定条件は、已然形+どもと思っていました。 しかし、 (1)松山の浪のけしきはかはらじ(を) (2)今は人知れぬさまになりゆく(ものを)と思ひ過ぐして、 ()内の文法的働きは?という問題で、 どちらも逆接確定条件でした。 なぜですか?
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ご質問の文意を計りかねるところがあります。 「(1)(2)の文例で「を」「ものを」の文法的働きは何か?」 という問題で、正解はどちらも「逆接確定条件」でした。 「逆接確定条件は、已然形+ども である」と思っていました。 なぜ「を」「ものを」が逆接確定条件なのですか? と解してよろしいですか。 まず命題 「逆接確定条件は、已然形+ども である」 は間違いです。これだと 已然形+ども に逆接確定条件以外の条件があるかもしれないということになってしまいまいす。正しくは 「已然形+ども は 逆接確定条件 である」 です。これだと。逆接確定条件は 已然形+ども 以外にもありうる、ということになります。実際、古語辞典の付録などの接続助詞の一覧表には「ども」の他にも逆接確定は「を」「ものを」を含め10近く載っています。ただ、「ども」が必ず逆接確定として働くのに対し、他の多くは順接・逆接のどちらにも使います。順逆の違いは、先行文と後続文の内容の関係が順当であるか真逆であるかによって判断します。 (1)の例は先行文だけあがっており、後続文がありませんから、これだけでは順逆の判断ができません。(もっとも西行の歌だということは調べればすぐわかります。) 「かはらじを」については後述します。 (2)の例は「引用の「と」」で承けているので、「なりゆくものを」は文末です。実は「ものを」という助詞は詠嘆の終助詞としても働きます。文末の「ものを」は詠嘆の終助詞です。「と思ひ過ぐして」は、ト考エテ時ヲ過ゴシテ です。もっとも「ものを」の後を省略した表現ならば、古代・中世ならば逆接、近世ならば順接です。 「じ」+「を」 は、諸辞書を見ても明確なことはわかりません。「じ」は「む」の打消しですが、「む」が現在の「う」「よう」に引き継がれて多用されているのに対し、「じ」は古代の段階ですでに活用不全におちいり、中世以後は和歌・俳句の中に化石化してしまった助動詞です。「を」の方は本来間投助詞・終助詞ですから、なるべくその線で解釈して和歌を楽しんだ方がいいと思います。(もちろん、試験のときは、智恵を働かして順逆を見究めて解答してください。理解できていてわざわざ零点をとる必要はありません。) 「かはらじを」という表現で、わかりやすい歌が2首あります。 宇津保物語 まとゐして今日待つことは変らじを 春のこざらん年はありとも 団欒して今日みたいな日を待つことはこれからも変らないでしょうね。 たとえ春の来ないであろう年があるとしてもね、 狭衣物語 浦通ふみるめばかりは変らじを あまのかるてふ名乗りせずとも 浦を通う海松だけは・人知れず逢う事だけは変らないでしょうよ。 たとえ海士が刈ると知らせなくても・迎えを告げに来なくても、 この2例は下句末が接続助詞「とも」になっているので、倒置で上句の末が文末だという事がわかります。 伊勢物語 出でてこし跡だにいまだ変らじを たが通ひ路と今はなるらむ 出てきた跡さえまだ変ってないだろうなあ、 今は誰の通い路となってるんだろう。 藤原公任(966-1041) 年ふれど契れる水は変らじを 人の心やいかがとぞ思ふ 年月が立ち誓った水は変らないだろうな、 人の心がどうなるかそれが心配だよ。 源氏物語 浮舟 橘の小島の色は変らじを この浮舟はゆくへ知られぬ 橘の小舟の色は変わらないでしょうね、 この浮舟は行方が分からないでしょう。 西行(1118-1190) みたらしの流れはいつも変らじを 末にしなればあさましの世や 御手洗川はいつまでも変らないでしょうね、 末世ともなれば情けない世の中ですよ。 松山の波の景色は変らじを かたなく君はなりましにけり 松山の波の景色はかわらないでございましょう、 あなた様はお姿も失せておしまいになられましたね。 藤原基実(1144-1166)か 花の色はいづれの春も変らじを 宿から勝る匂いなりけり 梅の花の色は毎春変らないよね、 君のいる家からは殊の外いい匂いがするじゃないか。 藤原忠良(1199頃の歌) 山里も空は都に変らじを 雲の色さへ哀れなるかな 山里も空は都と変らないなあ、 それに雲の色まで感動的だよねえ。