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無言の行という修行の宗教的意味について
人はいろいろな肉体的苦行を行いますが、しゃべらないというのは肉体的苦痛ではないと思います。又無言の行はそばに人がいるところで行うのが本来のものなのでしょうか。無言の行は瞑想の一種なのでしょうか。ご教示ください。
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>人はいろいろな肉体的苦行を行いますが、しゃべらないというのは肉体的苦痛ではないと思います。 無言の行は、精神的な行でしょう。 キリスト教の修道院では全員無言、というところがあると時々本で読みますが、どういうのが標準スタイルなのかは、宗教にもよるかもしれないし、宗派にもよるのかもしれません。 仏教はなんとなく単独でやりそうな気もしますが、キリスト教の正教系などでも、一人で庵を結ぶ行者さんがいそうだし。 瞑想の一種なのかどうか分かりませんが、長く続けるには忍耐力を要する行だろうと想像します。 ただなんとなく黙っているのは無口な人・ぼんやりするのが好きな人にはたいしたことないんですが、「禁止」となるとけっこう辛いです。 宗教的なことではないのですが、心理的体験学習みたいなのでグループで食事するときに話をしてはいけない、というのをやったことがありますが、居心地悪いったらありません。 ↑ 内容的には宗教的修行としての無言とは全然違いますが。 心の中で神と対話したり、自分の内面を深く見つめたり、自然に耳を傾けたり、何かを探求するわけではないので。
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- hw4183
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聖黙修行といって、苦行のたぐいではありません。 また人が居ても居なくても修行者同士の場合はあまり関係ありません。(場合による) 個人的に修行する人は山に篭ったり、洞穴に入ったりでしょうが、 普通は、昔も今も精舎のなかで修行します。 瞑想時はもちろんしゃべりませんから、自然に聖黙しているわけですが、 数日間、自分の意識を内側に向ける事によって、心の世界にじゅうぶんな参入(潜在意識との交流)できるようになるためには必ずと言っていいほど、必要な事です。 言葉を発する事によって意識は意外なほど、外向きになってしまいますから、本当の意味での深い瞑想修行、反省修法(八正道など)、などができません。外界の情報をできるだけシャットアウトする事が大事だと言えます。 仏陀も菩提樹の木の下で長い時間にわたり瞑想して大悟しましたし、 空海も親鸞も道元も、有名な話は多いですね。 キリスト教的には、祈りによって同じような効果があります。 潜在意識と同通するという事は、天上界の神々や、高級霊、指導霊などの 指導を受けるという事でもありますね。 この修行によって、実は神秘体験しているのです。霊的覚醒を得て霊的体験を重ね、霊的確信によって、悟り、人間でないような、力を発揮して、 衆生救済に全生命をかけたのですね。 偉大な教祖はみな霊界通信により天の意思を伝える仕事をしてきたという事ですね。弟子も師を真似て、修行するという事です。
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ご丁寧にご教示賜りありがとうございました。
お礼
実感のこもった貴重なご教示と思いました。大変ためになりました。ありがとうございました