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親鸞がやり遂げた大曼の難行とは?

千日回峰行より厳しいようですが、どんな修行なのですか? また、親鸞は千日回峰行も満行されたのですか?

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回答No.1

 どうも、俗には浄土真宗の坊さんと呼ばれているものです。少しお話させていただきます。 >>親鸞がやり遂げた大曼の難行とは? >>千日回峰行より厳しいようですが、どんな修行なのですか?  「大曼の難行」または「大満の修行」と書くのですが、結論から申し上げますとこの修行に関しては天台宗においてもそのような修行に関する史料はなく、真宗においても史料という点から見ればやはりそのような記述のある客観的史料はありません。つまり、この修行は長い真宗の歴史の中で生まれてきた伝説のひとつと考えればよいでしょう。    その修行内容を伝えるものとしては、親鸞聖人を法然聖人のもとへ導かれた安居院の聖覚法印はお説教の名人として有名ですが、その聖覚法印の「安居院流(あぐいりゅう)」のお説教の流れが、浄土真宗では節談(節談)という名前で残っていて、「大曼(大満)の修行」についても伝えています。(ちなみに「節談説教」という言い方は、現代の人にわかりやすいように節談研究の第一人者である関山和夫氏がつけた名前で、本来は「節談」という言い方が正式です。)  売られているものとしては、祖父江省念氏の「口伝の親鸞」の第二段目、また範浄文雄氏「親鸞聖人 大満の行」というものがあります。これによりますと、 (以下内容をかいつまんで説明します)  親鸞聖人がまだ比叡山の慈鎮和尚のもとで修行中の頃のお話で、その頃親鸞聖人は範宴少納言と呼ばれていました。この範宴は自分の煩悩に悩みながらも大変熱心に修行を積んでいましたが、範宴は修行をすればするほど煩悩に苦しみ悩みは大きくなっていきます。しかし、その反面その修行の姿が人々から注目され、どんどん出世をされ慈鎮和尚から小僧都の位まで頂戴します。  すると周りの先輩僧侶のなかには「範宴は我々先輩を出し抜いて、次の座主を狙っているのではないか。」と邪推をするものが現れます。そして、天台において十六谷の代表者が集まってどうにか範宴を今のうちに潰しておく方法はなかろうかと話し合いをする中で、「範宴に大満の修行をさせてはどうか?」という意見がでます。大満の修行とは伝教大師が一度だけ行じたという記録があるだけの修行で、百日の間、一日米一粒食し回峰行をつとめるという過酷なものでした。  すったもんだあって、範宴は大満の修行をおこなうことになります。範宴が少し木陰で休もうとすると、悪僧どもは「こんな所で休んでいて大満の行が勤まるか」と範宴をたこ殴りにします。そんな中範宴は修行を続けその満願の日、慈鎮和尚は範宴を迎えに行くように、近しい弟子達に探しに行かせますが、範宴の姿は見つかりません。一人の僧侶がカラスが多く鳴いていることに気づきそちらに向かうと、ボロボロの範宴が半死半生の状態で倒れています。  範宴の帰りを待つ慈鎮和尚「これだけ待っても帰らないという事は範宴は死んでいるだろう。そうであるならば一人で生かせはせん。この慈鎮も・・・」と短刀を手にしたときに、門前から「範宴様ご帰還でございます」という声が聞こえてくる。慈鎮和尚が範宴に抱きついて涙を流すと、その涙が範宴の顔にかかり範宴が目を覚まします。この時慈鎮和尚は、 「範宴救いの道はなにかつかめたか??」 と問いますと、範宴は 「身命を捨てて修行をしても、仏の悟りは見えてきません。」 と答えると、慈鎮和尚は 「釈迦は去り 弥勒の世には 程遠い 時は末代 機は下根なり」 と和歌を読んで返された。 以上というのが、内容のあらましです。  まぁ、これがどのようなところから生まれた話しかという事に関しては諸説ありますが、私は真宗高田派良空があらわした『高田正統伝』が関係が深いと考えられます。成立は江戸時代中期ですから、史実とのつながりについてはいろいろ考えなければならない史料ですが、当時派閥を超えて大変な人気を博しました。上記の内容の中で親鸞聖人は若い頃大出世をしたという事になっていますが、これは『正統伝』によるところでしょう。『正統伝』によれば親鸞聖人は比叡山修行時代に、二十二、三歳の頃には宮廷において『天台小止観』『往生要集』の講義をして、二十五歳で師匠である慈鎮和尚から小僧都の位をいただき、聖光院という門跡寺院の住職にすえられています。  この天台宗の寺院の住職なるためには、「三年籠山行」を行なわなければなりません。この三年籠山のカリキュラムは、一年目は浄土院で最澄廟の世話をする侍真の助手を務め、二年目は百日回峰行を行ます。そして三年目には常行堂もしくは法華堂のいずれかで九十日間修行という事になっています。『高田正統伝』において親鸞聖人は聖光院の住職になったとの事ですから、この三年籠山行はおこなっていたという事になります。その中で注目すべきは百日回峰行です。  つまり、親鸞聖人は比叡山修行時代に住職になってたなら、三年籠山行はしているはず。三年籠山行には百日回峰行が含まれている。けど、そんな若くして出世したんだから妨害とかもあっただろうし、百日回峰行だって過酷だったのだろうはずだから、「大曼(大満)の修行」という事にしましょう!というくらいだったのではないでしょうか。基本的に親鸞聖人という人は大変史料の少ない人ですから、この辺のアレンジは大変多い人ともいえますね。ですから、歴史学的には伝説上の修行として捉えるべきものですが、一聞法者としては若かりし親鸞聖人の比叡山時代の苦悩やご苦労を凝縮した話としていただくのがよろしいと思います。 >>また、親鸞は千日回峰行も満行されたのですか?  これについても諸説あり定説を見ていません。修行時代の親鸞聖人について分かっていることは、『恵心尼文書』等の研究により常行三昧堂の正式な堂僧であったことです。ですから、「親鸞聖人は千日回峰行をしていた」という説を押す人であっても、あくまでも「千日回峰行をしていたとしえもおかしくはない」というもので「確実にしていた」という証拠は今の所ありません。  親鸞聖人の史料については、いろいろ史学との問題があります。  例えば親鸞聖人のひ孫に当たる覚如上人がまとめた『口伝鈔』のなかで、浄土宗西山派の祖善慧房証空上人の「死んでから救われることを往生というんだ」という主張と、親鸞聖人の「生きている今救われることを往生って言うんだ」という主張がぶつかります。これを「体失不体失往生」というのですが、最終的には親鸞聖人が勝ったことになっています。しかし、これは史学的にはこんな対決なかったのではないかという意見があります。なぜなら、親鸞聖人は関東での布教の中心地を稲田においていましたが、この稲田は宇都宮頼綱という方の領地で、この宇都宮頼綱は出家して宇都宮蓮生房という名前をいただき法然聖人のお弟子なった方です。しかし、法然聖人亡き後は証空上人のお弟子になっています。ですから、弟子の所に住まわせてもらうくらいですから、証空上人と親鸞聖人の関係は結構よい交友関係を築いていたようです。  また、著作についてみると証空上人は『自筆鈔』の中で、この世で信心決定することを「即便往生」と説いて、その信心決定したもの命終わって阿弥陀仏の国に生まれることを「当得往生」と説いて、生きているうちに救われることを往生と呼んでおられます。この『自筆鈔』があらわされたのは、親鸞聖人が『教行信証』を著す約十年前のことで、親鸞聖人より早く証空上人は「不体失往生」について述べておられるんですね。このようなことや、客観的な史料の不足により「体失不体失往生」の問答のようないさかいはなかったんじゃないかといわれます。  また、『口伝鈔』には、浄土宗の二祖聖光房弁長上人を親鸞聖人が法然聖人のもとへ導いていくという話もあります。しかし、残念なことに現在の史料史的な立場から言えば弁長上人は親鸞聖人の兄弟子で、親鸞聖人が法然聖人のところにおいでになったときにはすでに九州に帰っておられたはずです。  こんな風に、真宗側の正式な史料の中にも注意深く確認していかなければいけないところがたくさんあるのです。ですから質問の「千日回峰行」についても、状況証拠的に「やっていてもおかしくはない」とはいえますが、本当に千日回峰行を行じたかといえば「よく分からない」としか言いようがないのが現状です。  長々駄文を連ねましたが、急ごしらえの文章のため誤字脱字乱文どうぞご容赦ください。 合掌 南無阿弥陀佛

ghostshell2
質問者

お礼

こんばんは、いろいろと教えてくださりありがとうございました。 さらに勉強するところが増えて時間もかかりそうなので、先にお礼をさせてもらいます。 大曼の修行に関しては具体的なことが調べても分からず、凄い修行としか書かれていなかったので興味がありました。千日回峰以上に厳しい修行なんて想像できなかったので。 百日間米一粒でも、水を飲んでいたら結構いけるかもしれませんね。。。 後に続く人が現れなかったほど厳しい修行だったのか、もしくは後世の人たちが作った伝説なのか。。。おもしろいです。 親鸞については好きな人は賞賛するし、実際かっこよく描かれたアニメも見つけました。反面、肉食妻帯とののしる人も当時から今もずっといますよね。本当はどんな人だったのか興味がわきます。 自分的には僧侶が結婚するなんて当時大ニュースだったと思うのですが、 アニメを見たら自分を犠牲にしてまで教えを広めたかったと賞賛されているので、まあどっちにも取れるなあと思うのですが、もし親鸞さんが結婚しなかったら今の日本の僧侶も結婚を許されていなかった?と思うといろんな意味で凄い僧侶です。