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中国大返し
豊臣秀吉の中国大返しにかかった移動時間を教えて下さい。 途中の休息時間を除いた時間を知りたいのですが、、、
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- Pinhole-09
- ベストアンサー率46% (597/1294)
少ない資料よりの推定です。 6月4日清水宗治切腹で和平交渉の第一段。 6月5日に最終折衝と陣払い。 先達が沿道の炊き出しと松明などの手配のため、早馬で 先発。 6月6日の午前、高松城水攻めの堤を切り放水。 午後2時頃2~3万の秀吉軍撤退開始。 放水であたりは水侵しで、たとえ毛利軍の気が変わり追撃 しようとしても困難、秀吉軍の行進も難渋。 それでも秀吉軍は隊伍を乱さないようにして堂々と行進。 (敵地内であり敗残兵と間違えられないよう) 4里程先の、宇喜多領の沼城(のちの亀山城)へ到着。 大軍の長い縦列行進で先頭と後尾では1時間位の差か。 6日の夕方7時ころには全軍到着。 夕食と翌日の食を準備し、翌日の強行軍にそなえ、休養。 秀吉は与力になりそうな諸将に書状を出す。 7日の未明2時ころ沼城を出発。 途中朝飯休憩、用達、(朝6時~8時位か)速足で行軍。 途中炊き出しの食事をしたり、休憩を取ったりするとともに 夜中10時~未明2時位仮眠を取った後出発し、 8日の朝7~8時には14里先の姫路城到着。 食事後徒歩の兵たちは泥のように眠り込んだことでしょう。 馬に乗っていた秀吉たちの将は,いろいろ手配があり、休養は そのあと。 8日は1日休養。 9日の未明2時出発。尼崎まで20里を2日掛けで、1日10里は まあ、まあ、なんとかなる行程です。。 しかし前々日の強行軍のあとでは相当こたえるはずです。 今野信雄著「江戸の旅」 岩波新書 p122 に 江戸ー伊勢 片道12日の伊勢参りとあります。 江戸ー伊勢 間は114里あり、途中7里の渡し(舟)はありますが 江戸の男は毎日10里弱歩くという驚くべき早さです。 時速1里(4km ) 位と思います。 正味1日10時間弱歩くわけです。 ただ街道が整備された江戸時代と戦国時代、旅行者と重武装で 武器をもった兵士では条件は違いますが、非常時ということで 力は充分出るはずです。 高松城ー尼崎 38里(150Km位)を正味38~40時間かけて 行軍したものと推定されます。
- izuhara
- ベストアンサー率31% (97/310)
史料の制約で不可能です。
- あずき なな(@azuki-7)
- ベストアンサー率16% (1963/11745)
んー無理 秀吉は先に退却しました 主力軍はあとから追いかける感じです 自分自身はほぼ休憩無しです 馬上で仮眠を取りながらその間も付き人を交代させて移動しました まともに休憩をとったのは姫路に着いてからです 姫路城では丸1日兵を休ませています 実質5日程度です 当時では不可能な移動をやってのけました
- kamobedanjoh
- ベストアンサー率27% (1021/3686)
俗に「光秀の三日天下」と云います。 信長の訃報に接して水攻めしていた高松城の毛利軍と和議を結び、とって返すのに二日くらい要したのでしょう。三日目には天王山を占拠していたようです。 和議に際して、毛利軍の旗指物の借用に成功したのだとか。光秀軍は、敵陣に毛利の旗が翻るのを見て俄に戦意喪失。こうして秀吉の天下掌握への道が開かれました。 大返しに要した時間は正確には計りかねますが、二日足らずであったろうかと。 武田の騎馬隊は有名ですが、当時の戦闘は騎馬隊だけでは成立しません。 駆け足を強いられた下級武士や足軽・小者達は、随分体力があったのでしょう。
- trajaa
- ベストアンサー率22% (2662/11921)
先頭と殿でも結構な時間差があると思われるがどういう風に考えようかな
- eroero4649
- ベストアンサー率32% (11074/34518)
逆に聞きたいんだけど、時計の(持ち運べ)ない時代にどうやって休憩時間を図ったと思う?