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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:「中国大返し」で姫路城に戻った秀吉は。)

「中国大返し」で姫路城に戻った秀吉は。

このQ&Aのポイント
  • 天正10年(1582年)当時、「枚」で数える「金」とはどういう物ですか。
  • 「金銀は、銀が七百五十貫、金が八百枚あまり金蔵にあった。」軍資金としての金銀が城内にあったことは事実でしょうが、「銀が七百五十貫、金が八百枚あまり」とは、作家の創作でしょうか。
  • それとも、何かの史料に出ているのでしょうか。私の調べ方が拙いのかも知れませんが、大村由己『天正記』には出ていないようです。また、新日本古典文学大系 60 「太閤記」にも出てきません。

質問者が選んだベストアンサー

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  • fumkum
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回答No.4

こんにちは 1については、NO2の方もお書きのように、譲葉金という大判・小判上の延べ金がありました。同じ仲間に蛭藻金というものもありました。小型のものを蛭藻金、大型のものを譲葉金もしくは無銘大板金と呼ぶようです。これについては、『信長公記』の巻十の「中将信忠御位の事」のなかに、「(三位中将任官として)三条殿まで御祇候あつて、御祝言の御太刀代として、黄金三十枚、叡覧に備へ奉る。」とあり、金(黄金)を枚と数えています。なお、同書には「砂金」献上の記述もあり、書き分けています。なお、砂金は、両・匁、特殊な場合包みと表示されますが、枚という表示方法はありません。 なお、一両は奈良時代には十匁とされていたようですが、『三貨図彙』には次のような記述があります。 京都若江従四位長公朝臣家蔵ニ、観応年間ノ古文書アリ、其中ニ、  京江進上ノ砂金ハ目一両、四匁五分  田舎江賜フ砂金ハ目一両、四匁七分 以上のように、京と地方では量目に差があり、後の慶長小判の両目が四匁七分六厘であったことから、田舎目を基準に作られたとされ、甲州金との関連が指摘されています。また、甲州金だけではなく、地方、地方により、大名により独自の貨幣を鋳造したとの江戸時代の記述もありますが、現存するのは甲州金と、越後金などだけとされています。 http://coinkun.cocolog-nifty.com/coin/2011/05/1-60c3.html 2については、原点は『川角太閤記』です。原文は次の通りです。 「かね奉行蔵預米奉行共召寄よ可被仰渡事ありとありしかは則祇候仕たると披露仕候処に御前え被召出先かね奉行に御尋被成様子はてんしゆに金銀何程あるやらん畏て承候銀子は七百五十貫目ほと可有御座候金子は千枚迄者無御座候八百枚之少し外可有御座候金銀一分一リン跡に不可残蜂須賀彦右衛門所え遣よ番頭鉄炮弓預置物頭を彦右衛門所えよひよせ知行におうして分取せよとの御意にて金銀残御払候事」 ところで、司馬遼太郎という方は、資料の収集に関しては、物凄い方で、一つの小説を書こうと企画すると、それに関連する古書が、古書街から消えるとまで言われていました。その無くなった資料から、どのような人物を主人公にするのか予想がついたとも言われていました。学生時代古書街でよく聞いた話です。それほどの方ですし、海音寺潮五郎に師事した面があって、史実にも詳しかったようです。ただ、司馬遼太郎はあくまでも作家ですから、資料によってだけ小説を執筆するのではなく、資料を踏まえつつ、そこにフィクションをまじえて作品に仕上げるわけです。 今回の『川角太閤記』についても、姫路城での記述に関して、『豊鑑』『豊臣記』『惟任退治記(天正記)』など関連書籍を調べましたが、他の書籍の記述は、姫路城に着いた、出発した程度の簡単な記述がほとんどで、『川角太閤記』のみが詳細を極めるという感じです。この金配りが、『川角太閤記』の創作であった可能性もあるとは思いますが、後に秀吉が聚楽第で諸大名に盛大に金配りをした史実を踏まえつつ、秀吉の豪快さ、弔い合戦にかける意気込み、天下取への乾坤一擲のバクチ、そのような秀吉の姿を見事に表すエピソードとして、用いたのではないかと思います。勝手な意見ですが。

kouki-koureisya
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 fumkum 様の#6、7のご回答はまだ読んでいません。 今、投稿する前に気づいたのです。 お礼文の内容が、つじつまが合わないかも知れませんが、ご容赦願います。 戦国時代、「枚」で数える貨幣または金塊があったことはよく分かりました。 そして、その「貨幣または金塊」とは、譲葉金とか蛭藻金である、ということですね。 参考サイトの「新・造幣博物館(お金の情報室)」は、質問前にちょっと読んでおきました。 これが誤解の元でした。 このサイトの説明では、 「竹流金などの金錠に次いで出たのが、蛭藻金や譲葉金と呼ばれる延金だ。」とあります。 つまり、天正10年(1582年)当時には、「蛭藻金」や「譲葉金」と呼ばれる「延金」は未だ存在せず、「金錠」だと思ってしまいました。 「金錠」だとすれば、なまこ形の形状の物を「枚」で数えたのだろうか、という単純な疑問です。 そこで質問文は、「枚」で数える「金」とはどういう物ですか、としました。 しかし、「蛭藻金」や「譲葉金」が戦国時代にあったということは、よく分かりました。 「蛭藻金」や「譲葉金」の形状であれば「枚」で数えたということで、疑問は解消しました。 次に、砂金の量を「枚」で呼ぶのかという疑問です。 地質ニュース407号「佐渡西三川砂金山の歴史地理」 小菅徹也 https://www.gsj.jp/data/chishitsunews/88_07_03.pdf#search='%E4%BD%90%E6%B8%A1%E8%A5%BF%E4%B8%89%E5%B7%9D%E3%81%AE%E9%87%91%E5%B1%B1' (7/12)に概略次のように書いてあります。 やがて村人もわれもわれもと砂金を掘るようになり、のちには毎月18枚も一つの稼ぎ場から運上を納めるようになり、村の名前を笹川拾八枚村と名づけた。一枚とは10両のことで、金ならば45匁(慶長期は48匁)で、銀ならば43匁である。 『佐渡四民風俗』によれば「享保8年5月に佐渡奉行小浜志摩守から、慶長19年の御勘定帳に砂金59枚8両2朱とあるが、そもそも砂金1枚とはどういう事かという質問があり、広間役が集まって話し合ったが不明であるので佐渡小判所の後藤座のものに聞いたら、金10両を1枚(大判1枚)と唱えていると返答があった。したがって砂金も10両を1枚と称したのでしょうと答えた」と記述してある。 だれが、いつごろから「枚」で呼ぶようになったのか、そして佐渡だけの習慣なのか、奥州ではどうなのか、生産現場だけなのか、さっぱり分かりませんが、佐渡では砂金の量を「枚」で表していたことは事実ですね。 しかし、天正10年、「姫路城の金蔵にあった金が八百枚あまり」ということですが、これは重さではなく、枚数だと思っています。 もう少し検討しなくてはなりませんが…。

kouki-koureisya
質問者

補足

ご回答ありがとうございます。 『川角太閤記』ですか!! わざわざ調べて下さって真にありがとうございます。 質問には、「作家の創作でしょうか」と書きましたが…もとより私は、 「金銀は、銀が七百五十貫、金が八百枚あまり金蔵にあった。」の一節を作家・司馬遼太郎の創作だとは思っていませんでした。(歴史を書くときの氏の真摯な姿勢からして) 『豊鑑』『惟任退治記(天正記)』は読みましたが、姫路(姫地と書いてました)のことは素っ気無いですね。 しかし、読んだおかげで「軍兵をくれ明る日に着もあり」というところから「軍兵」という言葉を知りました。 >この金配りが、『川角太閤記』の創作であった可能性もあるとは思いますが、後に秀吉が聚楽第で諸大名に盛大に金配りをした史実を踏まえつつ、秀吉の豪快さ、弔い合戦にかける意気込み、天下取への乾坤一擲のバクチ、そのような秀吉の姿を見事に表すエピソードとして、用いたのではないかと思います。 ふと思いついて、吉川英治の『新書太閤記』はどうなっているのか調べてみますと、司馬遼太郎と同じでした。 次から次へと疑問が出てきて困っています。 「枚」については明日「お礼欄」に記入します。

その他の回答 (16)

  • fumkum
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回答No.17

回答が遅くなりました。 『川角太閤記』は『史籍集覧』本を用いていますが、「(夜責)」は良く分からない語です。正確には、「責」の後に空白があり、何か書いてあるようですが、小さ過ぎて分かりません。他の本を見ると、「(夜責)」の部分が無いものもあります。「(夜責)」はペンディングにしたいと思います。 読み 銀子はわずかに十貫目程も御座候はんや、金子は四百六十枚御座候、其金銀も不入(いらざる)事にてありながら、是をば明日持せよ。他所(よそ)よりも使者飛脚などに出し度(たき)事もやありなん。其上褒賞にとらすべき為なり。明日路次へ持(もた)せよとの事。 是=銀子十貫目程、金子四百六十枚 他所=丹羽五郎左衛門(長秀)よりの早飛脚が、岡山~姫路の道中に到着したことが、5項目前に、記述があります。合戦前に、織田信孝・丹羽・中川・池田・高山などの参戦部隊、筒井・細川などの秀吉の姫路在城時には向背不明の者、毛利などの中立の者などの間に、使者・飛脚などを送ったり、送られたりすることがあったとされ、秀吉側からは中川に対し、信長生存の偽情報を送った(梅林寺文書)ことが知られています。また、細川は6月9日に秀吉側に立つとの使者を送った(細川家文書)との記録があり、明智共々、情報戦、味方集めの使者・手紙の往復が盛んに行われた時期になります。 時期については、6月4日に毛利との講和が成立し、その翌日の5日には秀吉は使者・飛脚などを送りはじめたとされます。 他所よりも使者飛脚=「も」は係助詞と考えるのが一般的です。しかし、意味的には下とのつながりが悪く、「他所よりも(来る)使者飛脚」のように、「も」の後に言葉が省略されている(その場合「も」は強調の意味)と考えられます。ただし、本来であれば、『川角太閤記』の省略用例等を検討しなければならないのですが、他の用例を検討したわけではないので、間違っているかも分かりませんが。 度(たき)=希望の助動詞「たし」の連体形。現代の「たい」の祖形。平安末期頃から使われた口語的表現であり、この部分が秀吉の命令する言葉となっていることに対応しています。なお、希望の助動詞「たし」は形容詞型に活用し、接続は連用形。 もや=係助詞「も」+係助詞「や」で、~だろうか、~も~だろうか。文末と係り結びの関係を作る。 なん=完了・強意(確述)の助動詞「ぬ」の未然形の「な」に、推量の助動詞の終止形「ん(む)」の連体形の同形の「ん」(「や」と係り結びをつくり、連体形で終わる)。ここでは強い推量を表し、~してしまうだろう、きっと~だろう。 褒賞=ほめること。ほめる意味を表すために与える物品、褒美。 べき=推量の助動詞「べし」の連体形「べき」。意味は、推量・意志・可能・当然・義務・命令・適当・勧誘とありますが、ここは秀吉自身の言葉として表現されているので、一人称の場合は意志との原則を尊重して、意志=~たい。 為なり=「為」は理由を表し、「なり」は断定の助動詞「なり」の終止形で、~だ、~にある。文法的に「為」は、「褒賞にとらすべき」だけでなく、「出し度事もやありなん」も受けています。つまり、金銀を持参させる理由は2つあることを示します。 口語訳(意訳) 今回の西国(高松城‐毛利‐攻め)担当の金奉行を呼び出し、(金奉行が秀吉の)御前に伺候いたしたところ、今回高松城攻めに持参した金銀はどのくらい使い残したのかと(秀吉が)質問されると、(金奉行は)銀子はたかだか十貫目ほどは残りましたでしょうか、金子は460枚ございます(と答えた)。(秀吉は)それらの金銀も不要な物ではあるが、(使い残した)金銀を明日(の行軍に)持参せよ(と命じた)。(なぜならば)他の大名の所から訪れる使者や飛脚などに(金銀を)与えたいと思う事もきっとあるだろうし、その上(部下達の戦功への)褒美に(金銀を)与えたいと思うからである。明日の行軍に(使い残した金銀を)持参せよとの事。 細々とした説明になってしまいましたが、ポイントは、古文には省略が多いということです。この文では、「他所よりも」が、下の文との繋がりが悪く、そのままでは訳が難しいと思います。このような場合には省略があることを疑って見ることだろうと思います。今回、厳密に検討したわけではないので、正確かどうかは保障できませんが、参考程度にお読みください。

kouki-koureisya
質問者

お礼

何度も丁寧に教えて下さって真にありがとうございます。 私のような思い付きでなんでも質問する“質問魔”に、口語訳まで添えたこんなに親切な回答を頂くともったいない限りです。 虚実入り混じる情報戦があって、飛脚が活躍したこと、よく分かりました。 そして、それには多額の現金が手元に必要であったこともよく分かりました。 光秀も安土城の金銀財宝を全てばらまいたそうですから、ものすごい量の金銀が動いたことになりますね。 「ポイントは、古文には省略が多いということ」ですね。 肝に銘じて今後、読んでいくようにします。 大いに歴史を楽しむことができました。感謝申し上げます。

  • fumkum
  • ベストアンサー率66% (504/763)
回答No.16

江戸時代末期の『雑兵物語』等を資料にした東郷隆著『絵解き 雑兵足軽たちの戦い』(講談社刊)という文庫本があって、その中で、足軽等の戦場・武装時の持物について、数箇所記述したところがあります。まず、銭袋、火打ち袋、薬袋、打飼袋、兵糧袋、腰籠など。これらはぶら下げたり、腰、肩に巻いたりして使うものですが、さらに、甲冑の胴の表面の左脇に付けた鼻紙袋、正面草摺の裏、通称「金玉隠し」に付けられた貴重品袋、兜の内部(あまり物は入らないが、金銭は入るとされた部分)などは、戦場では味方によって盗まれる、寝首をかかれて奪われるための対策としての例として書かれています。草摺裏、兜内部などは平和な江戸時代の隠し場所のような気もしますが、意外と武装時に多くの袋状のものを持ったり、甲冑に隠し場所があるものだと思います。一人で全部を備えていたわけでもないでしょうが。 その他の書物では、(足軽より身分の高い)武士の場合、*割り褌を首裏で結ぶのではなく、首から下げた金輪に結び、貴重品袋も金輪に結び、甲冑内部に下げたという記述を見たこともあります。ただ、以上のようなものですので実物を見たことはありません。国立博物館の年間パスポートを毎年更新して、ちょこちょこ行くのですが。 *割り褌=普通の褌の下がりの部分が長くなって先が二つに割れている形状。下がりの部分は下げずに首まで上げ、割れた部分を首裏で結んでとめるもの。 『川角太閤記』の金800枚の記述のすぐ次に、以下のような文があります。 今度西国江の金奉行被召出候御前祇候仕候今度西国江持たせる金銀何ほど遣ひあましつらんと御尋候へは銀子は残十貫目程も御座候はんや金子は四百六十枚御座候其金銀も不入事にてありなから是をは明日持せよ他所よりも使者飛脚なとに出し度事もやありなん其上褒賞(夜責)にとらすへき為なり明日路次へ持せよとの事。 ここで分かることは、姫路城に蓄えられた金銀の数量と比べると、銀の数量が異常に少ないことです。この中の「今度西国江の金奉行」は、毛利(備中高松城)攻めに同行した金奉行のことでしょうから、金子銀子は、戦費として使った金銀の数量の残金を表し、銀が以上に少ないのは、銀を中心に戦費として支払ったためだと考えられます。つまり、当時の西日本が銀遣いの地であったためだと考えられます。 さらに「他所よりも使者飛脚なとに出し度事もやありなん其上褒賞(夜責)にとらすへき為なり」とあることからも、金銀、特に金を戦場等での褒賞として用いたことを示すものだと思います。 『古事類苑 泉貨部秤量部』の「泉貨部四 金銀貨上」の冒頭に、次のような文があります。 金銀貨ノ事ハ、既ニ前篇ニ見ユ、ゆえに此ニハ銭ニアラズシテ、而シテ交易ノ用ヲ為ス者ヲ総称シテ金銀貨ト為ス、按ズルニ上世ノ通貨ハ、銭ノミヲ用ヰシモノニテ、金銀貨ノ用ハ未ダ起ラズ、時ニ之ヲ朝廷に貢シ、臣下ニ賜ヒテ、売買交易の資ト為シシ事ナキニアラザレドモ、未ダ之ヲ以テ直ニ通貨ト為シシニモアラズ、近衛天皇ノ頃ニ至リ、銀ヲ錬リテ鋌ト為シ、称シテ南廷或ハ南鐐ト為シ、又沙金モ粒若クハ塊ト為シテ、之ヲ贈遺ノ用ニ供シタリキ、金銀貨ノ用、是ニ於テカ萌芽ス、足利氏ノ季ニ至リテ、大小板金行ハル、豊臣秀吉海内ヲ統一スルニ方リ、盛ニ鼓鋳ノ業ヲ興シ、(以下略) 上記にあるように、冒頭文(『古事類苑』の編者のまとめ)では、精錬した銀の鋌が平安時代末に造られ、室町時代に金鋌(板金)が造られたとしています。板状の金銀は、意外に早く造られている事になります。 なお、「金銀貨ノ事ハ、既ニ前篇ニ見ユ」とは、皇朝十二銭のうち、和同開珎に銀銭が存在し、大平(太平とも)元宝は銀貨として、開基勝宝は金貸として鋳造されています。この内、大平(太平とも)元宝は確実な現物が発見されていないとされます。開基勝宝は西大寺関係の場所で発見されており、その実在性がはっきりとしています。 以上、参考まで。

kouki-koureisya
質問者

お礼

貴重な時間を割いて詳しく書いて下さって真にありがとうございます。 >(足軽より身分の高い)武士の場合、割り褌を首裏で結ぶのではなく、首から下げた金輪に結び、貴重品袋も金輪に結び、甲冑内部に下げたという記述を見たこともあります。 「割り褌」なんて、初耳ですからを調べていきますと、次から次へと興味ある事柄が出てきます。 そして、またまた多くの疑問が湧き出してきます。 ところで、 「他所よりも使者飛脚なとに出し度事もやありなん其上褒賞(夜責)にとらすへき為なり」の中で、 (夜責)の意味が分かりません。 いつでもよろしいですから、教えていただけませんか。 開基勝宝は、日本古代史の謎の一つだと思っています。 私には分からないことばかりですが、少なくとも8世紀中ごろの日本が、自ら金を精錬する技術をもっていたことを証明していると思います。 同じ8世紀に東大寺大仏にも推定170kgの金を使っていますから、まさに「黄金の国」ジパングです。

  • fumkum
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回答No.15

木を見ての類です。姫路城の金800枚ですが、お考えの通り、各種の金があって、その中に砂金も含まれると考えることの方が自然だと思います。

  • fumkum
  • ベストアンサー率66% (504/763)
回答No.14

>1の「砂金59枚8両2朱」とは、端数の2朱が付いていますから“重さ”ではなく、貨幣の単位だと思います。 しかし、それなら598両2朱と記載してもよいのではないか、と思います。 砂金に限って「両」の上に「枚」の単位があったのかな、と愚考しています。 同じレポートの「つるか七助の請負証文」によれば、金銀山の採掘権を「砂金25枚」で請け負っています。この証文には「加増銀子京目百枚」とも書いてあります。 採掘した金銀を奉行所に納めるわけですから、「砂金25枚」とは“重さ”であると思います。 結局、私には何がなにやら、分からなくなってしまいました。 計数貨幣という言葉があります。一定の純分と一定の分量を有し、一定の形状に鋳造し、表面に一定の価格を表示した貨幣。単にその数を計算するだけで全価格を知り得るものと定義され、秤量貨幣の対義語でもあります。金鋌は貨幣ではありませんが、計数貨幣類似物で、一定の純分?と*一定の分量を有し、一定の形状に鋳造し、単にその数を計算するだけで全価格を知り得るものであったと考えられます。 御存じのことと思いますが、銀に丁銀という秤量貨幣があり、この「丁」は、「鋌」「挺」から変化したとされ、形状もナマコ型をしています。江戸時代には、丁銀を切って遣う方法もとられますが、43匁(銀10両)の丁銀を基準として、銀1枚とされます。量目は少し違いますが、金も42文目(金10両)の金鋌を基準として、金1枚と数えるようになったと思います(銀のほうが早かったかもしれません)。つまり、金10両に相当する*42文目の金鋌1鋌を1枚と数えたことから「枚」は計数単位として使われ、同時に*42文目を1枚とする重量単位としても使われたと思います。さらに、重量単位としての「枚」は、砂金にも重量単位(もしくは金鋌相当単位)としても用いられるようになったものと、思われるのです。 さらに、「枚」は億や兆と同じような数の単位(つまりは計数単位)としても用いられ、後藤座の佐渡奉行への回答にあったように(銀1枚の説明も)、10両を1とする単位であったと思われます。『「両」の上に「枚」の単位があったのかな、と愚考しています。』とおっしゃられた通りだと思います。 これと同じような数の単位に「疋」があり、10文(銭)を1疋とする単位です。ただし、疋は文・銭との併用(15疋8銭など)はないとのことです。江戸時代では「百疋」単位で、栄転・婚礼の祝いなどの時に、祝儀として用いられている例が多く、一疋単位では使われていないようですが。 金1枚、銀1枚、100疋などの共通する使い方は、献上・下賜などの公的な場面で使われることです。このような場面では以前の習慣を尊重することがあり、枚・疋などの古い呼称を用い続けていたのだと思います。ただ、枚については、全国統一の大判・小判など の制度が整い、「両」の使用が普遍的になるのと姿を消し、その呼称の由来が分からなくなったのではと思います。 ともかく、私が言いたいのは、「枚」は、金・銀のインゴットを1枚、2枚と呼称したことから始まり、計数単位、重量単位として使用され、それが砂金にも適用されたこと。*室町時代の中頃には、金の定量のインゴットが存在したということです。ですから、「*江戸時代に金銀が鋳造されて、全国統一の大判、小判などができましたが」「秀吉の時代(戦国時代)では、砂金なども鋳造せずにそのままサラサラとした状態で、献上や納付されました。」とのことですが、若干曖昧な表現ですが、江戸時代以前には金銀の鋳造がないように思わせる表現です。それは、史実に反するということです。また、灰吹法の16世紀の導入以前にも金銀鋳造がなされていたということです。 ですから、姫路城での金についても、インゴットである可能性が高いと思います。つまり、一定の分量を有し、一定の形状に鋳造し、単にその数を計算するだけで全価格を知り得ることができるので、戦費として蓄えたり、戦場に持っていって、*軍功を挙げた者に、その場で恩賞として与えたりすることを考えると、砂金よりインゴットのほうが利用しやすかったからと考えられます。 丁銀 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%81%E9%8A%80http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%96%8B 灰吹法 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%81%B0%E5%90%B9%E6%B3%95 *一定の分量・*42文目=「各四十二文目」と書かれたり、「田舎目の四二匁を用いている」と説明されているように、田舎目だけでなく京目があったり、室町時代に量目の改訂があったり、地方による変動もあります。また、銀と金は同じ両でも重量に違いがあります。 京目 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%AC%E7%9B%AE これは、近代ではありますが、日清戦争の賠償金の銀一両(テール)について、当時中国清では三種類の重量の異なるテールがあり、議論はそのいずれのテールをもちいるかということから始まっています。 *室町時代の中頃には、金の定量のインゴットが存在した=『金属の中世 資源と流通(考古学と中世史研究)』では、室町初期の1401年の足利義満が日明貿易の開始交渉の使者に持たせた金千両についても、金塊ではないかとも記述しています。 *江戸時代に金銀が鋳造されて、全国統一の大判、小判などができました=甲州金や、各戦国大名が領国内での流通を目的とした領国貨幣だけでなく、全国流通目的の大判は、秀吉時代の1588年に造られ始まったとされる天正大判(重量は京目の44匁2分)の例があります。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E6%AD%A3%E5%A4%A7%E5%88%A4 *軍功を挙げた者に、その場で恩賞として与えた=戦国時代の合戦を描いた書物に、戦功を挙げた将士に、大将が手ずから金を与えたとする記述があるだけでなく、貰った将士も戦場にとって返したとの記述も見えることから、皮袋等に入っていたとしても、砂金ではとって返すような行動は難しいのでは思います。なお、鎧には物入れの袋がありますので、金のインゴット(42文目だけではなく、もっと重量の少ないものを含め。たとえば、小額の甲州金など)ならば入れやすく、落としにくいのではと思います。 議論が煮詰まってくると、木を見て森を見ずとなることがあります。身近な例があると、どうしてもその例を中心に考えてしまい、結果として木を見て森を見ずとなるのだろうと思います。昔、論文指導のときによく注意したものですが、今、自分自身がそのような状態なのかもと危惧しています。 度々回答申し上げ、煩わしいこととお思いになられたでしょうが、ご勘弁ください。

kouki-koureisya
質問者

お礼

分かりやすくまとめて下さったので大助かりです。 よく分かりました。 * 印の解説もとても役立ちました。 >ともかく、私が言いたいのは、「枚」は、金・銀のインゴットを1枚、2枚と呼称したことから始まり、計数単位、重量単位として使用され、それが砂金にも適用されたこと。 >*室町時代の中頃には、金の定量のインゴットが存在したということです。 これが「枚」の結論ですね。 計数単位でもあり重量単位でもあるということ、よく分かりました。 >なお、鎧には物入れの袋がありますので、金のインゴット(42文目だけではなく、もっと重量の少ないものを含め。たとえば、小額の甲州金など)ならば入れやすく、落としにくいのではと思います。 そうなんですか!! 物入れの袋があるとは知りませんでした。 しかし、考えてみれば、あって当然ですね。 市立博物館は鎧を常時展示しているので、見てこようと思います。老人は入場無料ですから。 >度々回答申し上げ、煩わしいこととお思いになられたでしょうが、ご勘弁ください。 ご勘弁くださいなんて、とんでもございません。 しつこい私に根気よく付き合って下さって真にありがとうございます。 お陰さまで歴史の断面を楽しむことができました。 感謝申し上げます。 追伸:日曜日に締め切る予定です。

  • fumkum
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回答No.13

>他に米が8万5千石ほどあったとされています。 金子が、千枚はないが、八百枚あまりあるとのことで、厖大な量である銀と米に比べるとなぜかすっきりしない数値ですが、戦中のことですから何か事情があったのでしょう。 銀が多い理由は二つ考えられると思います。 1、播州姫路は西国に属しますので、銀遣い地域であること。 2、前回の回答の中の、『生野銀山史の研究』に「天正8年頃に但馬金山つまり生野銀山が秀吉の所領として与えられたものであろう。」とあるように、生野銀山が秀吉の所領となっているとされること。 「枚」に関することはのちほど。昼休みが終わる時間なので。

  • fumkum
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回答No.12

また、追加で申し訳ありません。 Wikiの「秤量銀貨」の項目に、次のような記述があり、銀の事ですが、10両を「枚」という単位で呼ぶこと記載されています。ですから、金も10両が金一枚 日本では秤量銀貨の量目表示は戦国時代末期以降、貫および匁の単位を主に用いたが、それ以前は43匁(約161グラム)を銀拾両(十両)とし、これを銀一枚(ぎんいちまい)と呼ぶ単位が用いられ、江戸時代でも恩賞、贈答用にはこの単位が用いられた。一方、中国では両といえば専ら秤量銀貨の単位であり、テールと呼ばれた。 やがて灰吹銀を譲葉の形状に打ち伸ばした古丁銀が登場し、これが江戸時代の丁銀の原型となり、量目は不定であるものの銀一枚が大方の目安であった。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A7%A4%E9%87%8F%E9%8A%80%E8%B2%A8

kouki-koureisya
質問者

お礼

単なる歴史好きの、思いつきの質問に史料を交えて詳しく教えて下さって真にありがとうございます。 私は、「砂金」と「金鉱石から精錬した金」をごちゃ混ぜにしてしまって、整理できませんでした。 これまでのご回答から私が理解したことをまとめておきます。 1.姫路城の金子に関して。 1484、1488年段階で金の定量インゴットが存在し、流通していることから、この質問の天正8年(1582年)には、当然定量インゴットが存在したと思われる。 そこで、姫路城の金子は、インゴットの可能性が高い。 ここに言うインゴットは、「金錠」のことで、一つのインゴットは42匁である。 42匁の根拠は、 対馬宗氏特送使船が朝鮮にもたらす金塊は、「黄金六十二挺、各四十二文目」(『朝鮮成宗実録』十九年[一四八八]正月甲辰条)とあって、明らかに田舎目の四二匁を用いているから。 ただし、8百枚全てが同じモノであるとは断言できない。 城内の金蔵に「銀子は七百五十貫目ほと可有御座候金子は千枚迄者無御座候八百枚之少し外可有御座候」(『川角太閤記』)とあるが、厖大な量である銀を概数とはいえ把握しているが、金子が、千枚はないが、八百枚あまりあるというあやふやな数から、おそらく数種類の「金錠」や「譲葉金」が混在していたのではないかと私は推測しています。 以下、書きながら疑問に思ったことをメモしておきます。後日、調べてみます。決して回答を要求しているものではありません。 京と地方で量目に差があるのはなぜ。匁の原器は。インゴット以外に譲葉金は金蔵にあったのか。ホントに金銀残らず現物を配ったのか。貰った武将は何人。金銀持って戦に臨んだのか。 2.「枚」に関して。 中世末から近世にかけて、なまこ状のインゴットを「枚」と数えていた史料がある。 銀は“重さの”10両を1枚と呼んでいた。 wiki 「秤量銀貨」の項目に、 日本では秤量銀貨の量目表示は戦国時代末期以降、貫および匁の単位を主に用いたが、それ以前は43匁(約161グラム)を銀拾両とし、これを銀一枚と呼ぶ単位が用いられた。 これを裏付ける例。(枚の使用例) 『生野銀山史の研究』から抜粋するが他に多数の例あり。 ア.天正9年秀吉よりいくま佐介宛の銀山正月分公用銀50枚(1,650匁)の請取状 イ. 慶長3年の豊臣氏の蔵納目録によると、慶長2年の但馬銀山伊藤石見の扱分は、62,267枚 (2,677,481匁〕で、当時の大銀山たる石見銀山の運上分を合めた中国諸々銀山柳沢監物の扱分の 4869枚に比較すると非常に懸隔がある。 疑問は、アの1枚は33匁であるが、イの1枚は43匁である。 これは、( )内の匁の数値は、筆者の換算ミスと思われる。 質問した内容に関しては、お陰さまで疑問は解消しました。感謝申し上げます。

  • fumkum
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回答No.11

追記、追記で申し訳ありません。小出しにしているわけではないのですが、調べることと、回答することがちぐはぐになっています。 さて、『古事類苑 泉貨部 秤量部』に、次のような記述があります。 〔進退記一〕板金の事、是も殿中にては披露なし、又進上もなし、私ざまにての事也、五枚十枚百枚とも候へば、折又は盆などにすへ候て披露候、○下略 折=折敷のこと 〔進退記〕は、江戸時代中期の旗本伊勢貞丈の著作ですが、伊勢貞丈の家は、室町幕府の政所執事を世襲し、将軍子弟(次期将軍も含む)の父親代わりとして養育に携わり、将軍の一の側近として幕政に重きをなした(裏面で幕政を壟断した)家です。小笠原家と共に、室町幕府の武家礼式を伝える家ともされてきました。その著作ですから、室町幕府の故実を伝えている箇所だと思います。板金を枚と数える故実が分かります。 伊勢貞丈 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%8A%E5%8B%A2%E8%B2%9E%E4%B8%88 ところで、大事なことを2点いつも忘れるのですが、まず1点目は、「金挺」「金鋌」などの表記は、漢文的な表記で、「延金」「板金」「金錠」などと同様なものであろうと思われることです。 2点目は、「金挺」「金鋌」「延金」「板金」などは、鉱山などからの上納用、高額な商品取引の決済用(貨幣類似)だけでなく、贈答用(献上・下賜なども含む)、細工物などの原材料としても利用されていたものです。これは、鉄廷などにも見られることです。ですから、朝鮮などの外国との取引用だけではなかったということです。そのため、定量での成型が求められたものと思われ、両目の基準が朝廷・幕府などにより定められたのだと思います。 なお、使用については、銀と同じように、切り取って秤量する方法もとられたとされます。 今回も勉強させてもらいました。調べることで自分の間違いにも気付きますし、新たな疑問も湧いてきます。また、自宅にある書物を軽視して、図書館や書店を利用することをしてしまい、回答までに時間がかかってしまいました。『古事類苑』の記述に早く気がついていればと悔やまれる反面、知見が広がる機会をつくっていただき、感謝申し上げます。

  • fumkum
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回答No.10

丁重なるお礼をありがとうございます。調べて同じレポートの行き着くとは面白いことです。 さて、私も実はお礼の文章を読まずに回答したものですから、追記になります。 なまこ状のインゴットを「枚」と数えるのかということですが、度々ですが、『金属の中世 資源と流通(考古学と中世史研究)』の中に、現代の例ですがあります。佐渡奉行所の発掘調査のレポートの個所です。発掘調査の結果、灰吹法に用いる鉛のなまこ状のインゴットが出土し、その個数について「枚」という単位で文中で表記しています。急なので、古文書に基づく根拠となる文献を上げることができませんが、中世末から近世にかけて、なまこ状のインゴットをも「枚」と数えた用例を読んでいます。 さて、「枚」の使用例についてですが、次のような例があります。 『生野銀山史の研究』の「第一節 生野銀山の開発と盛山」の「銀山の領有」などに、銀○○枚の記述があります。 『生野銀山史の研究』 http://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/2433/72859/1/KJ00000077660.pdf

  • fumkum
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回答No.9

「挺(テイ)」についてですが、養老令では「廷(テイ)」の字が使われています。禄令の中に例がいくつかあります。 季禄条=以2鉄二廷1。代2鍬五口1。 食封条=東宮一年雑用料。-中略-鉄五百廷。 皇親条=鉄四廷。 「廷」は次のような意味を持っています。 1には。平らに地ならしをした所。 2官吏が立ち並んで朝礼をする広い庭や白州のある役所。 3まっすぐ、平らにならしてあるさま。 この内、3のまっすぐ、平らにならしてあるさまが、金属のインゴットの形状を表します。 「廷」は「挺」・「鋌(テイ)」と互換して用いられます。中国の唐代の「金鋌(キンテイ)」の出土品の写真です。漢代の一両が14,18g、その後変化し、唐代には一両が12,5gなので、1,3については、おおよそ1が漢代の基準で20両。3が唐代の10両にあたることになります。2については量目の基準がはっきりしませんが、表面に刻み傷があるとしていますので、刻んで使用し、その分重量が減少したのかもしれません。 ともかく、時代が古いものですが、実際の「金鋌(キンテイ)」の出土品です。形状がお分かりになると思います。 http://abc0120.net/words/abc2007080202.html なお、重量の単位としての両(その他の基準もありますが)は、中国でも、日本でも幾たびか変更されます。日本の場合、中国の影響下にあり、大宝律令で1両(大両)として、37,5gとされましたが、室町時代に2回改訂されたとしてます。

回答No.8

こんにちは。 あなたが一生懸命「笹川18枚村」を調べて下さって、とても嬉しく思います。 確かに現在は、重要景観になっていますが、近くに集落もありますので、痕跡を見れないことはありません。 また、国道添いに「佐渡ゴールド・パーク」という施設があり、有料ですが、幾つもの長方形の箱の中に、砂金を含んだ砂があり、プラスチック製の皿で砂をすくって水に揺らすと、運が良ければ、砂粒をやや大きくしたような砂金が採取できます。もちろん、お持ち帰りができます。ただし、一攫千金は夢見ない方が良ろしいでしょう。 機会があったら、是非、佐渡観光をしてみて下さい。 新潟港、あるいは、上越市直江津港からジェット・フォイルという高速船が就航しており、片道1時間で渡ることができます。 また、カーフェリーもあり、こちらは2時間20分の船旅です。

kouki-koureisya
質問者

お礼

こんばんは。 bungetsu様の「枚は重量の単位」とのご指摘のおかげで、こんなに勉強することができました。 感謝の気持ちでいっぱいです。 元気なうちに佐渡を訪れる機会が来ればよいのになぁ、と思っています。