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本能寺の変での豊臣秀吉の「中国大返し」について
ウィキペディアには次の説明があります。 ---------------- 早くも6月3日には信長横死の報を受け、急遽毛利との和平を取りまとめた。6日に毛利軍が引き払ったのを見て軍を帰し、12日には摂津まで進んだ。ここで摂津の武将中川清秀・高山右近・池田恒興を味方につけ、さらに四国出兵のため堺にいた織田信孝・丹羽長秀と合流した。これらの諸軍勢を率いて京都に向かい、13日の山崎の戦い(天王山の戦い)で光秀を破った。この非常に短い期間での中国からの移動を中国大返しと呼ぶ。 ---------------- 本能寺の変は、6月2日ですから、翌日には正確な情報を手にした模様です。 この手段は、以前、「山ごとにのろしを次々に上げさせた。」という話を聞いたことがあります。 自分では、馬を走らせたり、東風に乗って瀬戸内海を帆船で走らせたり、・・・・などを考えつきます。 当時、どのような手段で情報伝達を図ったのでしょうか。 史実に基づく回答でも結構です。 また、個人的意見でも結構です。 できたら、その根拠をいくらか示していただければありがたいです。 教えてください。
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まあ、替え馬をもってしても、(モンゴルの馬なら話は別ですが) 馬はないでしょう。馬借の運搬ならいいですが、この時代の馬はスピードを要求されることには適していません、そんなことしたらすぐ死ぬでしょう。何十頭も引き連れていかないと、たどり着くのも大変だとおもいますよ。ゆっくり山岳を登ったり降りたりのロバみたいなものですからね。騎馬武者としてのシンボルだけで、実戦では馬から下りて戦うほど高価ですしね。ただ、合戦で逃げるときは、みんな鎧で重たいので、こんな馬のスピードでも追いつけない。のろしは、事前の打ち合わせ事項についての事でない限り(後の大垣大返し)考え付かないでしょう。船も気候というものを相手にして、急をクリヤーできません。残るは 走る。 京から高松城までは、自国みたいなものでしょう、秀吉のことですから、京、安土への往還のため、また、道と宿の整備は信長がやってくるわけですから事前に済ませていた事でしょう。他国の関所もないんですから、走りやすいともいえますわね。歩き方も走り方も、今と違って、長距離OKの走法(同じ方の手と足を同時に出す)ですから、ねじれず、体への負担も少なく、今の時代の人より、簡単にやってのけたんじゃないですか。旧日本陸軍の歩兵の身体能力はピカ1だそうです。それより以前の人の身体能力はもっとだったといえると思います。その中でも特にずぬけた人が、そんな役を引き受けていたとかんがえるのは普通のことでしょう。今考えるほど大変ではなくね。 急を要するとき、身ひとつ このシンプルさに勝るものは、ないでしょう。 この時代の情報伝達は、突発的なものには、これしかなかったとおもいますね、
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- debukuro
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秀吉の陰謀です 秀吉が光秀をそそのかして信長を討つように仕掛けた 光秀に援軍を要請したのは秀吉であり光秀が無防備の信長を討つことはすでにわかっていた だから信長に押さえられていた落城寸前の毛利を懐柔して和議を成立させることはたやすいことです なので京都に密偵を置いておき信長が討たれるとすぐに知らせに発った 光秀は秀吉と合流すべく西に向かったが秀吉が光秀討伐にくることを知って急遽不利な天王山に陣を構えた 単独で信長を討てば秀吉の大軍と戦うことになり勝ち目はない 藩のことを考えると光秀としては軽はずみなことはできません 光秀軍単独で信長を討つなどということは考えられないのです 秀吉に迎え入れられるという約束があったからできたのです これが私の推測です
- pri_tama
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ウルトラマラソンの100Kmの記録(日本人の砂田貴裕さん)が6時間13分33秒ですから、1日で走破できない距離では有りませんが…。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A6%E3%83%AB%E3%83%88%E3%83%A9%E3%83%9E%E3%83%A9%E3%82%BD%E3%83%B3 24時間走だと下記のページの筆者は272kmも走ってます…。 http://homepage3.nifty.com/ryo-1/kiroku.htm 当時は密書を保持して長距離走破は相応に需要が有ったでしょうから人員の確保は難しくないのかもしれません…。
- jkpawapuro
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丸二日近くあるので、まさに駅伝のごとく馬を替えながら走りまくれば普通にいけますよ。このころ秀吉の拠点は姫路ですから、姫路まで最初の馬を潰す覚悟で走れば(摂津でも馬を替えたかも)、姫路から先は中国攻略のための輸送拠点がところどころにあるでしょうから、そこで馬を取り替えてもらって走りまくるだけです。
- Kiriyama-taicho
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のろしでは事の詳細は無理でしょう。 明智光秀が織田信長を討つことが事前に分かっていない限り、のろしなどの 単純信号ではその事実だけであっても伝えるのは困難だと思います。 浅野匠上が江戸城内で刃傷に及んだ時、第一報を伝える早かごは4日半で 赤穂に到着したそうです。1日150km。人を乗せたかごでの速度です。 そこから考えるとかごではなく、忍者が駅伝リレーをして走り続ければ 200kmを1日半で走破することは可能だと思います。 変は6月2日の早暁ですし、秀吉の手に渡ったのが3日の夜だとすると 約2日間時間がありますので、簡単なメモ書きのような文書を草の者たちが リレーして運んだんじゃないかと思います。 とはいっても秀吉が予め京で何事か起こることを予想して忍びに京都の 情勢を見張らせ、かつ岡山までの経路上に忍を配置していなければ難しい だろうと思います。 毛利方に向かった使いを捕縛したというのはできすぎですね。
- kusirosi
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備中高松城を包囲する羽柴秀吉の陣中に、 本能寺で信長に同伴し辛くも難を逃れた茶人・長谷川宗仁の 発した早馬の飛脚が付秀吉に訃報を知らせ、 さらに、光秀が、反信長勢力の巨魁である毛利家と、足利義昭の鞆幕府(室町幕府残党)の、支援を得ようと発した甲賀の密使が、不運にも、 高松城救援に向かった毛利本隊と、秀吉の本陣を間違え、捕らえられ、 本能寺にて光秀が信長を殺した、そして明智と毛利で手を結び室町幕府を再興し天下掌握をしようという密書が、秀吉の手に渡った。 ・浅野家文書 他 いずれは、わかることだが 長谷川宗仁の機転と、密使の不運がなければ、日本史は すこし変わったであろう(^^♪