- ベストアンサー
輝元・恵瓊・広家について考える
- 輝元としては、秀吉死後、徳川家の影響力が強まっている。恵瓊としては、毛利家に狙いを定める前に徳川を倒さねばならない。広家としては、家康に味方することで豊臣政権から徳川政権への移行を図る。
- 輝元と恵瓊は、毛利家の将来に不安を抱いており、徳川との関係に気を配っている。輝元は家康の影響力に屈しているが、状況が変われば立場も変わる可能性がある。恵瓊は徳川を倒さなければならないが、タイミングや状況によっては毛利家が徳川に屈服し、使い減らされる可能性もある。
- 広家は家康の野心を把握しており、家康に味方することで徳川政権への移行を狙っている。反対派を屈服させることで家康の勢力を拡大し、徳川政権に参加する道を見いだしている。条件や扱いが悪くなるかもしれないが、豊臣政権から徳川政権への移行は避けられないと考えている。
- みんなの回答 (3)
- 専門家の回答
質問者が選んだベストアンサー
ちょっと前の「歴史群像」誌にそれについての面白い記事が載っていました。その記事でも指摘されていたのですが、元々毛利家というのはよくいえば権力が分散されている、はっきりいえば主君は名目上の存在に過ぎない家だったんですね。 そういうところって、王家でも企業でも共通することは家臣(社員)団による主導権争いです。そしてそういう争いが激しくなると、どこでもみんな目先のことしか考えなくなるんですね。これはもう歴史の必然ともいうべき流れです。人間の業というやつかもしれません。 安国寺恵瓊と吉川広家は、お互いに激しく対立していました。それぞれが反対の路線をとったのは「戦さの流れがどっちにいっても毛利家が生き残るために」なんていうものではなく、単純に「アイツが右なら俺は左」というものだったのです。 本来そこに輝元はリーダーシップを発揮すべき立場ではいましたが、それはできませんでした。輝元がやりたくてもできなかったと思います。戦前の昭和天皇が名目上は大日本帝国の最高指導者でありながら、現実的には政府が決めたことを承認する以外の権力は持っていなかったのと同じです。当時の輝元は家臣に「ああせい、こうせい」と主導権を持って命令できる現実的な力を持っていなかったのです。 んで、安国寺恵瓊は外交力はありましたが、しかし動かせるのは自分の舌先と筆くらいのもので、現実的な力(軍事力)を持っていませんでした。だから、毛利家の方針を西軍総大将までは持って行けても、現場をどうこうするってことはできませんでした。 一方の広家は、はっきりいって脇が甘い。家康を見くびっていたのでしょうね。家康は武田信玄、織田信長といった超一流クラスの戦国大名とやりあって生き抜いてきた人です。もうね、格の違いというのを地で行く感じですよね。 面白いのが、戦後処理を広家らは「あれは安国寺恵瓊らが勝手にやったことです」ということで解決しようとしたんですね。それで広家としては安国寺恵瓊らを排除することに成功はしました。しかし、当初の戦後処理では毛利家は取り潰しで防長二国を広家に与えるというものだったので、大慌てで本来広家に与えられるはずだった防長二国を毛利家にするという案で徳川家と折り合いをつけることとなりました。 その代わりに、広家がとった行動は「あれは広家が勝手にやったことです」で解決することとなったのです。政敵を滅亡に追い込んだ手口が、ブーメランのように自分に跳ね返ってきて自分の政治生命を断つことになったのです。以降、吉川家は幕末まで末席に追いやられ冷遇され続けることとなりました。名前こそ残りましたが、名誉は失ったわけで、武士としては滅亡も同然だといえましょう。 そしてその結果、家臣団が力を失うことで相対的に実質的な権力を輝元は手に入れることができました。だいたい戦国ファンからは酷評されることが多い輝元ですが、その後は120万石から36万石になってしまった毛利家の財政再建と国内開発と産業奨励に功績を残しました。 おそらく輝元は、「乱世の凡将、治世の名君」なのだったと思います。
その他の回答 (2)
- ithi
- ベストアンサー率20% (1972/9601)
sg10000さん、こんばんは。 輝元…実は祖父元就の時代に「家訓」で毛利家は天下覇権を狙うべからずといっております。 だから、毛利家は天下覇権を狙うべきか、狙わざるべきかと悩んでいると思います。 恵瓊…徳川の覇権になれば、毛利家の領土は削減され、地位も転落するだろう。だから、三成と組んで、豊臣家の安泰と同時に領土の加増、および、輝元に官位大納言と豊臣家筆頭大老の地位につけようと思っていると思います。 広家…恵瓊のように天下覇権に関与するべきではなく、祖父元就の天下覇権を狙うべからずと考えています。 毛利元就 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AF%9B%E5%88%A9%E5%85%83%E5%B0%B1
お礼
回答ありがとう。 輝元の史実から見た関ヶ原前後の恐ろしいほどの 中途半端さはそういうことなんでしょうね。 あとの二人はそういう感じですね。
- あずき なな(@azuki-7)
- ベストアンサー率16% (1963/11745)
みんなアホだったと言うことです 毛利元就は死の間際 孫の輝元に「わしが死んだら天下は狙わず 毛利の家を残すことだけを考えよ。古今東西天下をとった家は必ず滅びる」と言い残しています しかし毛利家中に天下への野心があった者が居たのです 毛利家は山陰10カ国の太主です ともすれば家康と互角に戦えると言う気概があったのでしょう 輝元は大名の器ではなかった 祖父元就、父隆元に比べると明らかに暗君です
お礼
回答ありがとう。
お礼
回答ありがとう。 なぜ、毛利家がああなったのかは、 家中がバラバラで好き勝手なことをされたから。 家康からしてみれば、謀略をしかけなくても、 家中がわれてくれていて、広家に関しては 向こうからカモがネギをしょってきてくれた感じでしょうか? 輝元に関しては偽情報をながさなくても足止めをできて、 恵瓊は挑発しなくても勝手に乗ってくれた、 史実から想像すると、実にありがたい話ですね。 まあ、佐竹のようにもっと中立でいてくれて後で つぶしたほうが楽だったでしょうが。 三人についての論評もどうも。 数十万石なら名君、百万石以上なら暗君、 器量のほどというこでしょうか?