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江戸時代の飛び地
江戸時代には、飛地というのがあったそうで、大阪の堺市は、関東の下総国が治めていたそうです。なぜ、このような制度があったのでしょうか?
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まず、下総国が地域を治めるという表現が正しくありません。また現在の堺市付近は江戸時代初期には堺奉行が置かれ、後に大坂町奉行が兼任した幕府の直轄地(=天領)です。 幕府は江戸にありますから、必然的に天領は幕府の持つ飛び地ということになります。 堺の地域は和泉国に属します。これは地図上の区分けです。ただし、下総国に領地を持っている人が和泉国に領地をもらえば「飛び地」になります。 堺は天領でしたから、下総国の藩が治めていたわけではありません。 明治期に入ってから、堺地域が「堺県」になった際、同じ天領であった下総国を本拠とした関宿藩の三林村地域を「堺県」としたことはあります。同時期、河内国若江郡に属していた上野国沼田藩の旗本領の2つの村も「堺県」へ編入したこともあります。 江戸時代は主に藩政が敷かれていたこともあり、藩主の持っている領地が全て「○○藩の治める領地」となります。 そのため、多くの藩は「○○国△△藩」と名乗っても、実際をみると別の国にも領地を持っていることがほとんどです。 特に内陸部の藩が海沿いの領地を飛び地で有していたり、土地的に稲作が出来ないために稲作の出来る地域を飛び地で有していたりというのは実際にあった話です。 なぜなら、その藩の収入は領地の収入と直結するからです。当時の収入といえば、米や海産物が主たるものでしたから、幕府が○○国××郡は△△藩に与えると言えばそこが飛び地であっても問題がないのです。 つまりは日本全国を細かく区切って、そこから得られる収入の大きさによって領地を与え、与えられていたのが幕府と藩の関係になります。(○○藩は1万石とか言われるものです) 天領は「物流の拠点」や「鉱物資源」や「重要地点」を管轄しました。幕府として莫大な収入を生む場所や要所は支配体制を磐石にするためにも必要であったのでしょう。
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- f272
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江戸時代においては、幕府、大名などがそれぞれの土地とそこに暮らす人を支配していました(人には移転の自由はありません)。どの土地を支配するのかは幕府が決めます。つまり何々村はどの大名に与えるということです。したがってその土地は必然的にばらばらになります。大名としてはある程度まとまった土地があるところに藩庁を置き政治を行います。 たとえば関宿藩(久世氏)は下総国の関宿に藩庁をおいていましたが陸奥(青森県)、常陸(茨城県)、下野(栃木県)、和泉(大阪府)にも領地があります。これがあなたの言う「大阪の堺市は、関東の下総国が治めていた」ということの実態です。 明治になって廃藩置県を行った直後は、すべての藩はそのまま県になりましたが、このように飛び地ばかりでは効率が悪いので、強制的に領地を入れ替えたりして、一箇所にまとまるようにしたのです。これが今の県につながっています。
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なるほど、そういうことですか。それにしても、当時の人は、今のように交通も発達してないなか、徒歩で領地を行き来していたでしょうから、さぞかし大変だったでしょうね。勝 海舟の父親も兵庫県の伊丹市に領地があったとか… ありがとうございました。参考になりました。
お礼
なるほど、天領というのがあったんですね。それにしても、今の都道府県の感覚からすれば、随分、気候風土の異なる土地に領地を持っていたんですね。ただ、ただ感心するばかりです。ありがとうございました。