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千日回峰行は釈尊の意に叶うものか?

釈尊は肉体的な苦行の意義を否定したと思うのですが、 千日回峰行は正に苦行です。 この行は原始仏教の教えにも沿ったものでしょうか?

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  • FEX2053
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回答No.5

元々、釈尊は「宗教を広めよう」という意思は全くなかったんです。 単に自分が「悟り」を開きたかっただけ。「悟った」釈尊があまりに 凄かったので、その周りに感化された人が集まり、釈尊の話を経典 として「勝手に」書き出したのが、仏教の経典です。 ちなみに、釈尊自身は「自らの教えを受け継ぐ弟子」を一度も明言 していません。経典を書いた釈尊の弟子ってのは、「自称の弟子」 でしかないんですね。 言えば、経典は「スターの動向を書いた、週刊誌の記事」みたいな もので、釈尊の「オッケー」を貰ったものじゃありませんから、 経典の内容と照らし合わせて「正邪」を判断しても、それが釈尊の 真意か、というと、「判らない」としか答えようがないんです。 なので、「釈尊が悟りに至ったやりかた」をなぞれば、同じように 「開眼」出来るだろう・・・という発想で始まったのが「行」なの ですね。別に「経典にあったから」始めたものじゃないんです。 ちなみに真言宗は、別に「衆生を救おう」なんて発想は無いです。 自分が悟ればオッケー、というのが密教の基本なんで、「悟り」に 至れば「救い」はなくてもいいんです。

kanekurimi
質問者

お礼

お答えに感謝します。

その他の回答 (6)

noname#211860
noname#211860
回答No.7

あのエネルギーを有効利用してほしかったですね。」←意味不明・・

kanekurimi
質問者

お礼

最近、千日回峰行を達成した僧侶の努力のエネルギーという意味です。 彼の努力は釈尊の教えに反する行為ですから。 その時間と体力は他の事に有効に使ってほしかったです。 三衣一鉢になって、正しい修行をしていただきたかった。 コメントに感謝します。

noname#224207
noname#224207
回答No.6

>この行は原始仏教の教えにも沿ったものでしょうか? 原始仏教を持ち出して日本仏教がやることは如何にと言ったらキリがありません。 「草木国土悉皆成仏」とか「善人なおもて往生をとぐいわんや悪人をや」などと言ったらお釈迦様は「ワシャそんなことを言った覚えはない」と仰られるでしょう。 「八幡大菩薩」などと言えば「ダレダそれは」と仰られるでしょう。 そもそも日本仏教の元となった大乗仏教も仏教にあらず、と言われています。 タイなどの南方仏教がお釈迦様の教えに近いと言われてはいますが、お釈迦様からすれば「ナニやってんノ」ということになるでしょう。 千日開放も同じことです。 あくまでもそれはそれ、これはこれです。 蛇足 仏教が面倒なのは、お釈迦様が何も書き残されていなかったために、後から後からお弟子さん達が書き加えていってしまったためです。 「如是我聞(にょぜがもん=われかくのごとくきけり)」とすれば何でもお経すなわちお釈迦様の教えだということになってしまいました。 お経が如是我聞ではじまるのはこのためです。 これも漢文ですから古代中国で書かれた言葉です。 現在仏教はインドでは途絶えたことになっていますが、ヒンズー教に言わせれば仏教はヒンズー教の一宗派という位置づけになっています。 特に密教はこのヒンズー教と共通の神様を沢山持っています。 帝釈天も元はと言えばヒンズー教の神様です。 七福神の毘沙門様も大黒様も弁天様も元はヒンズー教の神様です。 お釈迦様の前で七福神を持ち出して「あ~お目出度い」とやったら「ナンジャそれは」と仰られるでしょう。

kanekurimi
質問者

お礼

読経すれば極楽往生できると主張する大乗仏教は仏教ではないですね。 大変参考になりました。

  • ks5518
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回答No.4

No.1です。 >この行は原始仏教の教えにも沿ったものでしょうか? 日本天台宗の平安時代前期の僧 相応(そうおう)が始めたものだそうです。 もともと、この方は回峰が好きな方だったようです。当時から、仏教僧は様々な寺を回り修学に励んでいたようです。その中で、比叡山もそうですが、山間に寺院を構えていた宗派も多くそうした寺院を渡り歩く習慣から“回峰”というものが形式的に確立されていったのだと思います。平安時代初期の僧ということですから、日本天台宗でも草創期の僧です。 ■千日回峰行 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BB%B6%E6%9A%A6%E5%AF%BA#.E5.8D.83.E6.97.A5.E5.9B.9E.E5.B3.B0.E8.A1.8C

kanekurimi
質問者

お礼

釈尊の教えとは全く違うもののようですね。 御回答に感謝します。

noname#211860
noname#211860
回答No.3

苦行しても 「悟ってない」から 現在があるのです・・ 無駄骨の苦行と言う事です・・

kanekurimi
質問者

お礼

あのエネルギーを有効利用してほしかったですね。 お答えに感謝します。

  • SPS700
  • ベストアンサー率46% (15297/33016)
回答No.2

1。千日回峰行は釈尊の意に叶うものか?    下記によれば、「王子時代の快楽の日々、修行時代の苦行の日々、これら極端な偏りはいけない。」と釈尊は悟った、とあります。したがって釈尊の意に叶うものではないと思います。   http://www.miyagawa.com/osie/a.html  また下記では1,300年に成功した者が2人だと、余り効率は良くないと思われます。  http://logmi.jp/41508 2。この行は原始仏教の教えにも沿ったものでしょうか?  これは分かりません。

kanekurimi
質問者

お礼

回答に感謝します。

  • ks5518
  • ベストアンサー率27% (469/1678)
回答No.1

全く関係ないものです。 天台宗では、第三代座主:円仁(慈覚大師)の代より、最澄(伝教大師)の開山による天台の教義(天台では法華経を依教とする)に、真言を組み入れたことから純粋な天台教義を失って真言の寺(謗法の寺)として今日まで来ています。 正しい法に依らず誤った法をいくら熱心に修業したところで、『仏』には成れないでしょう。

kanekurimi
質問者

お礼

釈尊の教えとは全く無関係という事ですね 御回答に感謝します。