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江戸時代、なぜコメを大阪まで?
江戸時代の、西廻り航路/東廻り航路…について調べています。 東北諸藩などが、コメや特産物などを、大阪に輸送していた、とありますが、なぜ「大阪」なのでしょうか?これは、大阪に大きなマーケットがあったため、コメを売りさばくには大阪で…ということなのでしょうか? 年貢を納めるための輸送ならば、江戸に持っていくものでもないのか? と思ったのですが…・。
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>年貢を納めるための輸送ならば、江戸に持っていくものでもないのか? と思ったのですが…・。 年貢は、領民が地元の藩主様に収めるのであって 藩や藩主が幕府や将軍様に収めるのではないんですが・・・・ >大阪に大きなマーケットがあった 消費地としてのマーケットという面もありましたが、どちらかというと流通の拠点であり相場形成を行う市場があったと考えるべき 各藩は、国元や江戸屋敷で必要となる多額の金品を必要としていた しかし各藩の収入のほとんどは、金銭ではなく年貢米であった そのため、年貢米をより有利な条件で金品に変える必要があった 今現在もそうだけど、地方の農家が生産した農産物を地元の市場よりも築地などの中央の市場に優先的に出荷するのは、より有利な条件で売買するため 確かに江戸も大きな消費地ではあったのだが、流通業とその取扱量では大阪の方が規模が大きかった そのために上方へ物資は集積された という感じ
お礼
とてもわかりやすかったです。 年貢の行き先については、(//∇//) でした。 ご回答、どうもありがとうございました!