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中国大返し 気づかなかったの?光秀さん
備中高松からワープしたってなら分かるけど 実際姫路に帰り着くまで数日掛かってるんだからその間明智方に秀吉の行軍が知らされなかったんでしょうか? 秀吉は別に大返しに際して情報が漏れないように徹底していた様でもないし 明智の忍者でもいればすぐに引き返してきてることがバレたと思うんですが?
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明智は秀吉をかなり軽視していたのだと思います。 戻ってきても支障ないとも考えていたか、あらかじめ秀吉と何か密約みたいなものがあったのかもしれません。 越中の柴田や大坂の丹羽のほうを脅威に感じ、情報集めはそちらのほうを重要視していたのだと思います。 仮に忍者を秀吉方に放っていたとしても高松城攻めの際に包囲網を張っておりそこで捕まってしまったか、秀吉軍に気づかれない方法でもっと早く情報伝達する術がなかったかのどちらかです。
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- 0fool0
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情報伝達も徒歩でしょうから、この場合では其れほどのタイムラグは無かったでしょう。 それに例え早く光秀に情報が届いても、それから秀吉に対抗策を講じて、それを各地・要所に伝達するのにまた時間を消費してしまいますし、兵の集結の時間も掛かってしまいます。 しかも、光秀は周辺勢力の掌握がそもそも遅々として進んでいなかったのが事実です。 信長の死すら確認出来ず、周辺勢力の懐柔をする時間も無かったので、実質何も準備が出来なかった訳です。 其れに対して秀吉は大義名分を掲げて、信長は無事だとし信孝を総大将に各勢力に書簡を出し懐柔する事に成功しています。 行軍に対して必要な兵糧も、先発隊に触れを出させる事で、道々の住民から炊き出しを受け、非常に身軽に行軍できた訳です。 光秀にとって(当時の常識で)、毛利との和議を含めて十日掛からずに秀吉が帰って来るのは不可能だったのです。 4日若しくは6日(両説有り)に大返しの行軍の開始、光秀に秀吉接近の報が入ったのが10日で秀吉が尼崎に11日着、12日に布陣、13日に全軍衝突・勝敗が決する。 当時の感覚としては正にワープして来た位で調度いい表現じゃないかと思います。 これと好対照なのが柴田勝家で、3日に本能寺の変の報を受けた後合戦準備を始めるべく「居城の北ノ庄城に戻り」、出した先発隊が近江長浜に18日に着いたとあります。 既に光秀勢が壊滅している事も知らずにいたのですから、秀吉との情報収集力の差も大きかったですね。
お礼
ありがとうございました
- jkpawapuro
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6日に秀吉高松城撤兵、10日に明智光秀秀吉接近の報を受け取る。 12日に山崎(摂津山城国境)で1万以上の兵を率い対峙、13日に戦闘。 時系列はwikipedia見ただけですが、ちゃんと情報を入手し対処していますよ。 しかも近年の発掘で、山崎の戦いでは光秀側はきちんと陣地構築できたうえで戦っていることが分かっています。 播磨は秀吉の領国、摂津も秀吉側についています。 敵地を超えてこの距離を4日で情報をうけとるというのは上々の結果です。 単に秀吉側の戦略移動がきちがいじみて早かっただけですが、それに対しても立ち遅れもせずきちんと迎撃態勢をとれています。 単に光秀側の多数派工作が失敗して戦に負けただけで、気づかず防備の整わない状況で負けたわけではないですよ。
お礼
ありがとうございます
- tanuki4u
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知ることと、判断することは別物 東方に向かって数千以上の人間が移動中というのは情報として知っていても、それが明智軍に対抗できるだけの軍事力を持った集団かどうかは判断できない。 背走軍と判断されたのではないかと思われる
お礼
ありがとうございます゜
- lv4u
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この件については、先日、幸福の科学の大川総裁が「黒田官兵衛の霊言」を収録されたとき、質問者が官兵衛の霊に対して「なんで大返しが成功したのですか?」といった質問をされていました。 それによれば、「あまりにも素早く秀吉の軍が移動できたから」ということでした。 現代の感覚でいえば、「午前中に信長が死んだとすると、午後には秀吉軍が到着した」っていうくらいだそうです。 (この霊言は、-天才軍師が語る大河ドラマを100倍楽しむ法-として発売されると思います) 現代戦でも兵站部門は大切ですけど、秀吉の軍は、先行部隊を出して、食事の用意ができる補給陣地を予めいくつか作っていたようです。 それによって、秀吉の軍は想定外のスピードで戻ることが可能になったそうです。 軍師官兵衛の進言もあったでしょうけど、その進言を受け入れる秀吉があってこその大返し成功だったといえるようです。
お礼
ありがとうございます
- 1paku
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秀吉だけでなく、他の武将たちが前線からUターンして、主君信長の敵討ちというパターンは予想していたでしょう。 光秀さんとしては、次の天下人に指名されるよう朝廷工作に重点をおき、次は天下人として自分の味方につけと、各地の有力者を説得の最中。秀吉軍が迫ってくるという情報があっても、あわてた印象を与えては味方になるはずの人がみんな逃げてしまう恐れがある。動くに動けないという判断。 最低限の準備だけして、後は合戦ではなく話し合いで秀吉を説得できると考えてた節も。 山崎の戦いは、天王山をどっちが制すかで勝敗が決まったと言われてることからも、光秀としては、勝てるだけの軍を配備したと言い訳したいでしょう。負けたのは現場の指揮官が悪かったと。。
お礼
ありがとうございます
- jun-tsuboi
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こんにちは。 秀吉の中国大返しは知っていたと思います。 秀吉は武器・甲冑を捨て、先行していた配下に 堺で武器・甲冑を大量購入させています。 光秀は援軍を待っていたのです。 その援軍が黒幕です。 黒幕は家康かな~?
お礼
光秀は堺を見物中だった家康に軍勢を差し向けてます 味方なら討ち取ろうとはしないでしょう
お礼
毛利に密使を送ったってことは 光秀は毛利と組んで秀吉の挟撃を画策していた可能性もありますね 柴田は上杉と交戦中 丹羽は織田信孝と四国へ渡海するために堺に居ましたが信孝を守るので精一杯で動けずでした そこで娘婿の細川忠興に援軍を要請するものの 忠興は妻のガラシャを幽閉して援軍を拒否 さらに親友の筒井順慶にまで見放された光秀 とにかく近場で味方を集めようとしていた感が伺えます