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徳山則秀は何で前田家を出ていきましたか?

加賀前田家に五千石で仕えていた徳山則秀は前田利家の死んだ後8ヶ月後くらいに徳川家康に五千石で召抱えられますが何で前田家を出ていったのでしょうか? 家康が前田家内部に詳しい者としてほしがり誘いをかけたなら禄高を高くして誘いをかけると思うので、禄高が同じだからそういう話とはちょっと違うかなと思うのですが。 新たな藩主前田利長と仲が悪かったとか?前田家新体制で他の重臣と対立したとか? どんな理由があったのでしょうか? 知ってる方教えてください。お願いします。

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  • zep19
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回答No.2

前田利家は病でその死を悟った慶長四年三月二十一日正室のおまつに嫡男利長宛の十一箇条の遺言状(高徳公御遺戒)を託します その第十条と第十一条に書かれていたのが 《長連龍、高山右近、青山吉次は律儀者である》 《片山伊賀、徳山五兵衛は謀反人(つまり徳川に通じている)である》 利家没後、利長は片山伊賀を誅殺、危機を察知した徳山はいち早く出奔したというわけらしいです

noname#154784
質問者

お礼

なるほど。 そういう遺言があったのですか。 それでは身の危険を感じて逃げたのかもしれませんね。 参考になりました。 回答ありがとうございました。

その他の回答 (1)

noname#155097
noname#155097
回答No.1

関ヶ原前の緊張した政治情勢の中で、 前田家の行く末が危ういこと。 かってから徳川家康と親交があったことなどからでは。 こちらでは4万石を捨てて。とありますね。 http://blogs.yahoo.co.jp/me468646/62454686.html 道三以来の下剋上の戦国時代を生き抜いた人ですから、 この時も生き残るためのより正しい、やむを得ぬ行動だったと思われます。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B1%B1%E5%89%87%E7%A7%80

noname#154784
質問者

お礼

なるほど。 前田家の先行きを危ぶんで見限ったということでしょうか。 ところでご紹介いただいたブログ読んでみましたが確かに1585年に松任4万石で出奔後に利長に没収とありますね。 でも1587年に丹羽長重が松任4万石の領主になって、その後の小田原の役の後に長重に小松が与えられたけど松任はそのまま長重の領地のままで、関が原合戦の後に徳川家康が前田利長に松任を与えたという古文書が今でも石川県金沢市の資料館に残っています。 それと則秀が5千石と書いたのは、徳山氏の子孫の方が昭和時代に出した徳山氏史伝という本を参考にしました。この本は国会図書館か石川県立図書館で見れます。この本では5千石となっていました。 このブログを書いた方はどのような資料を見たのでしょうか興味あります。案外そちらの方が正しいのかも。 回答ありがとうございました。